ダンスというレンズを通してみえてくる私たちの身体と存在ーー振付師フェレイラ、日本初上演『CARCAÇA』オフィシャルインタビュー到着

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11月15日(金)~ 16日(土)にロームシアター京都にて日本初上演する『CARCAÇA(カルカサ)』。振付師のマルコ・ダ・シウヴァ・フェレイラへのオフィシャルインタビューが到着したので紹介する。

ダンス界に新風を吹き込むポルトガルの新鋭マルコ・ダ・シウヴァ・フェレイラ。いよいよ11月に日本初上演を迎える『CARCAÇA(カルカサ)』は、2022年の初演を皮切りに早くも世界15か国以上で上演された話題作だ。中央ヨーロッパとは異なる文脈から独創的な振付を編みだし、既存のダンススタイルを換骨奪胎してきたフェレイラに、今作が生まれた経緯から、込めた想い、日本公演に期待することまで、舞踊評論家の岡見さえがインタビューを行った。

マルコ・ダ・シウヴァ・フェレイラ (c)José Caldeira

ダンスは個人の背景や居場所とどう関係するのか

――今回初めて日本で本格的に紹介されるフェレイラさんは、2013年に発表した『HU(R)MANO』をきっかけに注目され、出身地のポルトガル、そしてヨーロッパで活動を展開する気鋭の振付家です。まず、振付を始めた経緯を教えていただけますか?

実は16歳頃まで水泳をしていましたが、トレーニングの厳しさや水の中の孤独感から燃え尽きてしまいその後にストリートダンスを始めました。ダンスの集団性にも惹かれたのだと思います。趣味として楽しんでいたのですが、20歳頃からダンスバトルに熱中していきました。でもやがて自分が求めているのは競争ではなく表現であり、バトル以上に身体や集団について考えることが自分には重要なのだと理解しました。コンテンポラリーダンスのインプロヴィゼーションを知ったのも、この頃です。こうして自分の中の問いへの答えを身体で探っていこうと、振付をするようになりました。

――『カルカサ』は2022年初演の最新作です。作品はどのように誕生したのですか?

ストリートダンス出身のため、どのような社会的文脈からダンスが生まれるかに関心がありました。「ダンスは現在、何を意味するのか?」「いかにダンスは個人の背景や居場所と関係するのか?」「今の社会、この瞬間に、ダンスというレンズを通すと私たちの身体や存在はどのように見えるのか?」。こうした問いから、『カルカサ』は生まれました。2020年にポルトガルのバレエ団に振り付けた作品が発端ですが、その後も自分でリサーチを続け、ドラマトゥルクのカタリナ・ミランダと協働することで新たな問いも加わり、さらに作品を深めていきました。2022年に出演者を決め、5月から集中的に稽古して10月に初演を迎えました。

――音楽は、2人のミュージシャンが舞台両脇でライブ演奏します。音楽はどのようにクリエーションと関わったのでしょうか。

二人とも以前からファンだったミュージシャンで、この作品に彼らの音楽が欲しくてオファーしました。一人はパーカッション、もう一人はエレクトロニックで、異なる音の融合が作品の効果を高めてくれました。稽古の最初の3週間で振付の素材作りに集中した後、二人はスタジオでのクリエーションに長時間付き合ってくれました。

――「カルカサ」は、ポルトガル語で「動物の骸骨」を意味するそうですね。なぜこの言葉をタイトルに選んだのですか?

「carcaça」は、「cadáver(死骸)」と区別され、遥か昔に死に絶えた生物の骨格のことです。骨の記憶、構造の記憶とも言えるでしょう。この言葉が、私には文化の美しいメタファーに思われました。文化がひとつの構造であるならば、骨にあたる社会、文化、集団を、個々の人間がどのように満たしているのか?こうした問いを含む作品に、この語はぴったりだと思ったのです。

ストリートダンスからフォークロアダンスまで、多様なスタイルが融合する舞台

(c)José Caldeira

――ダンサーはあなたを含めて10人が出演していますが、身体性も性自認も極めて多様です。出演者は、どのように選ばれたのでしょうか。

多様性を求めたというより、一緒にダンスをしていた仲間がすでに多様でした。9人のうち8人が過去作品(『BROTHER』『BISONTE』『SIRI』)で一緒に仕事をした、気心の知れたダンサーです。片腕のブレイクダンサーなどストリートダンス出身者が多いですが、コンテンポラリー、ヴォーグ、そしてクドゥロというアンゴラのストリートダンスのスペシャリスト、フラメンコやタンゴが好きなダンサー、ダンスと並行してハウス系のDJやヒップホップのプロデューサーとして活動する人もいます。ほとんどポルトガルで知り合いましたが、ブラジルやアンゴラ、ドイツなど出自も多様です。オーディションからは1人、スペイン人ダンサーを選びました。彼のムーヴメントや文化が作品のコンテキストを広げることを期待しました。

――その結果、多様性に富むコミュニティが舞台に出現し、ダンスのボキャブラリーも極めて多彩です。振付は、どのように作っていったのですか?

ストリートダンスをしていたためフットワークに関心があり、長年、重心の乗せ方、アクセントの置き方、スピードや姿勢を変えるとどんな変化が生じるかを自分の身体で研究していました。クリエーションでは、このリサーチで得たプロセスをダンサーたちと共有し、並行してクラブシーンやストリートダンスのスタイルも追求していきました。この作品は、最初のパートでフォーメーションや空間構成にフォーカスし、そこでは政治的・社会的な文脈へと繋がる身体の探求が行われます。そして身体が温まっていくと、自分たちの過去や身体を振り返るようにフォークロアなダンスへと向かいます。

「文化の結晶化」を越えて、わたしたちと身体を結びつけなおすものとしてのダンス

(c)Mercat des Flors

――『カルカサ』は、ダンスの慣習に回収されない展開や、力強い表現が観客を揺さぶります。ポルトガルのコンテンポラリーダンスは1990年代に独特な個性が注目され、ヨーロッパで急激に存在感を高めて現在に至ります。1986年生まれのあなたは、その理由をどのように考えていますか?

とても大きなテーマですが、私自身の視点からお答えしますね。地理、1990年代以降の経済発展、旧植民地との関係、古典的な伝統の不在が要因だと思います。ポルトガルはヨーロッパの西端で、中心から遠く離れている。文化的に隔絶された感覚があったことからポルトガルではニッチなグループが複数生まれ、相互に影響を与えて独自の文化を作りました。そして1986年にポルトガルがEUに加入すると都市化が進み、アクセスが向上して国外から多様なものがもたらされ、1998年のリスボン万博も公共インフラの整備に寄与しました。そして2000年代になると移民の流入等によって旧植民地との関係が強く意識され、文化的ムーヴメントに発展しました。ポルトガルが他の欧州諸国と異なるのは、ブラジル、アンゴラやモザンビーク、マカオやゴアといった旧植民地を通してアメリカ、アフリカ、アジアと繋がっている点でしょう。非常にコスモポリタンな状況が生まれ、「ポルトガルとは何か?」「ポルトガル人とは何か」という問いから、帝国主義的、植民地主義的な思想を脱構築する動きが模索されたのです。特にブラジルはポルトガルに大きな影響を与えました。最後に、ポルトガルでは歴史的に古典的な様式が大きく発展しなかったことも重要だと思います。宮廷バレエやアカデミーの規制がなく、アーティストはとても自由でした。こうした組織があれば、アーティストの生活はもっと保証されていたかもしれません。でもドイツやフランス、イギリスと似た文化になっていたでしょう。

――『カルカサ』では多様な個を包摂したコミュニティが、現在に向き合い、過去を参照し、集団としての新たなアイデンティティを誠実に求めていきます。作品の鍵のひとつに「文化の結晶化」の概念があると伺っていますが、説明していただけますか?

「文化の結晶化(cultural crystalisation)」とは社会学の言葉で、人々の生活の文化が固定化され、形式化されることを意味します。食べ物、飲み物、衣服や音楽、ダンス、建築などが、コミュニティの普遍的なアイデンティティとなる。それは所属意識の醸成には有効でしょう。しかし権力に利用される危うさを孕んでいます。実際、ポルトガルでは、1920年代から約50年間続いた独裁政権下でそれが現実になりました。当時の政権は全体主義的、父権主義的でしたが、彼らが承認したものだけを“ポルトガル文化”として強制しました。人々は 自分たちの現実から乖離した“公式なポルトガル文化”に拒否感を抱くようになり、民主化後には一種のトラウマを抱えたまま新たにポルトガルのアイデンティティを模索しなければならなくなった。形式化された文化自体が倫理的観点から問い直されるべきものとなったとき、人々は別の可能性、新たな文化の探求へと向かわざるを得ないのです。

――「文化の結晶化」は現代においても重要な問題意識に思われます。では、今、この社会においてダンスはどんな可能性を持っていると考えますか?

ダンスは、私たちを身体と結びつけなおすものです。現代はヴァーチャルな空間の発達によって現実も抽象的になり、人は自分をスクリーンに映ったイメージとして認識する。けれども同じ空間と時間に存在する身体/人間を見て、ダンサーのエネルギーを感じることで、観客は自分自身の身体を感じ、身体を取り戻すことができるのです。ダンスというメディアは、自分が視覚的・観念的な存在ではなく、身体が、血が、筋肉があることを即座に思い出させてくれます。また、ダンスは現代社会を問い直すものでもあります。劇場でダンスを鑑賞する経験は、ある種の儀式のように日常を離れた思索の時間をくれる。それは、スピードと効率性を求める現代の資本主義的な社会に反する活動かもしれません。けれどもこの非生産的で、非効率的な部分こそが、現代の世界や私たちの人生に対する問いかけのように思うのです。鑑賞に留まらずクラブで踊ることも含めて、自分のたのしみに集中し、“非生産的”とされる活動に時間を割くこと。ここにダンスのもう一つの価値があるのではないでしょうか。ラディカル過ぎる考えかもしれませんが。

日本の美学とも通じる、両極端なものの同居

(c)velislavvelislav - One Dance Week

――日本は初めてですか? 今回の来日で楽しみにしていることはありますか?

旅行で1回、『TPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)』で1回、今回で3回目の来日ですが作品のツアーは初めてです。私の作品はシリアスに捉えられがちですがユーモアも含んでいます。今作に込められたユーモアが成熟してきたタイミングに、日本で上演できることが嬉しいです。私は作品のメッセージを写実的、現実的に伝えるのはあまり好きではないのですが、ある考えを観客の心に宿したいとき、美学を伴ったユーモアは最上のツールだと考えています。直感的にですが、自分の作品の美学と日本の美学には近さも感じるのです。

――具体的には、どのような点が近いと感じていますか?

 私は作品をつくるとき、ディティールまでしっかり決めてすべてをデザインしますが、反対に、表現主義的に身体を提示したり爆発的な音をかけたりもする。一方に精密で理性的なものがあり、他方にそれと対比を成す、何かを超越した極限的なものがある。その両極端なものの同居は、日本のマンガや舞踏、日本の文化にも感じます。また、現実をある種の幻想によって表現する部分にも親近感を抱いています。とはいえ、まだ私の日本文化理解は限られたものですから、『カルカサ』のチームで京都と高知を訪れるのを楽しみにしています。

聞き手・文=岡見さえ

『CARCAÇA』は11月15日(金)~ 16日(土)にロームシアター京都にて日本初上演。チケットはイープラスにて販売中。