世界遺産に決定。国立西洋美術館は建築家ル・コルビュジエの「決して大傑作とはいえない」が…
フランスや日本など7カ国によりユネスコの世界文化遺産に登録を申請されていた建築家ル・コルビュジエの作品群が、きのう7月17日、トルコ・イスタンブールでの世界遺産委員会で正式に登録が決まった。未遂に終わったとはいえトルコ国内で発生したクーデターにより、一時は審議延期の懸念もあったが、けっきょく無事に、東京・上野の国立西洋美術館を含む17件が登録を果たしている。2008年の最初の登録申請から、2度の見送りを経てようやくの実現だ。
1887年にスイスで生まれたル・コルビュジエは、地元の美術学校を卒業後、旅先で歴史的な建造物を見てまわったり、パリやベルリンの建築家の事務所で働いたりしながら建築について学んだ。設計を手がけるようになったのは故郷のスイスだが、建築家として本格的に活動を開始したのは、1917年にパリに定住して以降だ。画家でもあった彼は、当時のパリ画壇の最先端だったキュビズムに大きな影響を受けている。フランス国籍を取得したのは1930年、ファッションモデルのイヴォンヌ・ガリと結婚したときだった。ちなみに妻は、建築には興味がなかったという。
ル・コルビュジエは活動初期の1920年代、従来の石やレンガ造りの重々しい建築に替わり、合理的・機能的な建築を模索した。具体的には、無装飾の直方体……越後島研一『ル・コルビュジエを見る』(中公新書)から言葉を借りれば「白い箱型」ともいうべき造形で実現された。パリ在住の銀行員一家が週末をすごす郊外の別荘として建てられたサヴォワ邸(1930年)は、そのひとつの到達点に位置づけられる。もちろん、この住宅も今回世界遺産に決まった作品のひとつだ。
サヴォワ邸には、ル・コルビュジエが1926年に「近代建築の5原則」として提唱した「ピロティ」「屋上庭園」「自由な平面構成」「水平連続窓」「自由な立面」が集約されていた。このうちピロティとは、建物本体を地面から持ち上げるように柱で支え、1階部分を吹き放しにするという様式で、サヴォワ邸の大きな特徴となっている。
また「自由な立面」とは、建物を支える役割を内側の柱に任せることで、壁はどのような形状にもできることを意味した。もっとも、サヴォワ邸の外壁はブロック積みで、二重にしてあったとはいえ、雨天時には隙間から水がしみこんだという。そもそもこの住宅の屋根は平坦で(傾斜していないので雨水が下に流れない)、軒やひさしもないのだから、雨にはほぼ無防備だった。ル・コルビュジエの発想は斬新ではあったが、こうした事例が示すように、当時の建築技術はまだそれに十分に追いついていなかったのだ。その反省から彼はさらなる試行錯誤を続けることになる。
話は変わって、日本に唯一存在するル・コルビュジエ建築である国立西洋美術館について。この美術館は1959年に完成した。だが、発想の原点はその30年前、1929年の「世界博物館」の計画案にまでさかのぼる。これはル・コルビュジエの故国スイスのジュネーブに建設予定だったムンダネウムという新都市の中心に計画されたもので、四角いらせん状のピラミッドのような形をしていた。
この発想はさらにパリ現代美術館(1931年)、現代美学センター(1937年)、無限成長美術館(1939年)といった計画で検討される(いずれも実現はせず)。四角いらせんは、増え続ける収蔵品に対応すべく、建物をどんどん外側へ拡張していくのに有効だとされた。無限成長美術館は、ピロティで持ち上げられた四角い箱に外部階段を組み合わせたものだった。国立西洋美術館の造形も基本的にこれを継承している。また、ピロティをくぐり、建物の中心部からスロープを昇って2階の展示回廊へと続くこの美術館の動線は、規模は小さいながらも、世界博物館以来のコルビュジエの発想が反映されている。
前出の越後島研一『ル・コルビュジエを見る』は、《この日本で唯一のル・コルビュジエ作品は、決して大傑作とはいえない。しかし、初期の五原則や、最初の到達点たるサヴォワ邸を再現しつつ、一九三〇年代以降に発想したものを重ね合わせている点で、彼の「偉大なる変貌」の集約という意義をもつ》と評している。
国立西洋美術館の所蔵作品のベースとなったのは、実業家・松方幸次郎が大正から昭和初期にかけてヨーロッパで収集した美術コレクションだ。このうちフランスに保管されていたコレクションは第二次世界大戦後、敵国資産として接収されたが、1951年のサンフランシスコ講和条約の調印にともない日本へ寄贈という形で返還が決まった。その際フランス側から条件として提示されたのが、コレクションを保管公開する美術館の設置だった。
こうした経緯ゆえ、設計者にフランス国籍の建築家が選ばれたのはごく自然な流れだったといえる。ル・コルビュジエには、日本の美術関係者の意向と外務省の依頼を受け、建築家の前川國男が手紙を送って打診したという。前川は戦前にル・コルビュジエのもとで修業した弟子のひとりだ。
ル・コルビュジエは当初、美術館のほか企画巡回展示館や劇場が建ち並ぶ文化センターを提案している。しかし予算面から結局、美術館以外の施設は除外せざるをえなかった。なお当初案で企画巡回展示館の置かれた場所(美術館の向こう正面)には、1961年に前川國男の設計による東京文化会館が建てられている。国立西洋美術館も基本設計はル・コルビュジエが手がけたとはいえ、より具体的な実施設計、現場の監理を行なったのは、彼の弟子である前川や坂倉準三、吉阪隆正ら日本の建築家だった。
ル・コルビュジエが提案しながら実現しなかったり変更されたりしたことはほかにもある。たとえば、2階の展示回廊にある照明ギャラリーは、もともとは屋上にスバスチカ型(卍型)に配置された天窓から自然光を採りこむ案だったが、日本側の検討の末、直射光で絵が反射し、劣化の原因にもなるとの理由から蛍光灯などの人工光に変更された。また2階の正面テラスと外階段、2階から中3階バルコニーへの階段(手すりが片側にしかついていない)は、使用上の問題から現在は閉鎖されている。このほか、1979年と1997年の2度の増築は、本来ならもとの建物を取り巻くような形で行なわれるべきところを、敷地などの都合で新たに建物を設ける形となった。
美術館の計画に携わった建築家の藤木忠善は、この美術館の魅力をより大きくするため、閉鎖されている正面テラスや中3階のバルコニーをふたたび利用できるよう提案している(『ル・コルビュジエの国立西洋美術館』鹿島出版会)。世界遺産に決まったとなればなおさら、本来の機能を復活させることは大きな課題となりそうだ。
ル・コルビュジエは美術館の設計にあたり、1955年に来日して上野を視察している。このとき、美術館の建設予定地である凌雲院の庭は復員者やホームレスの小屋に占拠されていたという。周囲の道も舗装されず、雨が降るとぬかるみになるありさまだった。終戦から10年が経っていたが、戦争の傷跡はまだあちこちに残り、日本はあらゆる面で復興の途上にあったのだ。
美術館の総工費3億5千万円の大半は民間からの寄付によってまかなわれた。それは政財界・美術界が募金を呼びかけたり協賛美術展を開いたりして、国民から集めたものだった。国民生活も社会インフラもまだ十分な状態ではなかったが、そんな時代にあっても人々は心の豊かさを求め、それが美術館実現の大きな原動力となったのである。
ル・コルビュジエは国立西洋美術館開館から6年後の1965年8月、南仏の海岸で水泳中に死去する。生前より自身の活動のアーカイブ化に熱心だった彼は、フランス政府に対しても自作を歴史的記念建造物に登録するよう働きかけていた。代表作のひとつサヴォワ邸は第二次大戦中にドイツ軍と連合軍の占拠により荒廃し、戦後解体されることになったが、それに反対する請願書が海外から寄せられ、また作家で文化大臣だったアンドレ・マルローの介入のおかげで一転して保存が決まる。歴史的記念建造物に指定されたのは、建築家の死から3カ月半後、1965年12月のことだった(南明日香『ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ』王国社)。今回の世界遺産登録を誰よりも喜んでいるのは、ひょっとするとル・コルビュジエ本人かもしれない。
■世界遺産「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」構成資産
【フランス】ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸(1925年)、サヴォワ邸と庭師小屋(1931年)、ベサックの集合住宅(1925年)、カップ・マルタンの休暇小屋(1952年)、ポルト・モリトーの集合住宅(1933年)、マルセイユのユニテ・ダビタシオン(1952年)、ロンシャンの礼拝堂(1955年)、ラ・トゥーレットの修道院(1960年)、サン・ディエの工場(1946年)、フィルミニの文化の家(1965年)
【日本】国立西洋美術館(1959年)
【ドイツ】ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅(1927年)
【スイス】レマン湖畔の小さな家(1923年)、イムーブル・クラルテ(1930年)
【ベルギー】ギエット邸(1926年)
【アルゼンチン】クルチェット邸(1954年)
【インド】チャンディガールのキャピトル・コンプレックス(1950〜65年)
(近藤正高)
画期的な住宅の大敵は「雨」
1887年にスイスで生まれたル・コルビュジエは、地元の美術学校を卒業後、旅先で歴史的な建造物を見てまわったり、パリやベルリンの建築家の事務所で働いたりしながら建築について学んだ。設計を手がけるようになったのは故郷のスイスだが、建築家として本格的に活動を開始したのは、1917年にパリに定住して以降だ。画家でもあった彼は、当時のパリ画壇の最先端だったキュビズムに大きな影響を受けている。フランス国籍を取得したのは1930年、ファッションモデルのイヴォンヌ・ガリと結婚したときだった。ちなみに妻は、建築には興味がなかったという。
ル・コルビュジエは活動初期の1920年代、従来の石やレンガ造りの重々しい建築に替わり、合理的・機能的な建築を模索した。具体的には、無装飾の直方体……越後島研一『ル・コルビュジエを見る』(中公新書)から言葉を借りれば「白い箱型」ともいうべき造形で実現された。パリ在住の銀行員一家が週末をすごす郊外の別荘として建てられたサヴォワ邸(1930年)は、そのひとつの到達点に位置づけられる。もちろん、この住宅も今回世界遺産に決まった作品のひとつだ。
サヴォワ邸には、ル・コルビュジエが1926年に「近代建築の5原則」として提唱した「ピロティ」「屋上庭園」「自由な平面構成」「水平連続窓」「自由な立面」が集約されていた。このうちピロティとは、建物本体を地面から持ち上げるように柱で支え、1階部分を吹き放しにするという様式で、サヴォワ邸の大きな特徴となっている。
また「自由な立面」とは、建物を支える役割を内側の柱に任せることで、壁はどのような形状にもできることを意味した。もっとも、サヴォワ邸の外壁はブロック積みで、二重にしてあったとはいえ、雨天時には隙間から水がしみこんだという。そもそもこの住宅の屋根は平坦で(傾斜していないので雨水が下に流れない)、軒やひさしもないのだから、雨にはほぼ無防備だった。ル・コルビュジエの発想は斬新ではあったが、こうした事例が示すように、当時の建築技術はまだそれに十分に追いついていなかったのだ。その反省から彼はさらなる試行錯誤を続けることになる。
無限に成長を続ける美術館?
話は変わって、日本に唯一存在するル・コルビュジエ建築である国立西洋美術館について。この美術館は1959年に完成した。だが、発想の原点はその30年前、1929年の「世界博物館」の計画案にまでさかのぼる。これはル・コルビュジエの故国スイスのジュネーブに建設予定だったムンダネウムという新都市の中心に計画されたもので、四角いらせん状のピラミッドのような形をしていた。
この発想はさらにパリ現代美術館(1931年)、現代美学センター(1937年)、無限成長美術館(1939年)といった計画で検討される(いずれも実現はせず)。四角いらせんは、増え続ける収蔵品に対応すべく、建物をどんどん外側へ拡張していくのに有効だとされた。無限成長美術館は、ピロティで持ち上げられた四角い箱に外部階段を組み合わせたものだった。国立西洋美術館の造形も基本的にこれを継承している。また、ピロティをくぐり、建物の中心部からスロープを昇って2階の展示回廊へと続くこの美術館の動線は、規模は小さいながらも、世界博物館以来のコルビュジエの発想が反映されている。
前出の越後島研一『ル・コルビュジエを見る』は、《この日本で唯一のル・コルビュジエ作品は、決して大傑作とはいえない。しかし、初期の五原則や、最初の到達点たるサヴォワ邸を再現しつつ、一九三〇年代以降に発想したものを重ね合わせている点で、彼の「偉大なる変貌」の集約という意義をもつ》と評している。
国立西洋美術館の所蔵作品のベースとなったのは、実業家・松方幸次郎が大正から昭和初期にかけてヨーロッパで収集した美術コレクションだ。このうちフランスに保管されていたコレクションは第二次世界大戦後、敵国資産として接収されたが、1951年のサンフランシスコ講和条約の調印にともない日本へ寄贈という形で返還が決まった。その際フランス側から条件として提示されたのが、コレクションを保管公開する美術館の設置だった。
こうした経緯ゆえ、設計者にフランス国籍の建築家が選ばれたのはごく自然な流れだったといえる。ル・コルビュジエには、日本の美術関係者の意向と外務省の依頼を受け、建築家の前川國男が手紙を送って打診したという。前川は戦前にル・コルビュジエのもとで修業した弟子のひとりだ。
ル・コルビュジエは当初、美術館のほか企画巡回展示館や劇場が建ち並ぶ文化センターを提案している。しかし予算面から結局、美術館以外の施設は除外せざるをえなかった。なお当初案で企画巡回展示館の置かれた場所(美術館の向こう正面)には、1961年に前川國男の設計による東京文化会館が建てられている。国立西洋美術館も基本設計はル・コルビュジエが手がけたとはいえ、より具体的な実施設計、現場の監理を行なったのは、彼の弟子である前川や坂倉準三、吉阪隆正ら日本の建築家だった。
ル・コルビュジエが提案しながら実現しなかったり変更されたりしたことはほかにもある。たとえば、2階の展示回廊にある照明ギャラリーは、もともとは屋上にスバスチカ型(卍型)に配置された天窓から自然光を採りこむ案だったが、日本側の検討の末、直射光で絵が反射し、劣化の原因にもなるとの理由から蛍光灯などの人工光に変更された。また2階の正面テラスと外階段、2階から中3階バルコニーへの階段(手すりが片側にしかついていない)は、使用上の問題から現在は閉鎖されている。このほか、1979年と1997年の2度の増築は、本来ならもとの建物を取り巻くような形で行なわれるべきところを、敷地などの都合で新たに建物を設ける形となった。
美術館の計画に携わった建築家の藤木忠善は、この美術館の魅力をより大きくするため、閉鎖されている正面テラスや中3階のバルコニーをふたたび利用できるよう提案している(『ル・コルビュジエの国立西洋美術館』鹿島出版会)。世界遺産に決まったとなればなおさら、本来の機能を復活させることは大きな課題となりそうだ。
民間の寄付により実現した美術館
ル・コルビュジエは美術館の設計にあたり、1955年に来日して上野を視察している。このとき、美術館の建設予定地である凌雲院の庭は復員者やホームレスの小屋に占拠されていたという。周囲の道も舗装されず、雨が降るとぬかるみになるありさまだった。終戦から10年が経っていたが、戦争の傷跡はまだあちこちに残り、日本はあらゆる面で復興の途上にあったのだ。
美術館の総工費3億5千万円の大半は民間からの寄付によってまかなわれた。それは政財界・美術界が募金を呼びかけたり協賛美術展を開いたりして、国民から集めたものだった。国民生活も社会インフラもまだ十分な状態ではなかったが、そんな時代にあっても人々は心の豊かさを求め、それが美術館実現の大きな原動力となったのである。
ル・コルビュジエは国立西洋美術館開館から6年後の1965年8月、南仏の海岸で水泳中に死去する。生前より自身の活動のアーカイブ化に熱心だった彼は、フランス政府に対しても自作を歴史的記念建造物に登録するよう働きかけていた。代表作のひとつサヴォワ邸は第二次大戦中にドイツ軍と連合軍の占拠により荒廃し、戦後解体されることになったが、それに反対する請願書が海外から寄せられ、また作家で文化大臣だったアンドレ・マルローの介入のおかげで一転して保存が決まる。歴史的記念建造物に指定されたのは、建築家の死から3カ月半後、1965年12月のことだった(南明日香『ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ』王国社)。今回の世界遺産登録を誰よりも喜んでいるのは、ひょっとするとル・コルビュジエ本人かもしれない。
■世界遺産「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」構成資産
【フランス】ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸(1925年)、サヴォワ邸と庭師小屋(1931年)、ベサックの集合住宅(1925年)、カップ・マルタンの休暇小屋(1952年)、ポルト・モリトーの集合住宅(1933年)、マルセイユのユニテ・ダビタシオン(1952年)、ロンシャンの礼拝堂(1955年)、ラ・トゥーレットの修道院(1960年)、サン・ディエの工場(1946年)、フィルミニの文化の家(1965年)
【日本】国立西洋美術館(1959年)
【ドイツ】ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅(1927年)
【スイス】レマン湖畔の小さな家(1923年)、イムーブル・クラルテ(1930年)
【ベルギー】ギエット邸(1926年)
【アルゼンチン】クルチェット邸(1954年)
【インド】チャンディガールのキャピトル・コンプレックス(1950〜65年)
(近藤正高)