西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(2)

【リーダー】西武・石毛宏典 後編

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1992年日本シリーズは、野球選手の本能が「ID野球」に勝った

――結局、1992年の日本シリーズは第7戦までもつれたものの、4勝3敗で西武ライオンズの勝利。3年連続の日本一に輝きました。

石毛 第7戦のタケ(石井丈裕)の好投、そして同点打。ともに忘れられないですね。あの同点打の場面で、僕は「IDに負けるな、気持ちで打て! 野球選手の本能で勝つぞ!」と言いました。何とかヤクルトを倒すことができて嬉しかったね。IDよりも本能が勝った気がして。今でもよく覚えているのは、俺、このとき初めて泣いたんだよね。


ヤクルトとの2年連続の日本シリーズを振り返る石毛氏

――それまでのシリーズでは、涙を流していなかったのに?

石毛 そう。グラウンドで涙を流したのは、このときが最初で最後だと思います。どうして泣いたんだろう。年を取ってベテランになって、いろいろ感慨深くなっていたのかな? ・・・・・・まぁ、涙なんて理屈で出てくるものじゃないけど。

――そして、迎えた翌1993年。相手はまたしてもヤクルトスワローズでした。当時のヤクルトナインにお話を聞くと、「どうしても西武と戦って、リベンジしたかった」と言っています。石毛さんは「対ヤクルト」ということに関して、何か思うところはありましたか?

石毛 全然。相手はどこでもよかったです。我々は「まずはパ・リーグの覇者になるんだ」という思いで、その上で日本シリーズに勝つ。それは毎年一緒ですよ。とにかく俺たちはペナントレース130試合、そして日本シリーズ7試合、合計137試合が年間行事として、体内時計に組み込まれていたわけですから。

――この年はデストラーデ選手がメジャーに復帰し、”純国産打線”で臨むことになりました。前年と比べて、「不利だな」という思いはありませんでしたか?

石毛 なかったですね。あの年はデストラーデの代わりに、若手の鈴木健が頑張っていましたから。たぶん、1992年と同じ心境だったと思いますよ。「日本シリーズという舞台でセ・リーグの覇者と戦う」ということは、毎年変わらないことですから。

1993年日本シリーズ初戦のデッドボール

――1993年の日本シリーズ初戦は当時の西武球場。ヤクルトの先発は荒木大輔投手でした。荒木さんにはどんな印象を持っていましたか?

石毛 やっぱり、「甲子園の大スター」という印象ですよ(笑)。故障明けで、全盛期と比べればだいぶ力は落ちていたのかもしれないけど、抑えるためにインコースを数多く攻める投手という印象ですね。

――その初回、いきなり波乱が起きます。1番・辻発彦選手がいきなり死球。2番・平野謙選手が送って1アウト2塁。ここで打席に入ったのが、3番の石毛さんでした。

石毛 ここでデッドボールをもらったんだよね。「どうなの?」って言いたくなるよ。あれは「インコースを攻めろ」というベンチの指示だったんでしょうけど。そのときは右手に当たったんですが、このデッドボールが原因で、その後の送球に影響が出るんです。

――打撃への影響は何かありましたか?

石毛 スイングはできたけど、ボールが投げられないから送球エラーしてしまった。右手の腱にボールが当たって握力に影響が出たのか、ボールをうまく支えることができなくてすっぽ抜けちゃったんです。


第一打席のデッドボールについて語る石毛氏

――この試合は6回の打席が終わった後に、ベンチに退いています。さらに第4戦では欠場しますが、これも死球の影響で自分から申し出たのですか?

石毛 そうですね。確か「ボールが投げられません」って、自分から言ったような気がします。第4戦もその影響です。シリーズを通じて痛みが続いていたから。ペナント中だってほとんど休まないし、日本シリーズならなおさら、自分から休むなんて考えられないことなんだけど。その後も影響が出て、僕は今でもきちんとペンが握れないんです。・・・・・・あれ? この年、もうひとつ西村(龍次)にも当てられていますよね?

――はい。まさに、それも伺いたかったんですが、ライオンズの2勝3敗で迎えた第6戦では、スワローズ先発の西村投手から死球を受けています。さすがに腹が立ったのでは?

石毛 別に腹は立たないけど、「徹底的にインコースを攻めてくるな」とは思いましたね。大輔も西村もそう。この年は川崎憲次郎もシュートで強気に内角を攻めてきていた。オレはそれほど気にしてはいなかったけど、清原(和博)や秋山(幸二)はかなりインコースを意識させられていたと思いますね。

1993年のヤクルトは入念な準備をしていた

――前年の1992年は4勝3敗でスワローズに勝利したものの、翌1993年は3勝4敗で敗れました。この結果を踏まえて、「やっぱり、野村克也監督の言うことは正しかった」と、それまで否定していた「ID野球」を見直すことにはなりませんでしたか?

石毛 いや、あんまりそういう思いはなかったですね。バッテリーの配球、守備位置のポジショニング、打球傾向といったものは、それ以前からも言われていたことでしたから。今でも「じゃあ、IDをやっていれば打てるようになるのか?」という思いはあります。野村さんの言うことも、もちろんわかりますよ。ただヤマを張るのではなくて、確率の高いボールを待つというのも、ひとつの考え方だとは思いますけど・・・・・・。

――「たられば」になってしまいますが、もしも現役時代に戻れるとしたならば、野村監督の下で野球をやってみたかったという思いはありますか?

石毛 ありますね。野村さんのミーティングを聞いてみたかったです。そうすれば、違った気づきもあったかもしれないし。でも、俺のようなタイプは逆にダメになったかもしれないけど。

――石毛さんにとっては、1993年日本シリーズが最後のシリーズとなりました。この年のシリーズを総括していただけますか?

石毛 前年と比べて、ヤクルトが入念に準備をしてきているのはわかりました。前年の第7戦で広沢(克己/現・広澤克実)が中途半端なスライディングをしたことによって、ヤクルトは敗れた。それがきっかけとなって、野村さんは「ギャンブルスタート」を考えたと言われていますよね。その結果、1993年の第7戦では、古田(敦也)がギャンブルスタートを決めてダメ押し点を取った。「打倒・西武」にかける思いの強さ、入念な下準備は強く感じました。

――1993年のシリーズで印象に残っている場面はありますか?

石毛 「場面」ということではないけど、この年は高津(臣吾)にきりきり舞いさせられた印象が強いです。彼のシンカーは本当に打てなかった。あとは、配球の変化も印象に残っています。前年のシリーズで岡林(洋一)のインサイドのボールが有効だったこともあって、1993年は大輔、西村、川崎によるインサイド攻めが続いていたけど、第3戦、4戦以降はインサイドを意識させながら、外中心の配球に変わっていきました。ギャンブルスタート、配球の変化、そして前年にはいなかった高津のシンカー・・・・・・。野村監督の「備え」にやられたシリーズだったのかな。

――その一方で、石毛さんから見た「森祇晶監督」とはどんな方でしょうか?

石毛 僕は広岡(達朗)監督の下でも野球をやりました。まず、広岡さんと森さんを比較するとすれば、広岡さんは技術指導に長けた”職人タイプ”の監督で、森さんはマネジメントに長けた監督だったと思います。あの当時、俺も含めて、辻、秋山、伊東(勤)、田辺(徳雄)など、主力のほとんどは広岡さんに鍛えられたメンバーばかりでした。だから、広岡さんが作り上げた選手、技術力を、森さんが受け継いでマネジメントをされた。それがうまく機能したんだと思います。

――あらためて、「1992年、1993年日本シリーズ」について振り返っていただけますか?

石毛 1992年はうちが勝って、1993年はヤクルトが勝って、2年間では7勝7敗の成績だったけど、それで「互角だった」と言っていいのかどうかは僕にはわからないです。どっちが勝っている、どっちが劣っているじゃなく、ああいった檜舞台で両チームの選手たちが死力を尽くして、多くの経験をしたということのほうが大切だと思いますね。そして、それをきちんと後輩たちに伝えていくこと。「あぁ、そんなすごい日本シリーズがあったんだ。俺も出たいな。もっと頑張ろう」と思ってもらえるように。

(つづく)