国鉄・JRで一番の急勾配区間として知られた信越本線の碓氷峠。熊ノ平信号場を通過するEF63形(撮影:南正時)

黎明期の鉄道は、都市間を結ぶだけでなく「船につなぐ輸送手段」として、鉱山や山林などのある内陸部と港湾を結ぶために建設されることが多かった。日本の国土は山がちで、昔から主要街道には「峠越え」の苦労がつきまとい、それは鉄道の登場後も同じだった。

峠越えの鉄道は全国各地にあり、それらの区間では急勾配を克服するためのさまざまな苦労や工夫、そして機関車やそれを動かす鉄道員の力闘が見られた。各地の峠越えと、勾配を克服するため投入された機関車の歴史を振り返ってみたい。

日本の三大「峠越え」鉄道

日本の鉄道には昔から三大勾配区間と呼ばれる「峠越え」の鉄道がある。奥羽本線の「板谷峠」、信越本線の「碓氷峠」、山陽本線の「瀬野八越え」がそれだ。北から順に見ていこう。

板谷峠に鉄道が開通したのは明治中期の1899年のこと。奥羽山脈を横切って福島―米沢間を結ぶこのルートは、約22kmにわたり最大33.0‰(パーミル、1000m進んで33m上る)の急勾配が続き、赤岩・板谷・峠・大沢の連続する4駅はスイッチバックを余儀なくされた。また冬季は豪雪地帯でもあり、まさに難所だった。

蒸気機関車時代は、勾配区間向けの特殊設計のタンク式機関車4110形が活躍したことで知られた。1948年には新型の勾配用タンク機関車E10形も登場したが、翌1949年に直流電化された。電化後はEF15形電気機関車と、後に回生ブレーキを追加改造したEF16形が投入された。

【写真】「三大峠越え」から石北峠のD51形、上越国境のEF16形、瀬野八のEF67形、日豊本線の「鰐塚越え」C57形牽引急行まで、峠に挑んだ列車たち(100枚)

現在は機関車牽引の列車はなく山形新幹線「つばさ」E3系と新型のE8系、そして普通電車としては719系5000番代が新幹線と同じ標準軌の線路を走っている。峠を貫く長大トンネルの計画もある。


板谷駅のシェルターを通過するE8系「つばさ」(撮影:南正時)

信越本線の碓氷峠越え区間、横川―軽井沢間は最大勾配66.7‰で、JR(国鉄)一番の急勾配として知られた。1893年の開業当初は歯車と歯形のラックレールをかみ合わせて勾配を昇り降りするアプト式を採用、1963年には新線を建設し「峠のシェルパ」といわれたEF63形電気機関車が重連で列車の補機となって活躍した。1997年の北陸新幹線(長野新幹線)長野開業と同時に廃止され、現在は一部施設が国の重要文化財に指定されている。


信越本線の碓氷峠。レンガアーチ橋の向こうをEF63形重連の補機を連結した特急列車が走る(撮影:南正時)

山陽本線・瀬野―八本松間の「瀬野八越え」は1894年に開通した。この区間、とくに上り線は瀬野駅から八本松駅に向かって22.6‰の勾配が続き、貨物列車の最後部には補助機関車が付き、蒸気機関車時代は強力なD52形が使われていた。国鉄時代末期からは赤い塗装のEF67形が補機として活躍。同形式が2022年3月に引退してからはEF210形300番代が補機を務めている。


山陽本線の「瀬野八越え」で活躍したD52形=1959年、尾道にて(写真:大塚康生)

日本各地の峠越えの鉄道

日本の鉄道はその多くが山間部を走るため、峠越えの鉄道は「三大区間」に限らず全国に数多く存在する。その中で代表的な峠越え(勾配区間)を、廃止路線を含めて筆者の取材の思い出とともに列挙してみよう。

まずは北海道。宗谷本線の蘭留―和寒間には「塩狩峠」が行く手を阻んでいる。峠は天塩川水系と石狩川水系の分水界上にあり、サミットの塩狩駅まではカーブと20‰の勾配が続く。

明治時代の1909年2月28日、走行中の旭川行き列車の最後尾客車の連結が外れて逆走し暴走を始めた。満員の乗客に死が迫るそのとき、鉄道職員の長野政雄が線路に飛び降り、その身体で車輪を止め、自らの命と引き換えに乗客の命を救った。この事故は作家三浦綾子が小説化して映画化もされた。塩狩駅近くには殉職した長野政雄の顕彰碑と塩狩峠記念館がある。


塩狩峠越えに挑むC55形30号機=1973年(撮影:南正時)

石北本線の留辺蘂から生田原にかけては「常紋越え」という急勾配区間があり、とくに留辺蘂からサミットの常紋信号所まではSL現役時代に鉄道ファンが多く訪れた。筆者はD51形の現役時代に常紋信号所(当時は有人駅)で撮影した体験がある。現在ではDF200形の牽く貨物列車「タマネギ列車」が人気を集めている。


石北本線の常紋越えに挑むD51形牽引の貨物列車=1973年(撮影:南正時)

長万部から小樽までの倶知安経由の函館本線は「山線」といわれ、その名の通り4つの峠が存在する。長万部から熱郛駅を過ぎると最初の峠「目名峠」、倶知安から小沢にかけては「倶知安峠」、その先に「苗穂峠」、さらに余市から小樽間は「オタモイ峠」だ。


倶知安峠で力闘するC62形3号機(撮影:南正時)

かつてはこの路線をC62形重連やDD51形重連が牽く急行「ニセコ」や、D51形の牽く貨物列車が豪快に峠に挑んでいた。現在、倶知安を経由して札幌まで北海道新幹線の延伸工事が進んでいるが、その開業時には「山線」も姿を消すことになる。

SLの名所が多かった東北の峠越え

東北地方の峠越えで有名なのが花輪線の「龍ヶ森越え」である。松尾八幡平―赤坂田間の12.2kmは最急勾配が33.3‰もあり、カーブも続く花輪線最大の難所であった。ここを8620形が三重連で驀進する姿は圧巻だった。サミットの龍ヶ森駅は現在「安比高原駅」に名を変え、気動車が急勾配に軽やかなエンジン音を響かせている。


花輪線の龍ヶ森越えに挑む8620形の3重連(撮影:南正時)

青森県と秋田県の県境を分ける奥羽本線の「矢立峠」は、電化前はD51形が碇ケ関駅から後部補機を従えて三重連で峠に挑んだ。旅客列車はC61形が電化直前まで客車を牽引して峠を往来していたが、1971年8月に秋田―青森間の交流電化が完成。同年9月26日にC61形、D51形の定期運用は終了した。


電化間近の矢立峠を行くD51形牽引の貨物列車(撮影:南正時)

岩手県釜石線には「仙人峠」が立ちはだかっている。釜石を出た列車は勾配区間に入り釜石鉱山の拠点である標高約255mの陸中大橋を目指す。この駅を出て線路は半径250mのオメガカーブがあり、これは勾配を少しでも緩和するため距離を稼げるようにΩ形に線路を敷いたものだ。陸中大橋―上有住間7.6kmは釜石線最大の難所であった。2023年まで運行していたC58形の牽く「SL銀河」は、この峠越えで迫力ある姿を見せていた。

本州での峠越えの白眉は上越線の「上越国境越え」であろう。「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」と川端康成の『雪国』の冒頭に描かれている、群馬・新潟県境の谷川岳を貫く全長9702mの清水トンネルが完成したのは1931年9月。当時日本最長だったこのトンネルの開通により、高崎―宮内間が全通した。1967年9月には全長1万3500mの新清水トンネルも完成し、上越線は全線の複線化が完了した。

当初から水上―石打間は電化されており電気機関車が活躍したが、この区間用の補機として投入されたのがEF16形だ。EF15形を改造した機関車で、奥羽本線板谷峠と上越線で使われた。奥羽本線では1964〜1965年にかけて当時新型のEF64形に置き換えられ、上越線に移籍。上越線では1980年代にEF64形1000番台に置き換えられるまで活躍を続けた。


上越線で「峠越えのシェルパ」としてファンの人気を集めたEF16形(撮影:南正時)


EF16形が補機を務める上越線の貨物列車(撮影:南正時)

D51形が活躍した中央本線や関西線

そんなEF64形の活躍の場といえば、中央本線の小仏峠、笹子峠、鳥居峠が挙げられるが、電化前はD51形による峠越えの歴史がある。


中央本線を走るEF64形の重連(撮影:南正時)

中央本線の列車が乗り入れる篠ノ井線の「姨捨越え」は根室本線の狩勝峠越え、肥薩線の矢岳越えと共に「日本の車窓三大風景」と言われている。善光寺平から標高551mの山の中腹に位置する姨捨駅へは、かつてはD50形やD51形といった強力な蒸気機関車が急勾配に挑んでいた。

勾配区間にある姨捨の駅舎はスイッチバック構造で、普通列車は水平区間のホームに停車するが、特急「しなの」や貨物列車は勾配区間を通り抜けていく。貨物列車を牽引する機関車は「ブルーサンダー」ことEH200形で中央線、上越線などの山岳路線用に開発されたハイパワー機関車だ。姨捨越えを行くEH200形は見応えがある。

山岳路線が少ない近畿地方にも峠越えはある。関西本線加太―柘植間には鈴鹿山脈の南麓を越える「加太越え」が蒸気機関車の時代からよく知られてきた。亀山からのD51形牽引貨物列車は後部補機を従えて急勾配に挑んだ。現在は貨物列車はなく、気動車が1両でエンジンを響かせスイスイと勾配区間を走っている。


関西本線の「加太越え」。後部補機を連結したD51形の貨物列車(撮影:南正時)

播但線の新井―生野間も連続25‰の急勾配がサミットの生野駅手前のトンネルまで続き、SL時代はトンネル通過中に煙に巻かれた乗務員が死亡するという事故もあった。現在は気動車が難なく勾配を行く。


「魔のトンネル」といわれた播但線生野トンネルを抜け出したC57形(撮影:南正時)

中国地方の木次線は、出雲横田から出雲坂根を経て三井野原までの間が33‰の急勾配区間で、かつては出雲坂根を挟む三段スイッチバックをC56形がよじ登るように力闘していた。出雲坂根駅構内には息継ぎの銘水「延命水」が今も旅人の憩いのオアシスになっている。


木次線の三段スイッチバック(撮影:南正時)

阿蘇山や霧島などの山々を擁する九州南部は峠越えの鉄道が多い。阿蘇山の外輪山を33‰の急勾配で登る難所が豊肥本線立野―赤水間に位置する三段スイッチバックだ。かつてはD50形や、8620形の牽く「あそBOY」が力闘した区間だ。今も阿蘇を越えるにはこのスイッチバックを経てカルデラに入らなければならない。


豊肥本線の三段スイッチバックを行く9600形牽引の列車(撮影:南正時)

不通や無人化、かつての栄華はいずこ

現在は水害による不通が続いているが、人吉から鹿児島県に至るルートは昔から「大畑越え」「矢岳越え」の難所が立ちはだかっていた。大畑越えは雄大なループで勾配の緩和を図り距離を稼ぐ鉄道で、かつては峠越え用の重装備D51形が力闘していた。大畑駅構内には当時の給水塔が残る。


ループとスイッチバックの大畑駅。キハ58系の急行列車が走る(撮影:南正時)

矢岳駅はこの区間の最も標高の高い場所(536.9m)に位置する駅で、駅前にはかつて力闘したD51形が重装備のまま保存されている。サミットの矢岳駅と吉松駅の間にある真幸駅は大規模なスイッチバックがあり、かつては観光客で賑わっていたが現在は不通なのが残念である。


日豊本線のサミット、青井岳へ向けて走るC57形牽引の急行「日南3号」=1974年(撮影:南正時)

このほか、日豊本線田野から山之口に至る「鰐塚越え」は筆者には思い出多い峠の鉄道である。1974年には限定運用ながらC57形が定期急行「日南3号」を牽いて峠を越えたのだ。だが、現在はサミットの青井岳は無人化されている。栄華を誇った「峠の鉄道」の多くは廃止されたり、バイパスができたりして、かつての風情を漂わせるだけの路線も多くなってしまった。


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(南 正時 : 鉄道写真家)