タモリはどう語られてきたか2─大批判を浴びる「笑っていいとも!」編
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■名プロデューサーから見たタモリとビートたけし
「森田一義アワー 笑っていいとも!」の放送がフジテレビで開始されたのは、1982年10月4日のことでした。それまで夜のイメージの強かったタモリですが、同番組の初代プロデューサーの横澤彪は、「森田一義」という新たなキャラクターをつくれば、昼向けの顔になると考えたといいます。そのため、真ん中分けだった髪型を七三にし、衣装はアイビールック調、トレードマークのサングラスも濃い色から薄い色のものへ変えました。
当初タモリは「いいとも」の仕事を、3カ月の中継ぎのつもりで引き受けたそうです。開始してしばらくは視聴率もあまり伸びませんでしたが、横澤は3日目ぐらいに手応えを感じたといいます。その勘は的中し、番組中のやりとりから「〜してくれるかな?」「いいとも!」という言葉が流行するなど、人気は上昇していきました。
横澤は同時期に「オレたちひょうきん族」のプロデュースも手がけています。そこでビートたけしとかかわった経験から、タモリとたけしの比較論をことあるごとに開陳しました。
ある対談では、明石家さんまをあいだに置くことでタモリとたけしの違いを見出しています。いわく、「さんまとたけしは芸人として育ってきた軌跡が同じなので、さんまがウケるとなると対抗意識が出てくるし、逆にわかりあえる部分もある」と。一方、さんまとタモリの関係はこれとは異なる。
《タモリはルールが全く違いますから、おれはさんまちゃんにはかなわない。「いまあんたが一番」といえちゃうんです。そういう意味では、タモリはいわゆる芸人じゃない。すぐれたタレントさんというふうに考えてあげたほうがいいんじゃないかな》(『若者たちの大神 筑紫哲也対論集』)
べつのところでは、たけしとタモリを1960年代に活躍した二大横綱である大鵬と柏戸になぞらえて、次のように説明しています。
《タモリが大鵬で、たけちゃんは柏戸って、柔と剛が非常にはっきりしてると思うのね。タモリは守りの笑いだし、たけちゃんは攻めの笑いですね》(山藤章二との対談。『「笑い」の構造』)
「守りの笑い」というのは、「受けの笑い」と言い換えてもいいでしょう。大鵬の相撲と同じように、どんな相手に対しても、自分のペースに持っていくというのがタモリの笑いだというわけです。前回話したように、初期のタモリの「密室芸」からして、その多くが仲間から吸収したり、ときには無茶なリクエストを受けて生まれたものでした。そして「受けの笑い」の才能は、「笑っていいとも!」によってまた新たな開花を見せることになります。
80年代以降のテレビの笑いをともにリードしながらも、さまざまな相違点のあるタモリとたけしですが、横澤は、いずれかの一人天下にならず、二人天下になってよかったと書いています。一人天下では摩耗が激しいけれども、両者が違う個性を武器に競い合うことで二人天下となり、相乗効果を上げつつ、笑いの世界が広がっていったというのです(『犬も歩けばプロデューサー』)。
■「いいとも」でタモリは“変節”したのか?
しかし、「笑っていいとも!」でのタモリのイメージチェンジに対し、従来の彼の支持者のなかには違和感を抱く人も少なくなかったようです。たとえばイラストレーターの山藤章二は、「いいとも」放送開始の翌年、「オール讀物」誌での連載で、タモリのイラストに以下のような文章を添え、彼の“変節”を批判しました。
《近頃のタモリは何だ!! すっかり全国民的芸能人、茶の間のスーパースターになり下がってしまったではないか!!(中略)間違いのもとは「笑っていいとも!」だ。毎日、昼間、ナマ、出ずっぱり…こんなことしてたら影も毒もうすくなって当然だろう。スタジオには、誰を見てもカワユーイ、何をきいてもギャハハハのアホガキが陣取ってる。目の前にこんなのがいればどうしてもそのレベルに合わせてしまう。昔のタモリはもっと知的にヒネクレていた。世間の大多数(マジョリティ)を敵にしていた。そこがよかったのだ!!》(『オール曲者』)
山藤はまた同時期に「小説現代」での対談シリーズで、ことあるごとにタモリを俎上に乗せました(同シリーズは、『「笑い」の構造』、『「笑い」の解体』、『「笑い」の混沌』という3冊にまとめられています)。そのなかではたとえば、初期の「タモリ倶楽部」にも携わった作家の景山民夫が、次のように分析しています。
《「笑っていいとも!」が始まって一年半ぐらいは、タモリ自身ももとのタモリの部分にかなりしがみついていたんですけども、怖いもんで、毎日、週に五日間、あのオバさんとミーハーのバカな女の子の前に出ると、つまり自分が接してる人間に合わせてるんですね。(中略)とくに、あれは公開ですからねェ。そちらのレベルに合わせていく芸にどんどんなって……。だから、はっきりいってしまえばつまり流す芸になっちゃったと》(『「笑い」の解体』)
タモリへの風当たりは、「いいとも」が放送開始から10年を超え、長寿番組となった1990年代以降、さらに強まりました。作家で演芸にも造詣の深い吉川潮の次の一文は、当時のタモリ批判の典型といえます。
《淡々と番組を進行させる姿はまるで小役人のようだ。(中略)彼にはもともと出世をあきらめたアナーキーなサラリーマンみたいなところがあった。それが、ひょんなことから出世してしまった。偉くなるにつれてアナーキーさが消え、サラリーマン根性が残ったとしか思えない》(「現代」1996年7月号)
同様の批判は、放送作家でタレントの高田文夫からも飛び出しました。
《もうサラリーマンだもん。お笑いの区役所みたいなもんだよ。お役所仕事みたいなもんだろ、タモさんて。(中略)要するに、とりあえず腰掛けで入った世界が、たまたまお笑いであって、自分もそのスタイルを崩さないじゃない。それはある程度素晴らしいことなんだけれど。俺は芸人じゃないといって、淡々とやっているから。(中略)でも俺ら、お笑いが好きな者にとってはたまらないですよ。イヤですよ、そういうのは、ホントに》(「ダイム」1993年8月号)
高校生だった私は、この記事をリアルタイムで立ち読みして、非常に共感した記憶があります。当時の10代から見ても、サラリーマンのように毎日同じ時間にテレビに出て、観客と「〜ですか?」「そうですね」とお約束のやりとりをしているタモリがかっこ悪く思えたのです。まあ、メジャーなものが何もかもくだらなく思える、一種の「高二病」だったのかもしれませんが。
■「いいとも」長寿の秘訣とは?
もっとも、こうした批判はタモリにはわかりきったことだったかもしれません。何しろ、この時期、たびたび雑誌のインタビューに応じては、「いいとも」長寿の秘訣は「やる気を出さないこと」と答えたりしているのですから。もちろんスタッフにはやる気は必要だけれども、タレントはなくて大丈夫、いや、むしろないほうがいいと言うのです。
《[引用者注――スタッフなどに]流されなきゃできないですよ。毎日今日の反省とかして、あそこが悪かったから明日はこうしよう、なんてやってたらこんなに何年も続かないでしょう》(「ターザン」1998年10月28日号)
同じインタビューでは、「ずっと流れに乗ってるだけで、自分では動かない。それは、責任をとるのがいやだから」とも語っています。その姿勢は、年を追うごとにますます強くなりました。2001年のインタビューでは、記者から「最近は、『いいとも』でも仕切ることが減りましたね」と話を振られ、次のように答えています。
《共演者は皆、できる人ばかりですからね。仕切りでも何でもやってもらわないと。(中略)どんな組織でも、社長が営業から広報までやるようじゃダメでしょ。全部自分でやらないで、下にやらせて楽をする。これが組織をデカくする近道》(「週刊ポスト」2001年8月31日号)
まるで成功した経営者のような発言ですが(笑)、ただ、こうしたタモリの考え方は、本質的にはデビュー以来変わっていないともいえます。だって、「いいとも」の始まる8カ月ほど前にも、こんなことを言っていたのですから。
《糸井 これまで、自分からやりたいといってやったことはありますか?
タモリ よく考えるとないみたい。恥ずかしながら》(『糸井重里対談集 話せばわかるか』)
■若手タレントから面白さを引き出す
1990年代以降、「ジャングルTV タモリの法則」や「ボキャブラ天国」などといった番組で、若手タレントの後見人的な役割も目立つようになります。そこで才能を開花させたタレントも少なくない。これについては、作家の山本文緒が次のように書いています。
《タモリさんは、若手のお笑いタレントを使うのも上手ですよね。『ジャングルTVタモリの法則』では、番組の中で料理を作ったりダンスをしたり、出演者全員が遊んでいるような雰囲気の中で、ナインティナインをはじめとする出演者の面白さを巧みに引き出している。タモリさんがテレビの世界で安定しているのは、そんなふうに自分が手綱を握りながらも一歩引いたスタンスを保ち続けているからではないでしょうか》(「アンアン」1996年10月18日号)
文中では「ジャングルTV」の料理のコーナーにも言及されています。この番組でタモリが料理が得意だということを知った人も多いのではないでしょうか。やはり90年代の人気番組である「タモリの音楽は世界だ」では音楽への造詣の深さを見せるなど、この頃にはタモリの趣味とリンクした番組も増えていきました。
そういえば、タモリは「自分で企画を出すとダメになる」と語り、「タモリ倶楽部」でも2〜3回企画を出したものの視聴率的には失敗したそうです。その企画の一つは、「東京の山登り」というもので、テレビ朝日の社長が喜んだだけだったとか(「週刊女性」1998年12月15日号)。でも考えてみれば、いまの「タモリ倶楽部」って、むしろ「東京の山登り」的な企画が主流ですよね。時代はようやくタモリのよりディープな趣味に追いついたのかもしれません。
続く3回目の講義では、とくに2000年代以降、趣味を全開にすることで再評価も高まっていったタモリについて見ていきたいと思います。
……といったところで、毎度おなじみのアレを。
来週も見てくれるかな?
(近藤正高)
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■名プロデューサーから見たタモリとビートたけし
「森田一義アワー 笑っていいとも!」の放送がフジテレビで開始されたのは、1982年10月4日のことでした。それまで夜のイメージの強かったタモリですが、同番組の初代プロデューサーの横澤彪は、「森田一義」という新たなキャラクターをつくれば、昼向けの顔になると考えたといいます。そのため、真ん中分けだった髪型を七三にし、衣装はアイビールック調、トレードマークのサングラスも濃い色から薄い色のものへ変えました。
横澤は同時期に「オレたちひょうきん族」のプロデュースも手がけています。そこでビートたけしとかかわった経験から、タモリとたけしの比較論をことあるごとに開陳しました。
ある対談では、明石家さんまをあいだに置くことでタモリとたけしの違いを見出しています。いわく、「さんまとたけしは芸人として育ってきた軌跡が同じなので、さんまがウケるとなると対抗意識が出てくるし、逆にわかりあえる部分もある」と。一方、さんまとタモリの関係はこれとは異なる。
《タモリはルールが全く違いますから、おれはさんまちゃんにはかなわない。「いまあんたが一番」といえちゃうんです。そういう意味では、タモリはいわゆる芸人じゃない。すぐれたタレントさんというふうに考えてあげたほうがいいんじゃないかな》(『若者たちの大神 筑紫哲也対論集』)
べつのところでは、たけしとタモリを1960年代に活躍した二大横綱である大鵬と柏戸になぞらえて、次のように説明しています。
《タモリが大鵬で、たけちゃんは柏戸って、柔と剛が非常にはっきりしてると思うのね。タモリは守りの笑いだし、たけちゃんは攻めの笑いですね》(山藤章二との対談。『「笑い」の構造』)
「守りの笑い」というのは、「受けの笑い」と言い換えてもいいでしょう。大鵬の相撲と同じように、どんな相手に対しても、自分のペースに持っていくというのがタモリの笑いだというわけです。前回話したように、初期のタモリの「密室芸」からして、その多くが仲間から吸収したり、ときには無茶なリクエストを受けて生まれたものでした。そして「受けの笑い」の才能は、「笑っていいとも!」によってまた新たな開花を見せることになります。
80年代以降のテレビの笑いをともにリードしながらも、さまざまな相違点のあるタモリとたけしですが、横澤は、いずれかの一人天下にならず、二人天下になってよかったと書いています。一人天下では摩耗が激しいけれども、両者が違う個性を武器に競い合うことで二人天下となり、相乗効果を上げつつ、笑いの世界が広がっていったというのです(『犬も歩けばプロデューサー』)。
■「いいとも」でタモリは“変節”したのか?
しかし、「笑っていいとも!」でのタモリのイメージチェンジに対し、従来の彼の支持者のなかには違和感を抱く人も少なくなかったようです。たとえばイラストレーターの山藤章二は、「いいとも」放送開始の翌年、「オール讀物」誌での連載で、タモリのイラストに以下のような文章を添え、彼の“変節”を批判しました。
《近頃のタモリは何だ!! すっかり全国民的芸能人、茶の間のスーパースターになり下がってしまったではないか!!(中略)間違いのもとは「笑っていいとも!」だ。毎日、昼間、ナマ、出ずっぱり…こんなことしてたら影も毒もうすくなって当然だろう。スタジオには、誰を見てもカワユーイ、何をきいてもギャハハハのアホガキが陣取ってる。目の前にこんなのがいればどうしてもそのレベルに合わせてしまう。昔のタモリはもっと知的にヒネクレていた。世間の大多数(マジョリティ)を敵にしていた。そこがよかったのだ!!》(『オール曲者』)
山藤はまた同時期に「小説現代」での対談シリーズで、ことあるごとにタモリを俎上に乗せました(同シリーズは、『「笑い」の構造』、『「笑い」の解体』、『「笑い」の混沌』という3冊にまとめられています)。そのなかではたとえば、初期の「タモリ倶楽部」にも携わった作家の景山民夫が、次のように分析しています。
《「笑っていいとも!」が始まって一年半ぐらいは、タモリ自身ももとのタモリの部分にかなりしがみついていたんですけども、怖いもんで、毎日、週に五日間、あのオバさんとミーハーのバカな女の子の前に出ると、つまり自分が接してる人間に合わせてるんですね。(中略)とくに、あれは公開ですからねェ。そちらのレベルに合わせていく芸にどんどんなって……。だから、はっきりいってしまえばつまり流す芸になっちゃったと》(『「笑い」の解体』)
タモリへの風当たりは、「いいとも」が放送開始から10年を超え、長寿番組となった1990年代以降、さらに強まりました。作家で演芸にも造詣の深い吉川潮の次の一文は、当時のタモリ批判の典型といえます。
《淡々と番組を進行させる姿はまるで小役人のようだ。(中略)彼にはもともと出世をあきらめたアナーキーなサラリーマンみたいなところがあった。それが、ひょんなことから出世してしまった。偉くなるにつれてアナーキーさが消え、サラリーマン根性が残ったとしか思えない》(「現代」1996年7月号)
同様の批判は、放送作家でタレントの高田文夫からも飛び出しました。
《もうサラリーマンだもん。お笑いの区役所みたいなもんだよ。お役所仕事みたいなもんだろ、タモさんて。(中略)要するに、とりあえず腰掛けで入った世界が、たまたまお笑いであって、自分もそのスタイルを崩さないじゃない。それはある程度素晴らしいことなんだけれど。俺は芸人じゃないといって、淡々とやっているから。(中略)でも俺ら、お笑いが好きな者にとってはたまらないですよ。イヤですよ、そういうのは、ホントに》(「ダイム」1993年8月号)
高校生だった私は、この記事をリアルタイムで立ち読みして、非常に共感した記憶があります。当時の10代から見ても、サラリーマンのように毎日同じ時間にテレビに出て、観客と「〜ですか?」「そうですね」とお約束のやりとりをしているタモリがかっこ悪く思えたのです。まあ、メジャーなものが何もかもくだらなく思える、一種の「高二病」だったのかもしれませんが。
■「いいとも」長寿の秘訣とは?
もっとも、こうした批判はタモリにはわかりきったことだったかもしれません。何しろ、この時期、たびたび雑誌のインタビューに応じては、「いいとも」長寿の秘訣は「やる気を出さないこと」と答えたりしているのですから。もちろんスタッフにはやる気は必要だけれども、タレントはなくて大丈夫、いや、むしろないほうがいいと言うのです。
《[引用者注――スタッフなどに]流されなきゃできないですよ。毎日今日の反省とかして、あそこが悪かったから明日はこうしよう、なんてやってたらこんなに何年も続かないでしょう》(「ターザン」1998年10月28日号)
同じインタビューでは、「ずっと流れに乗ってるだけで、自分では動かない。それは、責任をとるのがいやだから」とも語っています。その姿勢は、年を追うごとにますます強くなりました。2001年のインタビューでは、記者から「最近は、『いいとも』でも仕切ることが減りましたね」と話を振られ、次のように答えています。
《共演者は皆、できる人ばかりですからね。仕切りでも何でもやってもらわないと。(中略)どんな組織でも、社長が営業から広報までやるようじゃダメでしょ。全部自分でやらないで、下にやらせて楽をする。これが組織をデカくする近道》(「週刊ポスト」2001年8月31日号)
まるで成功した経営者のような発言ですが(笑)、ただ、こうしたタモリの考え方は、本質的にはデビュー以来変わっていないともいえます。だって、「いいとも」の始まる8カ月ほど前にも、こんなことを言っていたのですから。
《糸井 これまで、自分からやりたいといってやったことはありますか?
タモリ よく考えるとないみたい。恥ずかしながら》(『糸井重里対談集 話せばわかるか』)
■若手タレントから面白さを引き出す
1990年代以降、「ジャングルTV タモリの法則」や「ボキャブラ天国」などといった番組で、若手タレントの後見人的な役割も目立つようになります。そこで才能を開花させたタレントも少なくない。これについては、作家の山本文緒が次のように書いています。
《タモリさんは、若手のお笑いタレントを使うのも上手ですよね。『ジャングルTVタモリの法則』では、番組の中で料理を作ったりダンスをしたり、出演者全員が遊んでいるような雰囲気の中で、ナインティナインをはじめとする出演者の面白さを巧みに引き出している。タモリさんがテレビの世界で安定しているのは、そんなふうに自分が手綱を握りながらも一歩引いたスタンスを保ち続けているからではないでしょうか》(「アンアン」1996年10月18日号)
文中では「ジャングルTV」の料理のコーナーにも言及されています。この番組でタモリが料理が得意だということを知った人も多いのではないでしょうか。やはり90年代の人気番組である「タモリの音楽は世界だ」では音楽への造詣の深さを見せるなど、この頃にはタモリの趣味とリンクした番組も増えていきました。
そういえば、タモリは「自分で企画を出すとダメになる」と語り、「タモリ倶楽部」でも2〜3回企画を出したものの視聴率的には失敗したそうです。その企画の一つは、「東京の山登り」というもので、テレビ朝日の社長が喜んだだけだったとか(「週刊女性」1998年12月15日号)。でも考えてみれば、いまの「タモリ倶楽部」って、むしろ「東京の山登り」的な企画が主流ですよね。時代はようやくタモリのよりディープな趣味に追いついたのかもしれません。
続く3回目の講義では、とくに2000年代以降、趣味を全開にすることで再評価も高まっていったタモリについて見ていきたいと思います。
……といったところで、毎度おなじみのアレを。
来週も見てくれるかな?
(近藤正高)
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