蔦屋重三郎"江戸のメディア王"になれた7大理由
吉原出身という出自も"蔦重"の強みの1つだったという(写真:barman/PIXTA)
企画編集・制作を行う版元でありながら、卸売問屋や小売りとして流通の末端にまで関わり、さらには広告や宣伝を含めた「総合メディアプロデューサー」としての顔を持っていたという"蔦重"こと蔦屋重三郎。
そんな蔦重が、吉原出身の一介の商人から、現代でいうところの「メディア王」にまで成り上がれた背景には、いったい何があったのでしょうか。「スタディサプリ」日本史講師の伊藤賀一氏が、その7つのポイントを解説します。
※本稿は、伊藤氏の著書『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化: 元祖・敏腕プロデューサーの生涯と江戸のアーティストたちの謎を解き明かす』から、一部を抜粋・編集してお届けします。
みずからの「出身地」や「家庭事情」を逆手に取る
蔦屋重三郎は、現代社会では「ガチャ」と呼ばれるような、みずからは選べない偶発的要素を前向きに活かし、たくましく成り上がっていった人物だ。
まず彼は「吉原の遊郭で育った」という「出自」を活かした。吉原の出身ということから、「蔦重さんは、誰よりも公娼街に詳しい人間に違いない」と思われることで、遊女の案内書である吉原細見(よしわらさいけん)本の編集や出版に説得力が出る上、販路の拡大も容易であった。
安永3(1774)年の遊女評判記『一目千本(ひとめせんぼん)』の刊行に始まり、翌年の吉原細見本への本格参入から10年と経たない天明3(1783)年、細見本は耕書堂(こうしょどう/蔦重が開業した版元兼書店)の独占出版となった。
江戸時代の結婚は家や親が決めるものだったが、その点で蔦重が生まれ育った吉原は「自由に恋愛ができる」という特殊な場所だった。だからこそ、男たちは遊女や遊女屋選びに真剣だった。ゆえに蔦重の細見本は売れたのである。
吉原細見本のみならず、蔦重は黄表紙や洒落本の戯作や狂歌絵本など娯楽本の版元として確固たる地位を築いていく過程で、吉原の遊女屋に戯作者・狂歌師らを集めて接待する。それも吉原出身だからこそ自然だったといえるし、顔も利いたことだろう。
次に蔦重は、「7歳のときに両親が離縁して、引手茶屋(ひきてぢゃや/遊女屋へ客を案内する茶屋)へ養子に出た」という「家庭の事情」を活かした。
吉原唯一の出入口であった「大門口(おおもんぐち)近く」という好立地にあった義兄の茶屋の軒先を借りて、「小売」の小商いからスタート。それを軌道に乗せると、翌年以降「卸売」「貸本」「版元」へと事業を拡大していった。今も昔も、商売で特に大事なのは立地である。
また、この成功を期に日本橋に進出する際、両親を呼び戻したことも度量の大きさを示す「いい話」として評判になっていたはずだ。
「競合相手の失敗」や「流行」を活かし成り上がる
そして、蔦重は「競合相手の失敗」を活かした。吉原細見に関する本は、当初、鱗形屋(うろこがたや)孫兵衛の鶴鱗堂(かくりんどう)版が有名で、蔦重の耕書堂はその小売や編集を請け負っていたにすぎない。しかし、鱗形屋の手代(使用人)が起こした重板(じゅうはん/同じ物を改題して無断で出版すること)事件で出版が一時停止となった間隙を突き、蔦重は版元の事業に乗り出している。
また、蔦重は江戸における「流行(ブーム)」を活かした。
安永期(1772〜1781年)には、唄浄瑠璃の富本節(とみもとぶし)が大流行し、蔦重は唄浄瑠璃の正本・稽古本の出版を手掛けている。また、天明期(1781〜1789年)には狂歌が大流行したが、蔦重は狂歌と浮世絵を合わせた「狂歌絵本」の出版を手掛けている。
さらに蔦重は「業界への弾圧」をも活かした。寛政の改革による出版統制令の影響で、戯作の黄表紙や洒落本が弾圧されて発売禁止処分となり、狂歌絵本も一時的に停滞し苦しい立場となった。
しかし、蔦重は浮世絵や専門書、学術書に活路を見出し、弾圧前に劣らず話題となっている。
死後の繁栄も見据えたスムーズな「世代交代」
そして、蔦重は最終的に「みずからの死」までも活かした。
現代でもいえることだがカリスマ経営者のいる有名企業の世代交代は難しい。また、蔦重は特段長生きしたわけではなく、当時の平均寿命程度の年齢で亡くなっている。しかし、死を前にして「二代目蔦屋重三郎」たる番頭の勇助に店舗や版権をスムーズに移行したことで、その死後も蔦屋の屋号は隆盛を極めていった。
ここまで蔦重の「成功のひみつ」をいくつか挙げたが、総じていえることは「時代背景」そのものを活かしたことだ。
耕書堂を創業した安永元(1772年)は側用人の田沼意次が老中を兼任し「田沼時代」が本格的に始まった。「年号は安く永しと変はれども諸色高直今にめいわ九(年号〔元号〕は明和 9 年から安永元年へと変わったが、諸物価は高く、今まさに迷惑している)」と狂歌に詠まれるような世相だった。江戸の人々は物価高に振り回されながらも、ゆるい世を謳歌して、出版業界は隆盛を迎える。
その後、6年限定の「寛政の改革」で、世は引き締められ出版業界は弾圧されるが、その反動で改革を放棄した50年間におよぶヤケっぱちの「大御所政治」が始まり、出版業界はさらなる全盛期へ驀進する。
その初期に蔦重は出版業界の土台を築いた上で亡くなっている。以上のことは運や縁ではあるが、偶発的なマイナスの出来事が起きた不運のときにこそ、それをプラスの幸運に変える明るさや新しい発想、一度つかんだ縁を離さない握力の強さが、吉原というグレーゾーン出身の一庶民だった蔦重を成り上がらせたポイントであろう。
(出所:『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化: 元祖・敏腕プロデューサーの生涯と江戸のアーティストたちの謎を解き明かす』より)
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企画編集・制作を行う版元でありながら、卸売問屋や小売として流通の末端にまで関わった蔦屋重三郎は、その存在感が増すにつれて、広告や宣伝を含めた「総合メディアプロデューサー」としての顔を強めていく。
そうなると、事業を広げていくには、すでに名声のある戯作者・狂歌師・絵師との関係を深めつつ、(彼らからの紹介を含めて)新人を発掘し、さらに未来の人材を育成していかなければならない。そのため、22歳のときに起業した町人出身の蔦重は、武士や町人の年長世代たちとうまく付き合っていく必要があった。
旗本の家に生まれ、秋田藩士の養子となった15歳上の朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)は、蔦重の恩人といえる。マルチな才能があった彼なくして商売が軌道に乗ることはなかった。
安永6(1777)年、すでに洒落本や黄表紙を他社から出版していた喜三二に、蔦重が華道書『手毎の清水』の序文(まえがき)と跋文(あとがき)を依頼したのが関係の始まりだった。吉原に店を構える蔦重と、江戸藩邸の留守居役として吉原にて幕府や他藩との交流が盛んだった喜三二は、WIN -WINの関係にあったはずである。
そして、恋川春町(こいかわはるまち)もまた小島藩出身の武士で、蔦重より6歳上だった。天明3(1783)年、親友だった朋誠喜三二と関係が深い耕書堂から『猿蟹遠昔噺(さるかにとおいむかしばなし)』を刊行して以来、蔦重との交流が続いた。
「年長世代」が支えてくれた耕書堂の成功
町人出身では、日本橋小伝馬町の本屋の子に生まれた11歳上の北尾重政(きたおしげまさ)が、版元としての蔦重のデビュー作となった『一目千本』以来、耕書堂の挿絵を支えた絵師で、かつ往来物の作者でもあった。浮世絵師として喜多川歌麿や弟子の山東京伝(さんとうきょうでん/北尾政演)や鍬形螵斎(くわがたけいさい/北尾政美)に大きな影響を与えている。
このような年長世代が蔦重に快く協力してくれたからこそ、耕書堂は成功したといえる。これは蔦重が彼らに礼をつくし、当時余技扱いだった戯作や浮世絵を作品として評価することで、人間的に信用を得ていた証拠だろう。
蔦重の同世代といえば、御家人出身にして狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ)が1歳上、旅籠屋の子に生まれた狂歌師の宿屋飯盛(やどやのめしもり/石川雅望)が3歳下で、遠縁の可能性もある喜多川歌麿もそのあたりだ。
南畝と飯盛は狂歌師集団を率いて蔦重と密接な関係を持ち、狂歌絵本のヒットなど蔦重の商売の安定に大きく貢献した。そのとき、蔦重はみずから狂歌師となり「連」に加わることで信用をつかんだ。
それに対して、同世代の歌麿は蔦重の束縛を嫌ったか可能性を試したかったのか、ライバル店に移った時期もあったが、同じ喜多川(北川)という苗字を持ち、世話をしてきた旧知の才能ある絵師だった。
そこで、蔦重から離れつつあった歌麿に対抗させるため、出自や年齢が不明の東洲斎写楽をプロデュースし、それによって大首絵という浮世絵のジャンルが大いに盛り上がったことは結果オーライだった。
どうしても押さえておきたかった「次の世代」
また、次世代としては質屋の子だった山東京伝が11歳下で、出自不明の葛飾北斎もそのあたり。地方武士出身の十返舎一九が15歳下、武家奉公人出身の曲亭馬琴が17歳下となる。
蔦重がぜひとも押さえておきたかった人気作家・絵師が京伝だ。寛政の改革による弾圧後も、蔦重は京伝を叱咤激励して戯作者・絵師を続けさせた。
また、北斎は歌麿や写楽の次世代として期待していた絵師で、十返舎一九や曲亭馬琴は作者として独立するまで仕事を振り面倒を見るという関係だった。
以上のように、蔦重は世代や出自、みずからとの関係性に応じ、個々別々のやり方で人材登用・発掘・育成を行った。
蔦重はさまざまな人間に信用されるだけの才知や度量があり、信義や筋を通せる魅力的な人物だったと想像できる。
(伊藤 賀一 : 「スタディサプリ」社会科講師)