【全文掲載】なぜ岩下敬輔は、シーズン途中でガンバ大阪へ移籍したのか【飯竹友彦】
■将来を嘱望された存在
8月6日、クラブから公式に「岩下敬輔選手 ガンバ大阪へ期限付き移籍決定のお知らせ」がリリースされた。在籍年数は6年半。通算成績は、J1リーグ(127試合/12得点)、リーグカップ(34試合/3得点)、天皇杯(14試合/2得点)である。
2005年、高校選手権の優勝を手みやげに鹿児島実業高校から清水へ入団。初年度から交代出場ながらプロ初出場を果たす。181cmというサイズに加えて、中学年代までは攻撃的なポジションで鹿児島県選抜に選ばれるほど足元の技術も高かったため、長谷川元監督は本職のCB以外にも、ボランチやSBでも積極的に起用した。そのため、2007年から飛躍的に出場機会を増やし経験を積んでいくと、2009年にはG大阪へ移籍した高木和通(現神戸)の代わりにCBのレギュラーへ定着。すると、高いパフォーマンスが評価され、その年の10月には日本代表候補にも選出されるなど人気、実力共に飛躍の年となった。当然、クラブも将来的にはチームの顔として、守備陣の軸として期待を掛けていたことは想像に難くない。
■どこで歯車が狂いだしたのか
しかし、迎えた2012年、今シーズンは開幕戦からレギュラーとして出場しながらも、安定感に欠けた印象を受けるようになった。5月16日のナビスコ杯第4節の神戸戦では僅か前半32分で交代。「良くなかった。集中ができていなく、ボールを何回も失っていた。キャプテンにはそういったことをやらせておくことはできない」と、アフシン・ゴトビ監督からは強く糾弾された。するとその後、出場停止となった第12節の浦和戦から、リーグ戦、ナビスコ杯を合わせて公式戦で8試合、出場機会を得ることはなかった。
長い調整の後、大学生との練習試合をこなし、7月7日の第17節川崎戦で先発に復帰した。すると、堅実なプレーで川崎の攻撃陣を無得点に押さえ勝ち点1をチームにもたらした。完全復帰か?と思えた。しかし、翌18節の柏戦では再び不運に見舞われる。前半の44分に相手クロスに対してハンドを犯す。すると、この判定で2度目の警告を受け前半のうちに退場となる。10人となったチームは柏を相手に5失点という大敗を喫してしまった。その後、岩下は一度もオレンジ色のユニフォームに袖を通すことなくG大阪への期限付き移籍が決まった。
順風満帆に見えた岩下。どこから歯車が狂いだしたのだろうか?
■強烈なパーソナリティ
過去に岩下選手には何度かインタビューをさせてもらったことがある。そのとき岩下は、こちらの出す質問に対して、ひとつひとつ、チームのことや仲間のこと、サポーターのことまで深く考慮されたコメントで応えてくれた。しかも、その中には自身の主義や主張もしっかりと含まれ実にバランスを考えた適確なものだったという記憶がある。そして、極めつけはインタビューが終わった後だ。岩下は、「ありがとうございました」と頭を下げ部屋を出て行く。その後も何度かインタビューをお願いして、お互いに慣れてきても、その丁寧な挨拶が省略されたことは一度もない。いつだったか、そのことを本人に聞くと、高校か中学の恩師の教えだと教えてくれた記憶がうろ覚えであるが残っている。プロとなった岩下だが、その言葉を今も律儀に守っている。根は真面目な好青年。そういう印象が強く残っている。
しかし、一般的な岩下の印象と言えば、ピッチ上で見せる相手を吹っ飛ばす強烈なタックルや、味方に大きな声での怒声、檄を飛ばす闘争心溢れる姿だろう。やや切れやすい、そういう印象もあり、審判からイエローカードを提示されることも多かった。だが、良くも悪くもそれが岩下敬輔というパーソナリティなのだ。
そうした岩下の強いパーソナリティは、2010年までのチームであれば問題はなかった。しかし、その年のオフに監督の長谷川健太さんが退任し、市川大祐、伊東輝悦、西部洋平らが戦力外となり、藤本淳吾、兵働昭弘、本田拓也らまでもがチームを去っていった。その結果、岩下は山本海人に次いでチーム在籍年数が長い選手となった。今のチームは「平均年齢22〜23歳」という若い選手がピッチに立つことが多くなる。特に岩下の周辺、守備的なポジションには、最年長のヨンアピンが25歳を筆頭に、吉田豊、イ・キジェ、村松大輔という若いメンバーが名を連ねていた。そうなると、岩下の強烈なパーソナリティは際立ったもの、いや、やや浮いた存在になってしまったのだろう。
8月6日、クラブから公式に「岩下敬輔選手 ガンバ大阪へ期限付き移籍決定のお知らせ」がリリースされた。在籍年数は6年半。通算成績は、J1リーグ(127試合/12得点)、リーグカップ(34試合/3得点)、天皇杯(14試合/2得点)である。
2005年、高校選手権の優勝を手みやげに鹿児島実業高校から清水へ入団。初年度から交代出場ながらプロ初出場を果たす。181cmというサイズに加えて、中学年代までは攻撃的なポジションで鹿児島県選抜に選ばれるほど足元の技術も高かったため、長谷川元監督は本職のCB以外にも、ボランチやSBでも積極的に起用した。そのため、2007年から飛躍的に出場機会を増やし経験を積んでいくと、2009年にはG大阪へ移籍した高木和通(現神戸)の代わりにCBのレギュラーへ定着。すると、高いパフォーマンスが評価され、その年の10月には日本代表候補にも選出されるなど人気、実力共に飛躍の年となった。当然、クラブも将来的にはチームの顔として、守備陣の軸として期待を掛けていたことは想像に難くない。
しかし、迎えた2012年、今シーズンは開幕戦からレギュラーとして出場しながらも、安定感に欠けた印象を受けるようになった。5月16日のナビスコ杯第4節の神戸戦では僅か前半32分で交代。「良くなかった。集中ができていなく、ボールを何回も失っていた。キャプテンにはそういったことをやらせておくことはできない」と、アフシン・ゴトビ監督からは強く糾弾された。するとその後、出場停止となった第12節の浦和戦から、リーグ戦、ナビスコ杯を合わせて公式戦で8試合、出場機会を得ることはなかった。
長い調整の後、大学生との練習試合をこなし、7月7日の第17節川崎戦で先発に復帰した。すると、堅実なプレーで川崎の攻撃陣を無得点に押さえ勝ち点1をチームにもたらした。完全復帰か?と思えた。しかし、翌18節の柏戦では再び不運に見舞われる。前半の44分に相手クロスに対してハンドを犯す。すると、この判定で2度目の警告を受け前半のうちに退場となる。10人となったチームは柏を相手に5失点という大敗を喫してしまった。その後、岩下は一度もオレンジ色のユニフォームに袖を通すことなくG大阪への期限付き移籍が決まった。
順風満帆に見えた岩下。どこから歯車が狂いだしたのだろうか?
■強烈なパーソナリティ
過去に岩下選手には何度かインタビューをさせてもらったことがある。そのとき岩下は、こちらの出す質問に対して、ひとつひとつ、チームのことや仲間のこと、サポーターのことまで深く考慮されたコメントで応えてくれた。しかも、その中には自身の主義や主張もしっかりと含まれ実にバランスを考えた適確なものだったという記憶がある。そして、極めつけはインタビューが終わった後だ。岩下は、「ありがとうございました」と頭を下げ部屋を出て行く。その後も何度かインタビューをお願いして、お互いに慣れてきても、その丁寧な挨拶が省略されたことは一度もない。いつだったか、そのことを本人に聞くと、高校か中学の恩師の教えだと教えてくれた記憶がうろ覚えであるが残っている。プロとなった岩下だが、その言葉を今も律儀に守っている。根は真面目な好青年。そういう印象が強く残っている。
しかし、一般的な岩下の印象と言えば、ピッチ上で見せる相手を吹っ飛ばす強烈なタックルや、味方に大きな声での怒声、檄を飛ばす闘争心溢れる姿だろう。やや切れやすい、そういう印象もあり、審判からイエローカードを提示されることも多かった。だが、良くも悪くもそれが岩下敬輔というパーソナリティなのだ。
そうした岩下の強いパーソナリティは、2010年までのチームであれば問題はなかった。しかし、その年のオフに監督の長谷川健太さんが退任し、市川大祐、伊東輝悦、西部洋平らが戦力外となり、藤本淳吾、兵働昭弘、本田拓也らまでもがチームを去っていった。その結果、岩下は山本海人に次いでチーム在籍年数が長い選手となった。今のチームは「平均年齢22〜23歳」という若い選手がピッチに立つことが多くなる。特に岩下の周辺、守備的なポジションには、最年長のヨンアピンが25歳を筆頭に、吉田豊、イ・キジェ、村松大輔という若いメンバーが名を連ねていた。そうなると、岩下の強烈なパーソナリティは際立ったもの、いや、やや浮いた存在になってしまったのだろう。