左が5歳で命を落とした船戸結愛ちゃん(写真:Facebookより)

隔週火曜日連載の「ミセス・パンプキンの人生相談室」で人気のミセス・パンプキンが、番外編コラムをお届けします。

「もっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」などとノートに綴ったのは、就学前の5歳で親からの虐待で命を落とした東京・目黒区の船戸結愛ちゃんでした。

どんな思いで彼女がこれを書いたかと想像するだけで悲しすぎ、胸が詰まって、憤りが収まりません。

繰り返される無責任体制

事件が詳しく報じられるにつけ、今回もまた、児童相談所がその職責を果たさなかったことが浮き彫りになっています。もちろん一番罪深いのは虐待した親ですが、私は何よりも児童相談所職員が、「手が足らない」「事件性がなかった」などと理由を並べ、サボタージュに近い仕事ぶりでも何の罪も問われないことが繰り返されている点に、強い憤りを覚えます。

佐々木拓夢ちゃん、斎藤理玖くん、坂本愛羅ちゃんたちは、まだ記憶に新しい名前です。2006年に京都府長岡京市で虐待・餓死した3歳の佐々木拓夢ちゃんは、その年の6月から10月の間に、少なくとも5回の住民や自治会から虐待の通報をしたのに、児童相談所も警察も動かなかったことで忘れられない事件です。拓夢ちゃんの姉(6歳)がトイレの窓から道行く人に、「なにかたべものをちょうだい」と訴えて保護されている間のできごとでした。

児童相談所は一度も立ち入りをせず、電話で父親に確認しただけでした。「はい、実は虐待しています」と認めるとでも思ったのでしょうか。この時の京都府児童相談所の所長は、「判断に甘さがあった」と会見しました。その直前には厚生労働省からの通達もあり、さすがに以降はもっと警察との連携も密にし、全国の児童相談所が教訓として生かすようになったのだろうと信じました。

2014年に発覚した厚木市の理玖くんの事件も凄惨でした。マンションの一室に閉じ込められ、パンかおにぎりを、虐待する犬に与えるように与えられた5歳児の理玖ちゃんは、立ち去ろうとする父親の服を衰弱する身で引っ張り、最後に「パパ」と呼びました。それは2006年ごろのことでした。

その前の歩ける時には、おむつ姿ではだしで道を歩いているのを「迷い子」として保護されましたが、警察と児童相談所は家に帰しているのです。その後、与えるパンなども週に1〜2度になり、生きていたら中学に入学する年になって、ゴミまみれの中で白骨体で発見されました。小学校入学時にも発見されるチャンスはありましたが(手遅れでしたが)、この問題について誰一人責任を問われていません。

2014年に2歳で虐待死した愛羅ちゃんは2本の肋骨の骨折や40カ所の傷やあざを負い、虐待死しました。虐待を疑われる通報で、その死の5日前に駆け付けた警察署員は「服を脱がせるタイミングがなく、(虐待の痕を)発見できなかった」と言ったと報じられました。「駆け付けた」だけで、彼らの任務は終了していたということです。この時も児童相談所は半年以上愛羅ちゃんの姿を確認していないのに、「母親は問題ないと言っていたから」と言い逃れをしています。

心中を除いた児童虐待死は、年間50人以上にのぼります(NPO法人児童虐待防止全国ネットワーク)、防ぐ手立てがあった事件も多いにもかかわらず、なぜ言い訳が通用し続けるのでしょうか。

結愛ちゃんは周囲から見殺しにされた

結愛ちゃんは目黒区に引っ越してくる前の香川県善通寺市で二度も、下唇などに傷を負いながら外に出されているところを保護されています。

その時は父親への思いを、言葉ではうまく言えないと手紙でサラサラ書いたそうです。恐怖が強かったのでしょう。「パパ、ママ、いらん」「お父さんにたたかれた」「けられた」「まえのパパがよかった」とも言っていたそうです。

そして二度とも父親は書類送検されたのに不起訴になり、一時保護も解除されています。その後の病院からの虐待の痕跡の通知にも保護装置は取られていませんでした。本来であれば、この段階で彼女の命は救えたはずでした。

虐待をしている親は、児童相談所から逃れるために他府県に引っ越すことが多いそうですが、昨年末、結愛ちゃんの親も東京に引っ越しました。香川児童相談所では「指導措置を解除したが、支援の必要はあり、緊急性の高い事案として継続した対応を求めた」としています。しかし品川児童相談所では「緊急性が高いと言う説明はなかった」と反論したと報じられています。

どちらが嘘をついているか、より無責任なのかは今の時点では判りませんが、引っ越し早々、叫んでいるような泣き方だという通報が、近所からもなされたようです。

2月9日に品川児童相談所は結愛ちゃん宅を訪問しています。母親が「関わってほしくない」と言ったということは、重度の虐待のサインですが、すごすごと引き下がっていますが、この時点でも厳正に対処すれば、警察と連携して命を救えたはずです。

そして2月20日に地元小学校の入学説明会にも結愛ちゃんが来なかった段階で、過去の彼らの履歴と引っ越しと、9日の面会拒絶と数々の教訓を考えれば、結愛ちゃんに何が起きているか、素人でも判断がつくことです。

実母には「実行犯」以上の罪がある

いったい、これだけ多く行政機関が関わっていながら、そろいもそろってサボタージュがあったというのでしょうか。「手が足らない」と決まり文句のように言っていますが、では、命を救うよりも、何を優先していたのでしょうか。是非、聞きたいところです。

この10日後に結愛ちゃんは病院に搬送されています。亡くなった時は、5歳児の標準体重を7キロも下回る12キロだったそうです。結愛ちゃんの継父と実母の間にできた弟は両親と共によく外食していたそうで、実母は、自分の立場が危うくなるのを恐れ、夫に従い、見て見ぬ振りをしたとか。

自分が殺される覚悟を持っても、結愛ちゃんを他ヘ預けることは出来たはずです。よく食事が喉を通ったものだと思います。このような事件の実母には、実行犯以上の(否、同様の)罪と憤りを感じます。

これが鬼畜でなくて何でしょうか。産むのは一人前で、その後は動物以下の人間がこれほど多く、絶えることがないことに開いた口がふさがりません。このように民事不介入では救えない命が多すぎることから、児童相談所の権限も拡大され、警察との連携で多くの命が救えるシステムになったと理解してきました。

事件が起こるたびに、「二度と繰り返さないよう、これから会議をし、検討します」と繰り返してもきました。ところでいくら会議しても教訓が生かされない以上、それらはすべて、ポーズにしか見えません。彼らは前例主義とポーズだけで給料がもらえる結構な身分だと言わざるを得ません。命を預かる役所がこれでいいのでしょうか。

不作為の罪を問うべきだ

例えば結愛ちゃんの事件では、先の2月9日に、面会を母親に拒否された段階で、そのまま放っておいた児童相談所職員とその上司等は、明確に不作為の罪に問われる法を作るべきです。そうでなければ、いったい何のための児童相談所でしょうか。

6月8日の小池百合子知事は、「品川児童相談所が出かけたが、会えなかったという不幸が重なり、尊い命が奪われた」と都の定例会見で述べています。「一度は訪問した。会えなかった不幸が重なっただけ」と言っているように聞こえましたが、6月9日朝のフジテレビに出演した後藤啓二弁護士によると、3年前から児童相談所の対応を改善することを求める要望書を何度も提出してきたが、知事からも児相からも、無回答が続いたそうです。


船戸結愛ちゃんが虐待を受け、死亡したアパートに供えられた花や菓子=7日午後7時、東京都目黒区(写真:共同通信)

5歳の結愛ちゃんは、「これまでどれだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめるので もうぜったいやらないからね ぜったいぜったいやくそくします」と書き、電灯も暖房もない部屋で「勉強」させられて、逝きました。

なんて悲しいことでしょうか。それまでに何度も救うチャンスはあったのは、上記の通りです。

そして今回もまた、不作為の罪に問われる公務員は一人もいません。「胸は痛む」という道義上の責任があるだけでしょうか? 解釈が複雑で適用が難しい法を何本も作るより、この段階でも明らかに不作為による罰則規定を作る方が、数倍、救われる命があるのは確実です。こればかりは性善説に限界があると、訴えるものです。