決勝進出校が、都合8度という山口県のしぶとさ

写真拡大

 山口県は各街々が独立独歩の形で存在しているのが特徴だ。都市としても宇部、下関、岩国、周南、柳井、下松と存在していて、それぞれに産業が根付いているという印象がある。

山口県勢の甲子園での活躍

1998夏、宇部商無念のサヨナラボーク

 ところが「山口県の県庁所在地は?」こう問われると一瞬、考えてしまう。そして、しばらくしてから、なーんだという思いと共に「山口市」と答えることになる。県名と県庁所在地の都市名が同じなのに、一瞬考えてしまうのは、理由が二つある。一つは、山口市がもう一つ表だって出てきていないので非常に印象が薄いということ。そして、もう一つは県庁所在地になってもおかしくないかなと思わせるような地方都市がそれぞれ産業を携えながら存在しているからだ。

 そんな状況が、高校野球の現象にも表れている。山口県勢の甲子園での決勝進出回数が8回もあり県勢の通算勝利数も108勝で岡山県よりも上で19位ということにややビックリする。というのは、昭和30年代の下関商の全盛期を除けば、それほど山口県勢は甲子園で強いという印象がないからだ。

 優勝は1958(昭和33)年の柳井と1963(昭和38)年春の下関商なのだが1964(昭和39)年夏の早鞆、72年夏の柳井、74年夏の防府商、85年夏の宇部商などが準優勝している。宇部商以外は決して常連校という印象ではないだけに、改めて意外な印象を強めているのだろう。いずれも、必ずしも下馬評が高いというわけではなかったのにもかかわらず、いつの間にかスルスルと勝ち上がってきて決勝まできてしまって気がついたら準優勝しているというケースが多いようだ。

 しかも、それぞれが各市から出てきているというのも特徴的である。県大会の段階から頭抜けてはいないのに、ねちねちと勝ち上がっていく執念は、その昔の長州藩の誇りが意外に力を発揮しているということになるのだろうか。

[page_break:今後も宇部商が中心となるか]今後も宇部商が中心となるか

 ところで、県内では突出した力を示した63、64年頃の下関商だったが、その後しばらく甲子園から遠ざかる。それが、79年春、81年夏に復活し95年には久々に甲子園で勝利した。15年夏にも久しぶりに姿を現したが、ユニホームは当時と同様のデザインで左胸に大きく角ばった感じの「S」一文字だけというものである。当時を知るオールドファンたちはその懐かしさとともに池永 正明という稀有の制球力を持った投手の名前を思い出し、時代を語ることができた。

 早鞆は準優勝の2年後に再び出場し、その翌年も顔を出すものの以降パタリと消えてしまった。もう、野球部は強化されていないのだろうかと思っていたら、01年の春季中国大会で優勝し、12年春に出場を果たした。こちらも左胸にワンポイント「H」マークである。

 今は亡き津田 恒美(協和醗酵→広島)のいた南陽工はこの春も出場を果たすなど、宇部商とともに印象は強い。また03年に春優勝の広陵を下して8強入りした岩国も渋く存在をアピールしている。岩国に並ぶ進学校の徳山や、新しい力としては下松市にある華陵も08年春に21世紀枠代表として出場し、09年夏は自力で出場するなど力を示している。

 とはいえ、基本的にはやはり宇部商が中心となって今後も進んでいくであろう。玉国 光男監督がいつも勝ちにいけるチームを作っており、とくに甲子園で初戦負けがほとんどないということは評価されていいだろう。98年の延長15回、豊田大谷との試合の藤田 修平投手(福岡大)の痛恨のサヨナラボークも印象深い。01年、02年夏と立て続けに甲子園に姿を見せており、05年には春夏連続出場。31年間監督を務めた玉国監督が勇退後を引き継いだ中富 力監督となって07年春にも出場。以降、やや南陽工などに押され気味のところもあるが、県内ではリーダー格といっていいだろう。

 10年の南陽工以降、県内代表校としては柳井学園、岩国商、岩国、宇部鴻城と顔ぶれが変わっている。他にも西京や豊浦、多々良学園から校名変更した高川学園あたりも忘れてはいけない存在である。

(文:手束 仁)

注目記事・【6月特集】快進撃の作り方