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日本には、長きにわたって愛されてきた<昭和歌謡曲>が数多くあります。日本人は、なぜ昭和歌謡曲に魅了されるのでしょうか?日本近代史を専門とする日本大学商学部教授・刑部芳則さんの著書『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』から一部を抜粋し、当時の時代背景とともに懐かしの名曲を振り返ります。今回のテーマは「男女の発展場と別れのシーンの変化」です。

【書影】人々の心をとらえた昭和歌謡曲が生まれた背景と、その特徴を炙り出す。刑部芳則『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』

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男女の発展場と別れのシーンの変化

昭和30年代を迎えてムード歌謡が出現したのは、作曲家吉田正の奇抜なアイデアだけが理由ではなかった。

その背景には夜の社交場である大人の男女の発展場が大きく様変わりしてきたことが影響している。

朝鮮戦争の特需景気の頃は、「トンコ節」「ゲイシャ・ワルツ」「野球けん」などのように、芸者が同席するお座敷が人気であった。

それが神武景気以降になると、東京の銀座を中心として、全国各地の夜の街にネオン燦めくクラブやキャバレーが隆盛してくる。

芸者歌手のスターが登場しなくなった理由

昭和30年以降に芸者歌手のスターが登場しなくなるのは、この時期に芸者とホステスとの勢力が交替したことを示している。

事実、芸者に代わって松尾和子のようにクラブシンガーからレコード会社にスカウトされる歌手が出てくるようになる。

キングの歌手大津美子は、ビクターの作曲家渡久地政信を経て、キングの作曲家飯田三郎に師事しており、松尾のようなクラブシンガーではない。

しかし、大津のヒット曲である、昭和30年(1955)10月の「東京アンナ」(作詞:藤間哲郎、作曲:渡久地政信)、同33年(1958)4月の「銀座の蝶」(作詞:横井弘、作曲:桜田誠一)は、クラブで働く女性を主役としている。

別れの場面の変化

男女の発展場だけでなく、その悲しい別れの場面にも新たな変化が見られる。

昭和32年(1957)11月のフランク永井「羽田発七時五〇分」(作詞:宮川哲夫、作曲:豊田一雄)は、別れの場面に空港が登場した。


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昭和33年(1958)7月に羽田空港(東京国際空港)がアメリカから全面返還された。

先取りして作られた歌詞には午後7時50分が最終便とあるから、現在と比べると飛行機利用客が少なかったことがわかる。昭和39年(1964)に海外旅行が自由化される前である。

しかし、この作品に続いて、昭和33年(1958)7月にキングの三船浩「夜霧の滑走路」(作詞:横井弘、作曲:飯田三郎)、同34年(1959)1月に和田弘とマヒナスターズ「夜霧の空の終着港(エアーターミナル)」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)が作られ、ともにヒットしている。

昭和34年2月のフランク永井「恋のビジネス特急」(作詞:井田誠一、作曲:吉田正)も見逃せない。

これは前年11月の東京と大阪間を6時間30分で結ぶビジネス特急「こだま」の開通を受けて作られた。

ビジネス特急は約2時間の会議を行って日帰りできるというのが売りであった。これは同時に短時間ではあるが遠距離恋愛が可能になったことを伝えていた。

公衆電話の普及

別れの場面に電話が登場したのもこの頃であった。

新設の東芝(東京芝浦電機)レコードから昭和34年11月に松山恵子「お別れ公衆電話」(作詞:藤間哲郎、作曲:袴田宗孝)が発売された。

上京してきた若者と、故郷に残った若者との最後の電話であったのだろうか。

全国の公衆電話は昭和15年(1940)に約1万7249台であったが、同35年(1960)には13万3518台へと増加した。

この頃は市内通話が10円で時間無制限で通話できたが、昭和45年(1970)1月30日から3分10円となった。

従来の乗り物を使った男女の別れの場面は、列車が発車する駅のホーム、船が出て行く港の波止場に限られていたが、そこに飛行機が出発する空港が登場したのである。

これも高度経済成長を迎えた頃の時代を反映していた。

※本稿は、『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。