百合さん

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 女性の左腕には、菊の刺青が彫られていた。だがより目を引くのは、複数個のチェックボックスとその右に刻まれた文字だ。Litium、iPhone、Wallet――と続く。女性ラッパー・百合馨さん(36歳)は、左腕の文字を指差して言う。「薬とかiPhoneとか財布とか、日常的に必要なものをよく忘れてしまうので、それなら彫っちゃおうかなと思って」。軽やかにそう語る彼女の、人生に迫る。
◆刺青は「いつかは入れると思っていた」

 百合さんは大阪府で生まれ育った。刺青が身近にある環境だったという。

「銭湯などに行くと、背中に模様がある人は少なくありませんでした。大人になると刺青を入れている友人は多かったですし、彫師の知り合いもたくさんいましたから、いつかは入れると思っていました。ただ、これまでは入れたいものがなかったんですよね」

 百合さんの身体に彫られた刺青は、冒頭で紹介した菊のほか、チェックボックスと文字の羅列のみ。これらの文字は、百合さんの人生に深く関わっているということだ。

「私には双極性障害があります。医師の診断によると、発達障害起因の障害だということでした。また、ADHD(注意欠陥・多動性障害)やASD(自閉スペクトラム症)の傾向もあって、集中しすぎるときと散漫なときの落差が激しく、端的に言って非常に生きづらいんです。すでに精神障害による障害者手帳も取得しました」

◆薬を飲み忘れないため、身体に刻むことに

 チェックボックスの最上段に彫られた「Litium」は、精神神経用剤に分類される薬剤だ。なぜこれを最初に身体に刻んだのか。

「実はラップの有名な大会の予選に出場したことがあったのですが、そこでやらかしてしまったんです。あるバトルの2バース目に、事件は起きました。ハイテンションになると怒りっぽくなってしまう傾向があって、その日、バチンとスイッチが入ってしまいました。観客に向かって急に怒鳴り散らし、審査員にメンチを切って、会場の床を蹴るように踏みつけて、退場してしまったんです」

 原因は、服薬のし忘れによるものだったのではないかと百合さんは話す。

「ADHDの傾向があるので、飲み忘れてしまうんですよね。しかし薬を飲まないと、双極性障害と付き合っていくことは難しいんです。そこで、絶対に飲み忘れることのないように、身体に刻むことにしました。もちろん、最初は油性マジックで腕に書いたりしていたのですが、時間が経つと汚くなってしまうんです。それなら、きちんとした彫師に彫ってもらおうと考えたんです」

◆家族を振り回していた父親と真面目な母親

 百合さんは自身に起きていることを極めて客観的に分析している。たとえばこんな具合だ。

「父から受け継いだ特性だと考えているんです。さらに言うと、父の父も似たような性質だなと私は思っています」

 その父親に、家族は随分と振り回されたという。

「父はいわゆる実業家でした。物心ついたときから、家に居た記憶がありません。深夜に帰ってきて、朝早く出ていったようなんです。小学校5年生くらいのとき、母から『実は1ヶ月前から父が家出をしている』と聞いて、初めてわかったくらいです。母は愛情のある家で育ち、しかし奔放な父の女癖の悪さに悩まされていて。いつまでも父の帰りをご飯を作って待っているような、純粋で古風なところもありました」

 度重なる父親の愛人騒動に家族は振り回されたが、百合さんが中3のとき、家出した父との生活が再び始まった。

「母は真面目でオーセンティックな人なので、『両親がいて初めて子どもが幸せになる』という考えに縛られていました。したがって、父との再構築を試みたのです。戸建てを建設し、私たちはそこに住むことに。父とはいえ、これまで接点がほとんどなかった男性との同居は居心地の悪いものでした。父も急に父親としての役割を果たそうとしたのか、細部に口出しをしてきて、こちらの言い分も聞かずに『こういうものや』と断定的で高圧的な態度だったのを覚えています」