フォロワーや閲覧数、「いいね」の数が多いと、つい深く考えることなく高い評価をしがちです(写真:metamorworks/PIXTA)

営業成績やボーナスの額、テストの点数、年齢や体重、レーティングや「いいね」の数など、私たちはなんでも計測し、数値化する世界に生きている。
しかし、私たちの脳は数字に無意識に反応してしまうため、数字はあなたを支配し、楽しい活動や経験をつまらないものにし、他人との比較地獄に陥れ、利己的で不幸な人間にしてしまうという。今回、過剰な数値化がもたらしているさまざまな問題を明らかにし、その解決策を示した『数字まみれ:「なんでも数値化」がもたらす残念な人生』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。

「いいね」の数が多いと信頼できる?


残念なことに、人間はアルゴリズムのように活動する――そのせいで私たちは、フェイクニュースの中の数字に影響されて、また別の方向に導かれていく。

ニュースの中の数字から逃れられないだけではなく、何人がそのニュースを見て「いいね」を押したかという形で現れるニュースをめぐる数字からも、身を守ることができないのだ

研究によれば、人々はオンラインで多くの「いいね」を集めているニュースのほうが、「いいね」の少ないニュースより信頼できるとみなしている。

その上、「いいね」の数が多いと、どのニュースが本物か偽物かを見分けるのが難しくなる。まるで大きい数字が批判的思考を妨げるかのようだ。

本物のニュースと偽物のニュースに「いいね」がほとんどついていなければ、それらを見分けるのに同じような問題は起きない。

さらにばかげているのは、投稿を実際にクリックしたり読んだりしないで「いいね」を押したりコメントしたりする人が、ごく普通にいることだ。

それならば、人々が影響を受ける「いいね」は本物である必要もなく、実際、数字が必ずしも「いいね」の形をとらなくても影響を受けている。閲覧数で十分だ。

私たちはある実験で、架空の人物に関する肯定的な投稿と否定的な投稿を被検者に見せ、それぞれに閲覧数を20または2000とする数字をつけた。

すると、肯定的な投稿を読んだ被検者は、投稿の閲覧数に20より2000を目にした場合のほうが、この架空の人物をより肯定的に受け入れた。

同じく、否定的な投稿を読んだ被検者は、閲覧数が100倍と知った場合のほうが、この架空の人物をより否定的にとらえた。

それにもかかわらず、大きい数を目にした人も小さい数を目にした人と同じように、その投稿を他の何人が読んだかには影響されていないと確信していた(それどころか、他の人が数字に影響されたと確信する傾向が強くなった)。

論文の引用回数は研究の重要度を示す?

数年前から、学術論文が他の研究者によって引用された回数を見ることができるようになった。

その意図は立派なもので、どの論文が「洗練」されていて(とてもよい言い方だ)、継続的な研究にどれだけ重要な貢献をしたかを、研究者たちに伝える役割を果たしている。

またその数字は自らを強化する力ももっていて、大きければ大きいほど、より多くの研究者がその論文を選んで読む(そして引用する)から、さらに大きくなっていく。

論文の引用回数は、研究者が職につく際や昇進する際にも、その人の研究がどれだけ重要で強力かの指標として計算に入れられる。

ただし私の場合は、控えめに言っても、複雑な気持ちをぬぐえない。

私の論文で最も多く引用されているのは、広告にどんな見直しが必要かについて求めに応じて書いたもので、他の多くの研究者たちはそれがあまりにも極端な内容なので、自分の論文で反論しようと考えるのだと思う。

この論文の数字がそれほど大きい理由のひとつは、他の研究者たちがその内容に同意していないからなのだ!(ミカエル)

脳にある「数字ニューロン」

脳の頭頂間溝(IPS)には、数量を原始的な生き残り本能と結びつける数字ニューロンがあり、私たちを友好的な人に引きつける一方で、友好的でない人には近づかないようにと警告するから、自分が見ている動画を他の何人の人が見たかによって影響を受ける傾向があるのは、おそらくIPSのせいだ

IPSはまた、私たちが他の人の意図をどう解釈するかも支配する。数字は他人の行動を「翻訳」して、賛成か反対かの総意に変えるので、私たちは賛成なら加わり、反対なら警戒することになる。

だが、他人の行動に意味は必要ない――この場合は、人々はただ投稿を目にしたというだけだ。おそらくとりわけ注意していなかったか、最後まで読まなかったか、どんな意見ももたなかったのだろう。反対の意見をもった可能性もある!

数字は人々にとって――まったく的外れな数字も含めて――重大な信号になる。ふつうは、2000人もの人と(たとえ20人でも)友達になるか逃げるかという、生死に関わる状況に陥りそうな人などいない。

アマゾン川流域で暮らす、5までしか数えられないムンドゥルクの人々と、1と2という数しか知らないピラハの人々が、数字なしでうまくやっているように、同時に最大5人について細かいことを把握していれば、おそらく十分だ。

そして今では、ひとりの人物がどれだけ「有名」かを、フォロワーの数、閲覧者や視聴者の数、その人がすることについた「いいね」の数で判断できるようになったが、そうした数字が大きくなるにつれて、そのセレブリティの発言がより重要だと思ってしまう危険がある

「フォロワーが多いのだから、真実がいっぱい詰まっているにちがいない」――そうした考えは、ソーシャルメディアのフォロワーを買うことができるという事実によって、ますます不快なものになる。

何千人もの人たちが抗議したはずなのに

同じように、一種の「数字精神症」から生じる抗議行動もある。

それは、自分自身で考えたからではなく、とてもたくさんの他の人たちがその問題を重要だと思っているようだからという理由で、その方向に引きずられるものだ

チョコレートの詰め合わせの箱「アラジン」からプラリネチョコレート「トリリンナット」の姿が消えたときのことは、よく覚えている。オンラインで反応した何千人もの人たちの悲鳴にも似た抗議の声を、新聞が伝えたからだ。

チョコレートメーカーが「トリリンナット」を詰め合わせから除外することにしたのは、他のプラリネチョコレートより製造原価がはるかに高かったからだが、その声を聞いて単独の商品として販売することを決めた。

だが残念なことに、実際に買う人はとても少ないことがわかり、まもなく販売をあきらめざるを得なくなった。あの抗議の声については、何も言うことはなさそうだ(ミカエル)。

(翻訳:西田美緒子)

(ミカエル・ダレーン : ストックホルム商科大学教授)
(ヘルゲ・トルビョルンセン : ノルウェー経済高等学院(NHH)教授)