天皇とSMAPをつなぐ。60年前の青春小説『孤獨の人』を読む

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驚かされることの多かった一年だった。7月には今上天皇が「生前退位」の意向を示したと報じられ、一時は宮内庁が否定したものの、8月8日にビデオメッセージという形で天皇の「お気持ち」が伝えられた。さらにそれから1週間もしないうちに、今度はSMAPが解散するというニュースが飛び込んできた。

この2つのできごとを受けて私はふと、ちょうど60年前の1956年に書かれた『孤獨の人』という小説のことを思い出した。藤島泰輔(1933〜97)という当時23歳の青年による作品が、どんなふうに天皇とSMAPと関係があるのか? タネ明かしはあとにして、まずは作品の内容について紹介しておきたい。


皇太子の学友たち


『孤獨の人』の舞台は終戦直後、皇太子(現在の今上天皇)の通っていた学習院高等科だ。著者の藤島泰輔は皇太子とは学習院の中等科から大学までの同級生であり、作中に登場する「吉彦」は自らの分身と思われる。

学習院は戦前から皇族や華族など上流階級の子息の通う学校だった。そのなかにあって吉彦は二代続く実業家の息子ながら、戦前の身分では平民ということになる。それゆえ、周囲の華族出身のクラスメイトに羨望とも嫉妬ともつかない感情も抱いていた。

もっとも、華族制度は戦後になって廃止される。そのため旧華族の家の生徒たちは自らのアイデンティティを保ちたい一心で、「ご学友」となるべく皇太子に近づくのに必死だった。吉彦の周囲には、皇太子を支配する者こそクラスを支配するという空気さえ漂っていた。それに吉彦はあくまで無関心を装う。

しかし実際には、ご学友として皇太子と親しくなればなった者ほど、彼の人間としての不自由さを思い知るのだった。中等科時代、吉彦とクラスメイトだった元海軍大将の息子「水野」は、皇太子を愛するがあまり、ついにはいたたまれなくなり、彼のもとを去ったのだと告白する。

他方、吉彦と高等科のクラスメイトで、やはり平民の家の「岩瀬」という男は、旧華族の子息たちとは違い、下心なしに皇太子とつきあおうとする。皇太子に自由を知ってもらおうと、ときには警護の目を盗んで銀座へ連れ出したり(これは皇太子がお忍びで銀座に行ったエピソードは実話をもとにしている)、学習院の女子部の生徒と交際させようとしたりする。

岩瀬もまた、皇太子を愛するがあまり、つきあっていた女生徒と手痛い失恋を経験するなど自縄自縛に陥る。そんな岩瀬と、吉彦はある議論をきっかけに急速に親しくなり、皇太子と接する機会も増えていった。前後して、吉彦は叔父の別れた妻「朋子」とつきあうようになり、それを知った父から叱責されながらも、なおも交際を続ける。

修学旅行で泊まった旅館では、朋子と実際にはまだ肉体関係にはないにもかかわらず、岩瀬らクラスメイトを相手におおげさに話したこともあった。やがてその輪に、隣りの部屋にいた皇太子も加わり、しばし談笑となる。だが、この旅行中、行く先々で皇太子をめあてに人が集まり、それに対して否が応でも公人として振る舞う姿に、吉彦たちはあらためて彼の孤独を思い知らされたのである。

この小説の終章で、吉彦は岩瀬に誘われ、御所で催された皇太子の誕生会に初めて赴く。満18歳となった皇太子と、一緒にレコードに合わせてダンスを踊るうち、吉彦は彼の生きている徴(しるし)を感じ取った。吉彦にもまた皇太子を愛していると気づく瞬間が訪れたのである。だが、それもつかの間、吉彦は誕生会を抜け、御所の外へと駆け出した。

《宮[引用者注――皇太子のこと]の孤独は吉彦の《鏡》だったのだ。宮と自分とが、内容こそ違え、同じ《孤独》の文字に尽きるのを知ったのだ》

自らも「孤独」と知った吉彦が向かったのは、朋子のもとであった。明日はちょうどクリスマスイブというところで小説は終わる。

『孤獨の人』は60年早い『桐島』だった!?


『孤獨の人』における皇太子は自ら主体性をもって発言したり行動したりはしない。いわば空気のような存在であり、それでいて周囲の生徒たちに強い影響を与え、それぞれの思惑や関係をあぶり出してみせる。先に引用した箇所から言葉を借りるなら、まさに吉彦らほかの生徒たちにとって皇太子は「鏡」というべき存在であった。

この構図は何かに似ているなと思って、私がふと思い浮かべたのは、映画化もされた朝井リョウの小説『桐島、部活やめるってよ』(2010年)だ。同作ではタイトルにある「桐島」がバスケットボール部をやめると決めたことから、同じ高校の生徒たちにさまざまな影響をおよぼし、人間関係を浮き彫りにしてみせる。だが、肝心の桐島は最後まで登場しない。『孤獨の人』の皇太子とはその点が異なるが、いずれにせよ、空気なような存在としてほかの生徒たちをある意味、支配しているというところは同じといっていいはずだ。

むしろ両作の最大の違いは、つまるところ、『桐島、部活やめるってよ』では桐島が自分の意志をもって部活をやめるのに対して、『孤獨の人』において皇太子は結局「皇太子であることをやめられない」ということではないか。

『孤獨の人』とSMAPの関係とは?


著者の藤島泰輔は、皇太子を自身の小説で描いたような「孤独」から救うべく、制度そのものの廃止すら考えていた。1959年の皇太子ご成婚に際にも、こんなコメントを雑誌に寄せている。

《ぼくたちの時代に皇室を何とかする責任があると思うし革命などではない善意の方法で天皇制が消滅するような形をとりたい また皇太子は天皇制を保持したいと思うならもっと発言されるべきです 天皇も職業だとか皇居開放に賛成とか彼なりに考えがあるようですがそれならおめず発言したらいい》(「アサヒグラフ」1959年4月26日号)

この発言は、『孤獨の人』における吉彦の《俺は社会主義者でも共産党員でもないぞ。彼等ばかりが天皇制を否定するんじゃないんだ。(中略)俺にだって、立派な、もしかすると、どんなに隙のない理由よりも立派な、天皇制否定を主張する権利があるんだ》とのセリフとも重なる。

だが、このあと藤島は考えを180度転換する。1977年にはノンフィクション作家の牛島秀彦の取材を受けて、こんなふうに語った。

《私が皇太子に希望するのは、まず気の毒ではあるが、家庭的幸福は捨てていただきたいということ。これは、庶民のやることで、次代の天皇のやることじゃない。国民のために何もかも捨てるのが天皇だと思うからです》(牛島秀彦『ノンフィクション天皇明仁』)

藤島はちょうどこの年、参院選に立候補したものの落選している。出馬の直前には、前妻と別れて、10年以上交際していたべつの女性と入籍した。その女性の名は、メリー喜多川という。言わずと知れたジャニーズ事務所の副社長だ。そして二人が正式に結婚する以前、1965年にもうけた一女が、現在同事務所の代表取締役副社長を務める藤島ジュリー景子である。

今上天皇とSMAPは、この藤島一家を介してつながっていたというわけである。もちろんそれは偶然にすぎない。だが、今上天皇が生前退位を示唆する「お気持ち」を表したことと、SMAPの解散発表の時期が重なったことには、やはり偶然以上の何かを感じてしまう。

「やめられない状況」は終わるのか


今年ほど日本人が「やめる」ということを考えた年もなかったかもしれない。思えば、これ以前の70年間、つまり国が滅亡する一歩手前でやっと戦争をやめたところから始まった戦後の日本とは、基本的に「やめられない国」ではなかったか。

戦後の経済成長の一要因とされた日本型経営は、終身雇用、年功序列制をその特徴としていた。新卒で会社に入れば、ほぼ一生を面倒みてもらえるというこれらの制度は、裏返せば「やめられないシステム」だったともいえる。

しかしバブル崩壊後、従来の日本型経営がしだいに通用しなくなってくると、べつの意味で「やめられない状況」が生じた。就職難が続き、いったん就いた仕事はいくら待遇が悪くても簡単にやめることはできない。そういう状況のなかでブラック企業がはびこり、バブル崩壊以前より問題化していた過労死も、過労を原因とする自殺も含めてさらに目立つようになる。

いずれにせよ、この70年の日本では、個人が自分の意志をもってやめるということがなかなかできない状況がずっと続いてきたといえる。そこへ来ての生前退位とSMAP解散は、そうした呪縛を解くひとつのきっかけとはならないだろうか。

今年4月に亡くなった日本史学者の安丸良夫は、その著書『近代天皇像の形成』の文庫化(2007年)にあたり、あとがきを次のように結んでいた。

《天皇家と皇族の人たちは、普通の生活者たる私たちとは別世界の住人ではあるが、しかしあの人たちも私たちの大部分とおなじように現代日本社会に生きるほかない人たちであり、彼らは現代日本においても社会秩序と社会規範の源泉となるように求められていて、そのことが強い抑圧性となっていることは明らかである。あの人たちがいまよりも自由になれば、私たちもまたなにほどか自由の幅を広げることが出来るのではないかと思う》

皇太子時代の今上天皇は、『孤獨の人』で描かれたように、将来的に天皇となる宿命からは逃れられなかった。だが、天皇即位から30年足らず、自らの意志をもって退位を示唆した。それは安丸の言を踏まえれば、私たちの自由の幅をも広げられるかもしれない格好の機会でもある、ということになるのだが。
(近藤正高)