悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――勝矢寿延編

1993年10月に行なわれたアメリカW杯アジア最終予選。慣れないポジションで奮闘していた日本代表選手がいた。勝矢寿延。本来センターバックの男が、負傷の都並敏史に代わって左サイドバックを任されたのだ。周囲からは不安を囁かれていたが、勝矢はそうした雑音を吹き飛ばす活躍を見せ、日本の勝利に貢献した。そして、その舞台裏ではそんな勝矢を支えていた「ふたり」の存在があった――。

■同い年のあいつとは昔から
 不思議な"縁"があった

 勝矢寿延(横浜マリノス/現セレッソ大阪スカウト)は、そもそもセンターバックの選手である。右サイドバックをこなすこともあるが、強靭な体躯(たいく)を武器とした対人プレイの強さが売りだ。

 そんな彼が、1993年のアメリカW杯アジア最終予選(カタール・ドーハ)では、左サイドバックとして3試合に出場した。オフトジャパン不動の左サイドバック、都並敏史(ヴェルディ川崎/現解説者)がJリーグで左足首を亀裂骨折。メンバーには名を連ねていたものの、試合に出場することが不可能だったからだ。最初の2戦こそ、三浦泰年(清水エスパルス/現東京ヴェルディ監督)が出場したが、守備の強化を図るために、3戦目からは勝矢が都並の代役を務めた。

 勝矢が都並の代役を務めるのは、実はそれが初めてではなかった。

「都並とは同い年(1961年生まれ)で、ユース代表のときに初めて一緒にプレイしました。その後、都並は日本代表入りして、1985年のメキシコW杯予選では、すでにレギュラーとして活躍していました。その最中、都並が警告の累積で試合に出られなくなったことがあったんです。そのとき、代わりに呼ばれたのが、僕でした。今思えば、都並が累積警告にならなければ、僕が代表に選ばれることはなかったかもしれないですし、初代表が都並の代わりで、(ドーハで戦った)自分にとって最後の代表でも、都並の代わりに試合に出場した。あいつとは、なんか不思議な"縁"を感じますね」

 とはいえ、勝矢が代表で左サイドバックをやったのは、初代表で試合に出場したときだけ(1985年9月22日vs香港。メキシコW杯アジア2次予選)。以降は、本職のセンターバック、もしくは右サイドバックしかやってこなかった。ゆえに、オフトジャパンでも、勝矢はセンターバックか、右サイドバックの控えだった。

 事態が変わったのは、アメリカW杯アジア最終予選を1カ月後に控えた、1993年9月のスペイン合宿だった。最初の練習試合で左サイドバックを務めたのは、新たに招集された江尻篤彦(ジェフユナイテッド市原/現ジェフユナイテッド千葉コーチ)だったが、前半が終了したハーフタイム、アップをしている控え選手のところに清雲栄純コーチがやってきて、勝矢を呼んだ。

「勝矢、(後半から)行くぞ!」

 その言葉に、勝矢は驚いた。センターバックは安定している。右サイドバックの堀池巧(エスパルス/現解説者)の調子も悪くない。自分がどこのポジションに代わって入るのか、わからなかったからだ。

 勝矢は、疑問を感じながら、ロッカールームに向かった。すると、オフトが言った。

「左サイドバックで行くぞ」

 勝矢は、さらに驚いた。無理もないことだった。初代表以来、左サイドバックなどやったことがない。それも、8年も前のことだ。

「『本当ですか? マジッすか?』って、オフトにすかさず聞き返しましたよ」

 それでも、勝矢は後半の45分をなんとか乗り切った。大きなミスもなかった。が、プレイ中はずっと悩んでいた。左サイドは本来、FWカズ(三浦知良。現横浜FC)、MFラモス瑠偉(現ビーチサッカー日本代表監督)、DF都並と、ヴェルディの選手で固められていて、オフトジャパンの攻撃の生命線だった。そこで、自分がどんな役割を果たせばいいのか、わからなかったからだ。

 その日の夜、勝矢は都並の部屋を訪れた。

「都並が(左サイドの)答えを持っていると思ったんです。例えば、ラモスさんがボールを持ったときにはどう動けばいいのか、どうサポートすればいいのか。そして、ラモスさんやカズとはどんな位置関係をとればいいのか、といったことです。都並を含めて、彼ら3人だけの決め事があるんじゃないかと思ったんです」

 部屋に入った瞬間、勝矢は都並に向かって、自分が抱えている疑問を早口でまくしたてた。すると、都並は冷静にこう答えたという。

「カッちゃん(勝矢)は、カッちゃんのプレイスタイルでやればいいんだよ。オレにないものを持っているんだから、自分の色を出せばいいんだ。オフトも、それを求めていると思うよ」

 都並からは、特別に細かい指示はもらえなかった。されど、都並の言葉が勝矢の気持ちを楽にしてくれた。

「『よし、自分の色を出そう』と思いましたね。結局、それって守備の部分じゃないですか。その仕事で、自分はチームに貢献しようと」

 スペイン合宿における残り2試合のテストマッチは、勝矢が左サイドバックでフル出場を果たした。試合中は、頻繁にベンチにいる都並の顔を見て、彼のアドバイスに従ってプレイしていた。

「普通は、監督を見ますよね(笑)。でも、オフトの顔をまったく見なかったんですよ。都並が何かヒントをくれるんじゃないかって、あいつの表情を見て、自分がやるべきことの答えを探していました。都並から『もっと前に行っていいよ』というゼスチャーがあれば、『そうか』っていう具合に。それで、あいつが『いいぞ、いいぞ』って言ってくれたときには、めちゃくちゃうれしかったですね」

■サッカー人生の中で
 いちばん大きなショックだった

 スペイン合宿を終えて、勝矢はある程度の手応えをつかんでいた。最終予選直前の、アジア・アフリカ選手権(1993年10月4日vsコートジボワール/1−0)でも、当然、自分が先発で試合に出ると思っていた。

「スペイン、国内の事前合宿の流れから、自分が(左サイドバックで)試合に出場すると確信していました。だから実家にも、『明日、先発だから(テレビで試合を)見ててよ』って連絡したんです」

 迎えた試合当日、先発メンバーから、勝矢の名前は消えていた。左サイドバックには、三浦泰年が入った。

「あれ? オレは?っていう感じでしたね。今まで自分は何をやってきたのか、自問自答しましたよ。あのときの(メンバー発表の)ことは、今でも鮮明に覚えています。普通はメンバーから外されるときって、なんとなくそういう布石があるものじゃないですか。それが、全然なかったんですよね、あのときは......。自分のサッカー人生の中で、いちばんショックが大きかった瞬間だったかもしれない」

 そうは言っても、チームではラモスに次ぐ、ベテランである。最終予選に向けてドーハへと出発するときには、勝矢の気持ちはすっかり切り替わっていた。

「『勝矢では左サイドバックは無理』という烙印を押されたわけですから、仕方がありません。それでもう、余程のことがない限り、試合に出ることはないだろうと思いました。ならば、このチームで自分ができる仕事を精一杯やろうと思って、ドーハに乗り込んでいきました」

 勝矢は練習で使用する用具を率先して運び、トレーニング中は声を出して、チームの雰囲気を盛り上げた。宿舎でも、あらゆる選手の部屋を訪ねて、いいムードを作っていこうと心掛けた。だが、肝心の予選で、日本は結果を出せなかった。初戦のサウジアラビア戦を0−0で引き分けると、2戦目のイラン戦は1−2で敗戦。6チーム中最下位に沈み、日本は崖っぷちに追い込まれた。

 勝矢の部屋に電話がかかってきたのは、そのあとだった。3戦目の北朝鮮戦の前日、トレーニングに出発する直前に、清雲コーチから呼び出された。

「勝矢、監督室に来い」

 早速、オフト監督の部屋に向かって、ドアを開けると、オフトが笑顔を浮べてこう言った。

「勝矢、(試合に出る)準備はできているか?」

 勝矢は瞬時にサムアップして、笑顔で返した。

「おお、(準備は)できているよ!」

 負けられない大事な一戦で、ついに出番がきたのだ。ポジションは、もちろん左サイドバック。与えられた役割は、北朝鮮の攻撃の起点となっていた、右サイドバックのキム・グァンミンを抑えることだった。

「プレッシャーはありましたよ。もう負けられない試合で、相手のキーマンである選手を止めろ、と言われたわけですから。もし僕が(キム・グァンミンを)止めらないで試合に負けたら、すべてが終わってしまいますし。だからオフトは、笑いながら『準備はできているか』と言って、僕をリラックスさせてくれたんでしょうね」

 試合前日の練習のときには、都並が勝矢のもとにやってきた。

「ついに出番がきたな。もう、(左サイドバックは)カッちゃんしかいないんだからな!」

 都並の激励に、勝矢は奮い立った。

「おお、やるよ。やってやるよ!」

 宣言どおり、勝矢は北朝鮮戦でキム・グァンミンを完璧に抑えた。そして試合は、3−0で快勝した。この勝矢の活躍には、これまでに語られたことのない逸話がある。予選が始まると、どうしてもレギュラー組中心の練習となり、控え組の練習量は少なくなる。そこで、勝矢は意外な行動をとっていたのだ。

「予選中で、規制が厳しい環境の中で何ができるかと考えたときに、朝だったら、みんなも寝ているし、外の人通りも少ないと思って、朝食前に走っていたんですよ。朝の6時前に宿舎のホテルを抜け出して、1時間くらい、自分のコンディションを保つために、海岸線をダッシュしたりしていたんです。無断外出ですからね、本来はルール違反です。でも、あれがなかったら、僕は90分間、戦えなかったと思います」

■あいつが平然と歩いていった
 その姿が忘れられない

 続く4戦目の対戦相手は韓国。その前日、勝矢は都並や武田修宏(ヴェルディ/現解説者)とともに、ホテルの喫茶室でデザイナーのコシノ・ジュンコと会っていた。その際、「あとふたつ勝ったら、人生が変わるね」などと話をしていたら、コシノがおもむろに口を開いた。

「人間って、土壇場になると、100%、120%の力を出そうって、よく言いますよね。でも、それは無理なんですよ。100%の力を出そうと思えば思うほど、力が出せなくなるものなんです。結局、自分が普段やっていることしかできないんだから、割り切ることも大切なんですよ」

 その言葉に、勝矢は救われたという。

「いろいろなプレッシャーを抱えていましたが、コシノさんの言葉で、肩の荷が下りたような気がして、気持ちが楽になりました。それで、変に気負うことなく、残りの2試合に臨むことができました。すごく、いい言葉をいただいたな、と思いましたね」

 勝矢ががんばれたのは、それだけではない。最も大きかったのは、やはり都並の存在だ。

「都並のケガはかなり酷いものだった。でもあいつは、練習前に鎮痛消炎剤の注射を打ってから、普通にウォーミングアップをして、ボール回しをして、ゲーム形式の練習になったら、スライディングとかガンガンやるんですよ。だけど、練習が終わってバスに乗ると、後ろのほうから都並のうめき声が聞こえてくるんです。『うぅ〜』って。痛み止めが切れると、激痛に変わるんです。本当に耐えられないほどの痛さだったと思います。

 韓国戦の前日練習が終わった日もそんな状態だったんですが、ホテルに着いたら、韓国の選手もちょうど練習を終えたところだったんですね。そうしたら、都並は韓国の選手の前を普通に歩いてエレベーターに乗ったんです。あり得ないことですよ。本当は誰かの肩を借りなきゃ、歩けないのに......。韓国側には、都並が試合に出るのか、出ないのかという情報は入っていませんからね。それを悟られないために、あいつは、相当な痛みを堪えて、ひとりで平然と歩いていったんです。あの姿は、忘れられません。

 あいつとは付き合いも長いし、韓国とも代表では一緒に何度も戦ってきた。でも、一度も勝ったことがなかった。そのことが頭の中に一気に蘇(よみがえ)ってきて、韓国戦では余計に、『都並のために』っていう思いを強くして戦っていましたね」

 勝矢の思いが強かったのだろう。オフトジャパンでも2引き分けと、勝ち星を得たことのなかった韓国に1−0で勝利した。

「1−0でリードしていても、『勝てる』という感覚にはなれなかった。気持ちの余裕なんて、まったくなかった。だって、先輩たちの日韓戦も数多く見てきて、韓国にはことごとくやられてきましたからね。僕自身も、何回戦っても勝てなかった。その韓国に1−0で勝っているというプレッシャーは半端じゃなかったですよ。だからこそ、W杯予選という真剣勝負の場で、韓国に勝った瞬間の喜びも半端じゃなかった。過去のことを知っている僕らじゃないと、味わえない感動だったと思います」

 そして、イラクとの最終戦。日本は2−1とリードしながらも、イラクの猛攻に合って、体力はかなり消耗していた。"運命"のショートコーナーの前、イラクのクロスに対してスライディングにいったのは、勝矢だった。しかしその対応は間に合わず、GKの松永成立(マリノス/現横浜F・マリノスGKコーチ)のファインセーブでなんとかCKに逃れた。

「あそこが、限界でしたね。自分があんなに(相手のクロスに対応できないほど)追い込まれたのは、初めてでした。体力には自信があったんですけど......。肉体的にも、精神的にも、あそこまで追い込まれるとは......。スライディングしたままで、テツ(柱谷哲二/ヴェルディ/現水戸ホーリーホック監督)に『カッちゃん、帰って来い!』って言われたのに、しんどくて、すぐに立てなかった。最後の(ショートコーナーからの)イラクのヘディングシュートにも、反応できなかった。僕のポジションはゴールのニアサイドですから、近くにいたのに......。集中力が切れていました。いや、集中しなきゃいけないっていう思いはあったんです。でも、反応できなかった。普段ならあそこにクロスが入ってきたら、体が自然に動いています。それなのに......、動けなかった......」

 イラクにゴールを決められても、勝矢はW杯に行けると信じていた。

「引き分けですから、僕は『(W杯に)行ける』と思っていたんですよ。このチームは、W杯に行けるチームだって思っていたので、それを信じて疑わなかった。でも、ベンチのみんなの表情を見て、『ああ、ダメなんだな』と思いました。信じられなかったです。だって、こんなにがんばったのに......。日本はこんなに強くなったのに......。

 僕と都並は『あと一歩だった』と言われたメキシコW杯予選も、ソウル五輪予選(1987年)も経験しているけど、ピッチで戦っていた僕らは、そのとき『あと一歩』なんて微塵も思っていなかった。世界に出るチームとは力の差があることを、試合をしている中で痛感していましたから。だけど、オフトジャパンは違った。必ずW杯に行けるチームだと思っていた。それぐらいW杯に近づいていたのに、行けなかった。だから、(世界は)そんなに遠いのかって......」

 当時のことを振り返って、勝矢の中では再び悔しい思いが込み上げてきているようだった。そして、続けてこう語った。

「もう1回、都並と一緒にプレイしたかった。W杯に出場していれば、僕はサブに戻っているだろうけど、もしかしたら、1分くらいは一緒にプレイできたかもしれない。それが実現できなくて、(都並には)申し訳なかった」

 今でも、あのドーハでの試合を「見られない」という勝矢。

「もし見るなら、みんなで見たい。酒を酌(く)みかわしながらね」

 その日が来たとき、オフトジャパンの面々は「ドーハの悲劇」という"十字架"から、本当の意味で解放されるかもしれない。(文中敬称略)

渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya