すべて運命が左右するわけではない。運命が左右「してくれる」のは出会いまでだ。

すべてを運命で語る人がいる。「あれも、運命だった」「これも、運命だった」。なるほど、すべては運命なる奴の責任か。

肯定的なことがらについても「運命だった」といってしまえば、どんなに楽なことだろう。成功もすべてを運命と考えることは、たしかに良い側面もある。そして、よくセットになっている言葉が、「日頃、良い行いをしていたから、運命が味方してくれた」と。

ただ、いくつかの疑問を持ってきた。たとえば、この世の中には、生まれてこなかった子供がいる。あるいは不慮の事故で亡くなった人もいる。彼らにたいして、運命を強調する人は、「運命だったから死んだのだ」というのだろうか。それでは遺族は何の慰めにもならない。また、「日ごろの行ないが悪かったから、運命から見放されたのだ」というのだろうか。

もちろん、そこまで貫徹すれば、一つの主義ではあるだろう。しかし、運命を強調する人で、ここまで一貫している人は、さほどいない。

同時に、「運命だけでは語れない」と思ってきた。その人に振りかかる偶然は、たしかに人生を左右する大きなファクターだろうけれど、本人の努力や能力もある。それらを無視して、「運命だ」とのみ語ってしまうことに違和感を抱いてきた。

そこで、こう考えることにした。

・運命はたしかに人の人生を左右する
・しかし、運命(偶然)が人を左右するのは、出会い、までだ
・その出会いをどう解釈するか、どう行動に移すかは、その人しだいだ

と。つまり、人生はきっかけを創出はするけれど、結果までは責任を負わないし、そこまでの影響力はないよ、と考えた。

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