体罰もごほうびも同じこと/純丘曜彰 教授博士
/体罰と体楽は表裏一体。体罰を禁じても、体楽がインセンティヴなら、その他の不祥事までは無くならない。本来のスポーツは、損得に振り回されない強い心を磨き、その生き方を貫けるだけの強い体を養うためのものではなかったのだろうか。/
体罰、って、そりゃ、上のやつらの当たり散らしのことだろ。問題外だ。だが、昨今の体育会の世界って、体罰を止めたところで、そのインセンティヴは、あいかわらず、試合に勝ったら百万円、年俸1億、ハワイ旅行、みたいな、言わば「体楽」なんじゃないのか。そういうフィジカルな賞罰的世界観に留まるかぎり、結局は、体育バカ、つまり、体は強いが、心は弱いやつらを量産するだけ。自分より下のやつを殴る、女を見ればやっちまう、カネはいくらでもガメる、って、人間としてあまりに弱すぎる。
武道を道と言うのは、それが生き方の問題だからだ。武術そのものは、あくまでその生き方を貫くための手段にすぎない。人格陶冶(とうや)は、心を強くすることこそが目的で、心が強くいられるように体を鍛える。むしろ、損得だの、賞罰だのにかんたんに心を振り回されないためにこそ、体を鍛える。それは、世界のスポーツマンシップでも同じこと。だから、エリートや将校クラスを養成する学校ほど、スポーツを重視する。
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体罰、って、そりゃ、上のやつらの当たり散らしのことだろ。問題外だ。だが、昨今の体育会の世界って、体罰を止めたところで、そのインセンティヴは、あいかわらず、試合に勝ったら百万円、年俸1億、ハワイ旅行、みたいな、言わば「体楽」なんじゃないのか。そういうフィジカルな賞罰的世界観に留まるかぎり、結局は、体育バカ、つまり、体は強いが、心は弱いやつらを量産するだけ。自分より下のやつを殴る、女を見ればやっちまう、カネはいくらでもガメる、って、人間としてあまりに弱すぎる。
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