横浜市職員落語愛好会 九色亭おたまさん

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 左半身が不自由だが、そんな障害にも負けず、落語を演じ、笑いと勇気を与え続けている─そんなアマチュア女性落語家が、神奈川県横浜市にいると耳にした。

【写真】給食のおばちゃん時代と落語家としての顔

 その人は、故・桂歌丸師匠が館長を務めた『横浜にぎわい座』にいた。1階席はほぼ満員。賑やかなお囃子(はやし)とともに緞帳(どんちょう)が上がると、緑色の着物姿の女性が現れた。

元・給食のおばちゃん

 深々と一礼すると、

「こんなに大勢……。本当にうれしいですねえ。わかっているんですよ、美人のおたまに会いに来てくれたんでしょ!?」

 巧みな“つかみ”に会場から笑い声が上がった。

 彼女の名は九色亭(きゅうしょくてい)おたまこと、土屋佐代子さん(76)。

 市の職員や退職者などが会員となるアマチュア落語会、『横浜市職員落語愛好会』の最高齢女性会員にして、同会が誇る美人(?)落語家のおひとり。

 この日は毎年6月と11月に開催される『落語の会』演者のひとりとして、女性の悋気(嫉妬心)がテーマの古典落語『悋気の独楽』を演じた。ちなみに『九色亭』の高座名は、以前“給食のおばちゃん”をしていたことによる。

 舞台の上でおたまさんが、登場人物の本妻と旦那、その愛人と使用人を、本妻はしっとりと、愛人は艶っぽく。声色を変えつつ、巧みに演じ分けていく。

 演じながら時折、手ぬぐいを左の口元に当てる。左半身の感覚がなく、左目は見えず、まぶたも動かない。左耳も聞こえないし、一昨年、関節を手術してからは正座もできなくなった。今では身体障害3級を持つ。

 多くの観客がそんなおたまさんの姿に元気をお裾分けされて劇場を後にするのだ。

 九色亭おたまこと、土屋佐代子さんが言う。

「何度も病気して、息子を失って“なんで私ばかりが!?”と、何度思ったものか。泣くのはもういいよ。これからは、ずっと笑っていたいなあ」

 土屋さんが落語を始めたのは、遠く30年以上前の昭和62(1987)年、“給食のおばちゃん”をしていた時代のことだった。

「車で(横浜市)あざみの小学校まで通っていたんですけれど、インターチェンジを下りると途端に見えなくなっちゃうんですよ、周りが。“あれ!? おかしいな”と。それで眼科医に行ったんです」

 何軒もの眼科に通ったが、かいもく原因がわからない。ようやく診断がついたのは、初診から2年もたったあとのこと。MRIを撮ってみると、眼球の後ろに腫瘍があった。脳腫瘍だった。

「それで即、入院。頭をクリクリに刈り上げました。普通の人はそれだけで相当ショックを感じるみたいだけど、私、日本舞踊をやっていてカツラをかぶるときに頭をピタッとまとめていたから、それには違和感がなかったの」

 だが、こんなふうに気丈でいられたのも、家族や友人の見舞いで賑やかな日中だけ。消灯後ベッドの中で頭に浮かぶのは“私、このまま死んじゃうのかな……?”。

心が折れそうになった大手術

 不安な彼女を支えてくれたのは、同じ脳腫瘍で入院していた仲間たちだった。

「4人部屋で、おばあちゃまと、中学3年生だったJちゃん。亡くなっちゃいましたけどね。あと、朋代ちゃん!」

 特に、同部屋になった小学4年生の“朋代ちゃん”こと山本朋代さんには、どれだけ励まされたことか。母と娘ほど年の差がある2人だが、仲よしになった。

「娘というより、同じ病気を乗り越える“友人”って感じかな。だってねえ、ベッドの上でこんなになっていた(身体を縮こませる)女の子が、手術後はこんな(大手を振って歩く)ですもの。なんでこんなに元気に歩けるんだろうってぐらい。彼女にしても必死に頑張ったんだろうな、って思った。年齢じゃなかったんですね」

 “小さい身体で朋代ちゃんも頑張った。だったら私にだって頑張れる─!”

 元気になった朋代ちゃんの存在が、何より心強い無言のエールとなった。

 手術当日は“手術を終えたら車を買ってくれよな!”という次男・誠さんの言葉を背に手術台へ。

 当時を思い出し、誠さんが笑いながら言う。

「不安がっているのがわかったから、不安を取り除こうと思ってね(笑)。ああした性格だから明るく振る舞ってはいたけれど、やはり身内には、“大丈夫かな? 大丈夫だよね?”と何回も尋ねたりして。でも見えなくなる原因が脳腫瘍とわかってからは“闘ってくるからね!”と。前向きなんですよ」

 ドクター2人がかりで執刀した数時間の大手術は無事、成功。うれしいことに大きな障害も残らなかった。とはいっても、意識が戻って目が覚めたときには指すら思うように動かせず、おまけに額には大きく切開した痕が……。思わず心が折れそうになった。

 傷痕など、身体の機能を回復させるためのリハビリの厳しさを考えれば、どれほどのものでもない。そう考えて、土屋さんは自宅で3年間もの時間をかけ、リハビリに励むことになった。

 長いリハビリ期間中つらかったのは、大好きな給食の仕事ができなかったこと、そして何よりも、子どもたちの笑顔を目にできなかったこと、と振り返る。

 そんな土屋さんが給食の仕事に就いたのは昭和55(1980)年、当時、小学校に通っていた息子の笑顔がきっかけだった。

「長男の国人がね、学校から帰ってくると、“今日も牛乳もらって飲んだんだ!”と喜んで報告をするんですよ。

 “もらったってどういうこと?”と聞くと、給食の牛乳に余りがあるでしょ?“今日も給食おいしかったよ!”と言いに行くと、喜んで余った牛乳をくれたそうなんです」

子どもたちの笑顔がうれしくて

 度重なるプレゼントにお礼を言おうと給食室を訪れたときのこと、ふと好奇心に駆られて尋ねた。

「給食の仕事って、どんなふうに就くんですか─?」

 聞けば公務員で試験を受ける必要があるという。受験には36歳の年齢制限があり、土屋さんにとっては上限の年だった。

「それで受けてみようかなと。公務員だし、お料理作るのが好きだったから。試験会場は(受験生で)ぎっしりでしたね」

 結果は見事、合格。

 ひょんなことから給食のおばちゃんとなり横浜市のあざみの小学校へ赴任した。

 おしゃべり好きの土屋さんはたちまち小学校の人気者に。子どもたちからの“ごちそうさま!”の声と笑顔が何よりもうれしかった。

 だが、これから始まるリハビリでは、そんな毎日から遠く離れて、身体を無理に動かして運動機能回復に励まなければならない。

 手術直後の寝静まった病院の廊下を歩行器で歩くことから始め、家でも身体を動かす訓練に励む。その合間には、病院まで足を運んでのリハビリが待っていた。

 次男の誠さんが回想する。

「リハビリはちゃんとやっていましたよ。とにかく“治りたい!”というのが根底にあったんだと思います」

 “治りたい! どうしても復帰したい!”そう思わせたのは子どもたちの笑顔。それが再び目にできると思えば、リハビリのつらさも吹っ飛んだ。

 発病3年後の平成2(1990)年、土屋さんは念願の給食の仕事に復帰する。

 復帰後の職場は、横浜市神奈川区にある浦島小学校。児童250名分の給食を作る毎日が始まった。

「うれしかった。また働けるもんね(笑)。子どもたちから、“おいしかった!”なんて言われるとうれしくてね……。ありがとう、ありがとうって」

 とはいえ、給食の仕事は重労働だ。朝8時に開始して、昼直前の11時半までにわずか3名のスタッフで、250名ぶんの食材を刻み、煮て焼いて、炒めなければならない。

 土屋さんと同じ年に横浜市の給食職員となった友人の関戸春江さん(77)が言う。

「私たちのころは、給食室の室温が42〜43度。暑くて着ているTシャツを5回も6回も着替えるような状態でも、ホコリが入るから窓も開けられません。そんな地獄のような暑さの職場に大病をして復帰して、少しでも余裕があれば、いろいろなことに挑戦するのが土屋さん。若いときから踊りにも挑戦して、師匠の資格も持っているんですよ」

 ようやっと戻れたいつもの生活。ハードでも、やりがいある毎日。ところが……。

なかなか出せなかった離婚届

「入院して女房が(家に)いないじゃない。やっぱ寂しいんでしょう、男の人って……」

 ご主人の進一さんとの仲がぎくしゃくし始めたのだ。

 昭和33(1958)年、土屋さん21歳のときに結婚した進一さんは、花嫁の両親のほうが惚れ込んで結婚をすすめたという人だった。

「優しい人でね……。息子が病気をして鼻が詰まったときには、口で吸ってくれるような人だったんです。母親だってできないよ、こんなこと」

 そんな夫に、女性の影がちらつき始めたのだ。

「別れるなんてとんでもない。いい女性がいて私と口をきくのもいやならば、1階と2階で別々の生活をして、私が夫のいる2階にお料理を作って持っていくって。そういってメモを置いてもダメだった。私、何か月、手元に持っていたかなあ……離婚届をね」

 次男の誠さんが言う。

「あとあとになって本音の部分を聞いたことには、“自分が病気のときにそんなことをしたのが許せなかった”と。

 3つ離れた兄と自分が成人というか物心つくまでは、別れたくなかったということは、直接おふくろから聞きましたね。18歳ぐらいのときかなあ、オヤジも交えて、何回か家族会議をしたのを覚えています」

 結局、進一さんが家を出るかたちで昭和62(1987)年に離婚した。

 土屋さんが、しみじみと振り返る。

「年を重ねることで私が強くなりすぎていたのかな……」

 病気や不仲を喜ぶ人はいない。だが、こうした不運こそが、人を成長させるものなのだ。年を重ね、病に見舞われることで強くなりすぎたのではなく、人として成長し、自立できたからこその離婚であった。

 そしてこうした不運は、ときに人生の次の扉を押し開ける機会をももたらす。

 身も心もボロボロになった土屋さんにもたらされたもの。

 それこそが、落語であった。

「主治医に“脳の活性化のために何かやったほうがいい”と言われて。そうしたらちょうど横浜市職員の落語の会があるのを知って。それで見に行ったんです」

 ズタズタになった心が、なにか楽しいことを求めていたのかもしれない。

 それまでは落語をやったこともなければ、見たこともなかった。だが初めて見るそれに、大きな驚きを感じた。

「だって、みんな笑っているんだもの。なんで笑っているんだろう、って。そりゃ、面白いことを言っているのは確かだけど、面白いことを言う人っていっぱいいるでしょ? それなのに、こんなに大勢の人がわざわざ500円(当時の木戸銭)のお金を払って笑いに来ている。“笑いってすごいな”って。それで私もやってみるかなあって。最初はできるかなぁ、できたらうれしいけどという気持ちでした」

 横浜市職員落語愛好会への入会にあたっては、その後1年間、考え続けたと語る。

落語の世界へ!

「途中でやめちゃったらさ、自分も嫌だし、会の人たちにも迷惑をかけるでしょ?」

 1年後の平成9(1997)年、54歳で横浜市職員落語愛好会に入門した。

「よろしくお願いいたします。脳腫瘍をやりましたけれど、頑張りたいと思います」

 そんな挨拶をすると、みんな快く受け入れてくれた。

 同会の演出担当にして最長老の空巣家小どろさん(68)と相談のうえ選んだ高座名が、『九色亭おたま』。 

 小どろさんが言う。

「定かには覚えてないけど、給食をやっていたから“おたま”でいいんじゃないか、と。本人もそう希望したと思うよ」

 かくして九色亭おたまの落語人生が始まった。

 まずは同好会のみんなの前で座布団敷いて、小噺の練習から。“隣の空き地に塀ができたよ”“へー!”

「みんなが聞いているなかで、そんなふうにひとりずつやるんです。だって長い落語なんてまだ覚える時間もないわけだから」

 とはいえ続けるうちに欲が出てくる。

「年もいっているからね、女性ものをやりたいんですよ。でも落語には女性ものって少ないの。その中からプロの落語家のテープを聴いてみたりして、一生懸命、女性がやれるものを探すんです」

 初めて選んだ長編落語は、

『紙入れ』。

 取材当日、われわれ取材陣の前で演じてくれたのも、この演目だ。自宅リビングにテーブルとイスをセットして毛氈(もうせん)を敷く。テーブルとイスの高さがぴったりなので、あたかも舞台上で座布団に正座しているように見える。

『紙入れ』は古典落語のなかの名作で、艶笑落語といわれるものだ。

 旦那の留守中、新吉が出入り先のおかみさんに口説かれる。そんなときに旦那が帰宅。あわてた新吉は旦那からもらった紙入れ(財布)を忘れてきてしまった。実はこの紙入れには、おかみさんからの恋文が入っていて……。

 そんな色っぽい話である。

うれしいというより怖かった

 おたまさんの独演が始まる。

「あ〜ら、新さん、来てくれたのかい……?」

 それまでの親しみやすい、“元給食のおばちゃん”が一転、仕草も口調も色っぽく、浮気者のおかみさんに変身する。そんなおかみさんと、ドギマギしている新吉との口調の違いに思わず唸らされる。

 落語を覚えるときは、まずは落語のテープを何度も聴き、ノートに書いて覚えるという。“よし、覚えた!”と思えたら次はカラオケボックスに行き、たったひとりで実演を重ねるのだ。

 誠さんが言う。

「高座がある日という目標が定まると、ガーッといく人。でもカラオケボックスで練習しているとかは、人前では絶対に言わない。ひそかに練習、きちんと仕上げてから見せるって人ですね」

 そうした努力のすえに覚えた落語のお披露目の場は、年2回開かれる、横浜市職員落語愛好会の定例会。

「第1回は横浜市中区の関内ホールの大ホールで、500円の入場料をいただいて。うれしいというより怖かった」

 演じるうえで心がけているのは、落語の登場人物になりきって“この場面、自分だったらどうするか?”と考えること。

 おたまさんの1年後に同会に入会した杜の家くるみさん(55)が、“落語家・九色亭おたま”の腕前をこんなふうに証言する。

「おたまさんは凄いライバルだと感じたのを覚えています。あの存在感、しゃべり方、仕草……。踊りのお師匠さんでもあるんで、色っぽい女性がお得意なんですけど、それは私がいちばん苦手な部分。自分の苦手を得意としている、対局にあるライバルって感じましたね」

 大人の色気を感じさせる仕草と話術で、おたま人気はぐんぐんと上昇していく。

 所属する横浜市職員落語愛好会は、落語家のみならず、マジシャンや講談師まで多彩な人材がそろい、求められれば月に数回、各地の敬老会や福祉施設などで演じてきた。

 そんな出前寄席の“つかみ”のところで身体の障害を観客に伝えると、演じ終えた後、そっとそばにやってきて、言葉をかけてくれる観客も少なくなかった。

「“頑張ってね!”とか“元気がもらえた。ありがとう!”そんなふうに言ってもらえる瞬間が、やっぱりいちばんうれしいですね。ありがとう、ありがとう」

 ファンからのありがたい応援がおたまさんを奮い立たせ、さらに稽古に熱が入っていく。

病、再び……

 だが病は、おたまさんを放っておこうとはしなかった。

 平成16(2004)年の春のことだった。

「頭が痛いのとうっとうしいのと。集中力もなくなってきて先生のところに行くと、即、入院」

 脳腫瘍の手術では病変部を切り取るが、それは身体に影響を与えないギリギリの範囲まで。おたまさんの頭にも、取り除けない病変部が残っていた。それがこの17年間に、成長してしまっていたのだ。

 桜咲くころ、頭をまた丸刈りにし、再び数時間におよぶ大手術を受ける。

 手術は成功。だが今回は左目は見えなくなり、左耳は聞こえず、左半身の感覚が失われた。前出・小どろさんが、直後の様子を明かす。

「神奈川リハビリテーションセンターっていうのがあるんだけど、ここに見舞いに行ったときには、歩行器につかまってようやっと歩けるぐらいの感じでね。“これは、もう落語はできないんじゃないか!?”と思ったよ」

 愛好会のメンバーほぼ全員が同じように思ったという。

 おたまさんも言う。

「手術の後、看護師さんが言うんですよ。“車に乗せて桜を見に連れて行ってあげるからね”って。リハビリで身体を動かそうとしてね。でも私は“桜なんていい! 横になっていたい!”って(笑)。

 つらかったなあ……。桜見ると、私、それを思い出す」

 とはいえ、幸運なほうだった。命は助かっても、植物状態になってしまうような人も珍しくはないのだから。

 給食の仕事への再びの復帰を期して、リハビリに励む日々が始まる。

 だが、そんなおたまさんに、さらに病が襲いかかる。

3度目の大手術

 翌、平成17年、今度は水頭症という脳の中に水がたまる病気を発症したのだ。3度目の大手術。今度ばかりは絶望感から、初めて“死にたい”と思ったという。

「“なんで私ばかりが!?”と。ホント、“なんで!? なんで!?”って。そう思いながら、笑ってごまかすの(笑)」

 八っつぁん熊さんをはじめ、落語の登場人物たちはどんなに貧しく生活が悲惨でも、どこか明るい。おたまさんもまた、どんなに病に苦しめられても常に明るく、決して負けない。

 そんなおたまさんを愛好会のメンバーたちもつかず離れずサポートする。

「“つらいときには何でも言って”って。行動も一緒だし、家族より頼れるかも(笑)。

 いい人たちばかりでね、手術した先生から“脳の活性化のために何かやれ”と言われなかったら出会えなかった。ご縁があったんだね。ありがとう」

 “ありがとう”は、おたまさんの口癖だ。

 “朋代ちゃんをはじめ、ドクターや愛好会の仲間たちがいればこそ、今の自分は生きている”そんな思いからきているのかもしれない。

 メンバーに励まされ、復帰を決意。鏡の前ですっかり動かなくなった顔の筋肉を動かすことからはじめ、徐々に声と表情を取り戻していった。

 そして平成19(2007)年6月23日、九色亭おたま、3年ぶりに高座に復帰。

 演じるは1階席だけでも280席を誇る『横浜にぎわい座』。復帰の舞台に上がれたことがうれしかった。

 200名の観客と、ファンからの“おめでとう!”の声に後押しされて高座へ。闘病を支えてくれた人々への感謝を込めて、十八番の古典落語『紙入れ』を演じきった。

 小どろさんが言う。

「あそこまで大変だった人がねえ。落語ができるまで復帰するとは、大復帰だったと思うよ!」

 誠さんも、

「家族で見に行きました。兄の国人も一緒に。お客さんは笑っているんだけど、こちらはありがたかったけど笑いはしなかったですね、いろいろな感情がこみ上げてきて。安心したというか、ホッとしたというかね(笑)」

 2度の脳腫瘍、そして水頭症という困難はあったものの、これから後はきっとうまくいく。

 そんなのぞみとは裏腹に、またしても運命はおたまさんにさらなる試練を与えたのだった。

息子の死を乗り越えて

 それは平成28(2016)年12月1日のことだった。このときばかりは、元気なおたまさんの声がか細くなる。

「“長男の国人が出かけるはずなのに車が動いてない。おかしいな”と。それで下の部屋をのぞいてみると倒れてた。高血圧でした。長男は本当にやさしい子でね。自分の病気よりずっとつらかった……」

 誠さんがこう回想する。

「夜の10時ごろだったかな。その場で携帯にすぐ電話を入れてきて“お兄ちゃんが死んじゃってる! 冷たくなってる! どうしよう!?”と。あんなに取り乱した姿を見たのは、初めてでした……」

 国人さん、享年43。

 見送りまでの2日間、ご遺体に寄り添って眠ったという。

 “今日も学校で牛乳をもらって飲んだんだ─!”。

 思えば国人さんからの、そんな言葉がきっかけとなって給食の仕事につき、後に落語愛好会に加わった。いわば、

『九色亭おたま』生みの親。そんなわが子との、今生の別れであった。

  ◇   ◇   ◇  

 あれから2年。

 今年2月最後の木曜日、おたまさんの姿は、横浜市中区の『ちぇるる野毛』3階の横浜市野毛地区センターにあった。この日は横浜市職員落語愛好会の、月1回の練習日。6月23日(日)ににぎわい座で開催される『第75回 落語の会』に向けて、会員たちの貴重な練習の機会である。

 稽古は、上州亭楽々さんの『幇間腹』から始まって、湊屋波止婆さんの『持参金』と続いていく。そのたび、扇子の使い方、話の構成などに小どろさんから厳しくも的確な指導が入る。

 そんななか、3番手としていよいよ、おたまさんの登場だ。

 この日はウオーミングアップがわりに、小噺を披露。

「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。今日はおじいさん、お天気がいいので久しぶりに山に芝刈りに。おばあさんは川に洗濯に─―。

 すると川上から大きな桃がドンブリコドンブリコと流れてきた。おばあさん急いでウントコショと取り上げたら思わずプゥーと漏らしてしまった。山へ行ったおじいさんが帰ってきた。“おじいさん山はどうでした?”と聞くと、“あぁ、くさかった”」

 そんなバレ話(下ネタ)を聞いていると、くるみさんが横からそっと教えてくれた。

「おたまさんっていつも明るくて愉快で、それでいて練習熱心な人です。

 おたまファン? 多いですよお。落語会なんかで“今日はおたまさんは休みです”と言うと、“えっ! 今日、来ないの!?”って受付では必ず言われます。障害があっても元気なおたまさんを見て、元気をもらって帰る人がたくさんいるんです。男性ファンも多いですよ」

 ほほう、そうですか、くるみさん。でもどうしてそんなに男性に人気なんでしょう?

 くるみさんの背後から、稽古を終えたおたまさんがタイミングよくやってきて、明るい口調で口を出した。

「そりゃ、顔がいいからよ!えへへ」

 おあとがよろしいようで─。

撮影/渡邉智裕
取材・文/千羽ひとみ

せんばひとみ ドキュメントから料理、経済まで幅広い分野を手がける。これまでに7歳から105歳までさまざまな年齢と分野の人を取材。「ライターと呼ばれるものの、本当はリスナー。話を聞くのが仕事」が持論。