モトGP日本グランプリの予選日、ツインリンクもてぎのファンファンラボで「RACERS」の公開取材が開催されました。こちらは「ヤマハのWGP参戦50周年を記念して」の一環との事。自前のサーキットで、ライバルメーカの参戦を祝うホンダと、それを受けるヤマハ。互いに認め合った好敵手ならではの感じが素敵です。





これが’83シーズン伝説の2台



さて、このトークイベント、ツインリンクもてぎのHPでのふれこみでは…
「往年のバイクシーンを蘇らせる人気雑誌「RACERS」の編集長加藤氏によるトークショーの公開取材を実施します。当日はヤマハ・ホンダの2社からゲストを迎え、80年代から現在までの舞台裏など鋭いトークが展開されます。「今だからこそ喋れる当時の舞台裏」へ切り込みますので、ヤマハVSホンダの裏話が飛び出すかも!?グランプリファン必見のイベントです」
…凄いキャッチですねぇ。これが正式なオファーが届かないうちに掲載され、カトウ編本人が一番びっくりしたのは、今だから喋れる当時の舞台裏です。


予選終わりの17:20カトウがステージに登場した時には結構な人が集まっていました。


カトウ編集長(以下“”)「レーサーズって本を作っております、カトウです〜」…からトークショーの
始まりです。


RCAERSのカトー編。いつもにこやか、そして腰の低い男だぁ。


ゲストは、ヤマハの北川 成人(しげと)さん。’76年からグランプリチームに携わり、ヤマハで一番
長くレースに携わっておられる一人です。(以下、“”)
カトウ編集長の心強い助っ人は元HRCグランプリチーム監督 黒澤 達夫(たつと)さん。
1996,7,8年。M.ドゥーハンが連続してチャンピオンを取っている頃の監督さんです。(以下、“”)
注:このレポートはトークショーの内容に加筆、部分によっては端折る事で当日のフィーリングを伝える
モノです。司会者、ゲストの発言を一言一句書き起こしたものではない事をご了承ください


カ:この組み合わせは珍しいですよね。別々には何度もお会いしていますが、ライバルメーカのお二人、しかも偉い人が並ぶなんてありませんよね。丁度ケニー・ロバーツとフレディ―・スペンサーが一堂に介して取材を・・・
北:(首をひねる)
黒:(同じく首をひねる)
カ:ち、ちょっと違いますか。じゃ、早速始めてさせて頂きたいと思います。
RACERSの第1巻は’83 NS500を特集しまして、’83年のグランプリはとても想い入れ深いものがあります。まずはお二方の’83年の思い出話から振り返って頂けたらと思います。まずは北川さんは’83年当時のお仕事は何をされてたんですか?
北:当時結婚したばかりで浮かれてましたwので、仕事の事はよく覚えてないですw 車全体を見る仕事ではなく、コンポーネント(サスペンション/ブレーキ)を担当していました。
カ:OW70はサスペンションやブレーキはよかったのですが、エンジンがね、スタートなかなかエンジンが掛からないと云うのが思い出深いのですが。
北:そうですね。吸気方式がロータリーバルブと云う特殊な方式で、始動性が悪かった。
カ:’83年はケニーとフレディーで全ての優勝を分け合うんですけど、ケニーからチームに「フレディのNS500のパフォーマンスに劣っている部分を補なってくれないか」というリクエストはあったんですか?
北:基本的にエンジンパフォーマンスについては(リクエストは)無かったんじゃないかな。と、いうのは黒澤さんを前にして云うのはなんですが、あの頃はうちの4気筒の方が少し速かったんですよ


ヤマハの北川さん。実に表情豊かにお話をされます。只今かる〜ぅく自慢中ですw


黒:(苦笑)
カ:では、黒澤さんは’83年頃って何をどういうお仕事を担当されていたんですか?
黒:当時は組み立て整備担当をやっており、マネージメントには絡んでいませんでした。現地で3気筒(NS500のV型3気筒エンジン)のトラブルがあった時、対策の指導をしたりといった仕事をしてました。
カ:聞くところによるとホンダは’83年は「何が何でもタイトルを獲るんだ!」と。NRの時代からなかなか勝てなくて、今年こそはという雰囲気は社内にあったんじゃないですか?。
黒:いや、(NS500)開発の当初から「スタート大事だね」と云う事で始動性を良くしたりとか、マス(重心)の集中を目指してコーナリングで何とかしようとしていた。さっき(北川氏が)パワーで勝っているって…その通りなんだけど、
北:(ニヤリ)
黒:そう云う事をやっていた。そして、





右がHRC黒澤さん。話の流れが怪しい北川さんの表情は…



「スタートで(フレディ―が)バンッと飛び出して、ケニーがスタートに失敗して、うしろの方から追い上げてくる展開…」w
北:がくっと首をうなだれるw)
黒:それを現地で「良かったぁ!」とか思いながら見てましたね。当時のHRCは他のレースもさることながら、グランプリ500ccのタイトル奪取は至上命題で、会社全体そういう雰囲気でした。
カ:’83年はケニーが2ポイント差でタイトルを取り逃がした、惜しいシーズンだった。
北:「チャンピオンシップのターニングポイントとなるレースで、イギリスGP(シルバーストーン)では、決勝がアクシデントで中断し、再スタートを前にヤマハはFIMから「どうやってリザルトを決めようか」の打診を受けました。
・・・参加者に意見を聞くとはおおらかな時代ですよねぇ。
ひとつは「1,2ヒートの合計タイムで優勝を決める」もうひとつは「1,2ヒートでポイントを分け、合計ポイントが多いライダーを優勝」とする。ヤマハでは「やっぱり、タイムだろ」と提案し、受諾されたものの、結果は…フレディが2位、エディが3位となった。(1位はケニー・ロバーツ)
2ヒート目はエディーがいいレースをしており、このときポイント制にしておけば、エディ2位、フレディ3位だとポイント差が逆転し、ケニーがタイトルを…。
(因みにこの時ホンダは参戦2,3年目。意見は求められなかったとか。)
一方、スウェーデンGP(アンダーストープ)では、最終ラップにトップのケニーがうっかりインを明けたところ、フレディがそこに飛び込みコースアウト。そこでNS500の方がランオフエリアの走破性が良かったので、フレディが優勝してしまった。ケニーは2位。ここでインを開けてなければ…


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北川氏はこの年たった2レースしか現地に行ってないそうだが、その2レースが「ケニー・ロバーツの’83シーズンのターニングポイントだった」そうである。


スーパースターの運命が変わる瞬間を目の当たりにする…羨ましい様な、羨ましくない様な…。(続く)


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(川崎BASE)