『ルックバック』が与える“衝撃”の核に迫る 藤本タツキという傑出した“個人”の等身大の姿
この時代に日本の漫画作品を愛好する者、そして漫画を描く者たちにとって、「藤本タツキ」の出現と近年の活躍は、いろいろな意味で“事件”だといえるのかもしれない。
参考:『ルックバック』大ヒットスタートも、「ODS作品」としての公開に残る謎と疑問
代表作である『チェンソーマン』(第1部)は、『週刊少年ジャンプ』連載とは思えないほどに悪趣味で残酷な内容と、クールで研ぎ澄まされたセンス、次々と溢れ出す荒々しいまでのイマジネーションが多くの読者を魅了し、多方面に衝撃を与えることになった作品だ。そんな『チェンソーマン』第1部が終了して、現在Webサイト『少年ジャンプ+』で連載されている第2部が始まるまでの期間に発表されたのが、143ページの読み切り作品『ルックバック』だった。
この漫画作品は、発表当時に『少年ジャンプ+』上で全編無料公開され、その鮮烈な内容が評判を呼んだ。SNSでは同業者の驚嘆の声、嫉妬の念を隠さない称賛も目立ち、「トレンド」表示されるなど注目が集まった。それほどに漫画『ルックバック』は人々の心をつかみ、作者・藤本タツキの類まれな才能を広く印象づけたのである。その状況はまさに、作中の主人公である女子小学生の藤野が、同学年の京本が描いた絵を目の当たりにした衝撃にも似ていたのかもしれない。
その『ルックバック』が、同じタイトル、ほぼ同じストーリーで、アニメーション映画化され、公開が始まった。劇場には観客がつめかけ評価も上々、海外のアニメファンからもラブコールが続いている状況だ。ここでは、そんなアニメーション映画『ルックバック』と、原作漫画『ルックバック』の内容を通して、観る者に何が衝撃を与えるのか、その核には何があるのかを考えていきたい。
作品の大まかな内容は、漫画界の重鎮・藤子不二雄の自伝的な漫画『まんが道』(作・藤子不二雄A)が描いた、漫画家コンビのサクセスストーリーの現代版を思わせるものだ。『まんが道』の物語は、漫画を描くのが好きな小学生の主人公・満賀道雄(まが・みちお)が、凄まじい才能を持つと感じる才野茂(さいの・しげる)と運命の出会いをすることで動き出す。
それと同様に『ルックバック』も、お互いがその才能に驚嘆し認め合い、ともに協力して漫画作品を描くようになる藤野・京本が成長していく姿が描かれていく。とはいえ、クライマックスでは打って変わり、藤本タツキらしい衝撃的な展開と、現実から飛躍した創造力に溢れる描写が用意されているのも、この作品の特徴ではある。
社交的で何でもこなせる器用な藤野にとって、一見、漫画は特技の一つでしかないようである。しかし、冒頭の場面で夜中必死に作業をしている描写から分かるように、彼女はじつは漫画に熱心に打ち込んでいる小学生なのだ。それだけに、同学年に段違いの画力を持つ京本という存在がいることを知り、藤野は強い対抗心を燃やすようになる。対して京本は、学校に行かずに引きこもって絵をひたすら描く生活をしていて、創造力を用いて魅力的なネタを漫画に落とし込んでいる藤本の才能に憧れを持っていた。
嫉妬心や劣等感を京本におぼえていた藤野だったが、初めて対面した京本が自分を認め賞賛してくれたことに、密かに驚き喜ぶ。普段は周囲を意識してクールに振る舞う藤野が、天にも昇る心地で田んぼが広がる通学路を、一人ぎこちなくスキップする場面には、心揺さぶられるものがある。映画版ではこのシーンを、右手右足を一緒に出すような格好で何度も飛び跳ねさせることで、原作漫画に描かれた感情を見事に映像化している。
そう、映画版の映像で目を見張るのは、原作漫画の絵柄や雰囲気が、想像以上に表現されている点だ。これは、本作で原画も担当している押山清高監督が述べている、「原動画」という概念が実現させたものだと考えられる。本来なら原画スタッフが描いた線を、動画スタッフがクリーンで整理された線に描き直すことによって、最終的なキャラクターなどの絵が完成するのが、手描きアニメーションのプロセスだが、本作ではできる限り原画の線のニュアンスを残すかたちで制作が進められているのだという。
もともと手描きアニメーションの制作では、動く部分の絵を平面的にして線を少なくしていくのが基本だ。そうでなければ成果物が均質的なものにならず、動画スタッフの負担も膨れ上がってしまうからだ。しかしここでは、幾分ムラがあっても、原画の勢いや込められた感情を優先させているのだ。
高畑勲監督や宮粼駿監督は、かつてアニメ特有の動画部分の平面的な仕上がりに対して疑問を持ち、原画や手描きの魅力をそのまま活かしたものができないかと考えたという。高畑監督の『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)や『かぐや姫の物語』(2013年)、そして宮粼監督の『君たちはどう生きるか』(2023年)の冒頭部分のアニメーション表現は、まさにこれまでの多くの商業作品の表現に対する不満と挑戦心の反映だといえるし、ユーリ・ノルシュテインやフレデリック・バックなど、アートアニメーション界の巨匠への接近だったともいえる。
本作『ルックバック』は、そこまでの抜本的な挑戦になったとまではいえないが、考え方には近いものがある。奇しくも、『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018年)や『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』(2023年)のように、3DCGアニメーションで制作されるアメリカの大作アニメ映画もまた、手描き風の魅力を作品にとり入れる動きを見せている。まさに世界規模で“アナログ感”が求められてきているのである。
漫画がアニメと違うところは、一コマごとの絵で見せていくという部分である。それだけ聞くと労力は比較的少ないと思えるが、だからこそ一コマごとに一枚絵としての魅力が求められるのも確かで、必然的に筆の数も多くなりがちだ。だから『ルックバック』の映像化作品が、基の雰囲気を感じさせるには、どうしても線をある程度残さなければならないだろう。つまりこの映画版での技術的試みというのは、原作漫画あってのものだと考えられる。
原作漫画『ルックバック』の優れているところは、感情やテーマを効果的に伝える表現力だといえる。それは単に絵が上手いというだけではなく、物語の構成やコマ割り、場面の演出、そして設定やテーマも含めた、総合的な能力が支えているものだ。つまりは“漫画の力”そのものの強さなのである。だからこそ、同時代の漫画家が反応し、それぞれに自分の仕事に思いを馳せざるを得なかったのだろう。
そんな作品をアニメ化するのであれば、やはり「漫画」の魅力を残さねばならないと思うのも当然のことだ。一方でそれは、藤本タツキの“天才”をアニメーションが引き立てているということになり、アニメファンとしての立場からは一抹の寂しさをおぼえるところでもある。とはいえ、本作の実験によって、アニメ原画のニュアンスを残す作風が効果的でエモーションを伝えやすいことがはっきりしたこと、そして高畑監督や宮粼監督の先端的表現と従来のアニメ制作のブリッジをおこなうことができたという意味では、今後のアニメ界にとってプラスになることは間違いない。
さて、ここからは、そんな本作が伝えようとしたことは何なのかを考えていきたい。主人公・藤野のように、小学生のときに漫画家になりたいという夢を持つ者は少なくない。漫画家に限らず、クリエイティブな職業だったり、スポーツ選手や芸能人など、競争率が高く安定的とは言い難い業種を目指そうとする者も多いが、進路の選択が現実のものとなってくる中学生頃から、より堅実な職業への道や人生設計を迫られてしまうケースは数限りないはずだ。もし目指していたとしても、人の目を気にして周囲に吹聴することはだんだん難しくなってゆく。とくに体面を気にしてカッコつけたがる藤野のような人物ならなおさらで、実際に友達や家族の意見に左右されて、自分の夢を捨て去ろうとするのも理解できるところだ。
そんな藤野が、京本からの賞賛という無上の評価を得たことで、誰も見ていない雨の田園風景のなかで浮かれはしゃいでいる。その瞬間が示唆するのは、彼女にとって漫画を描くことは、やはり無上の喜びであり、他の可能性を捨ててでも漫画を選び取りたいという熱い想いである。そこからやはり、藤野・京本は、二人で合作をしながら中高生の時代を漫画制作にかけることになる。そして「藤野」、「京本」の名前の一字ずつを足すと「藤本」となるように、この二人は作者「藤本タツキ」の分身として描かれているのだと考えられる。
引きこもりだった京本は、藤野の“背中を見る”、すなわち「ルックバック」を経て彼女を追っていくことで外の世界に触れ、充実した時間を過ごすようになってゆく。しかし、彼女は背景画の画集に出会うことで一念発起し、藤野と別れて美術大学(東北芸術工科大学)を受験しようとする。この京本の選択は、自立心の芽生えであることは確かだろう。これは、京本が背景画家として独り立ちし、漫画とは異なる世界に旅立とうとしていると解釈することもできるし、藤野が夢見る「超絶作画」の漫画にいつか参加して寄与するための下準備をしていたのだと解釈することもできる。どちらにせよ彼女が望んでいたのは、藤野の後ろにとどまるのでなく、いつか対等に並び立つような立場になることだと思える。
しかし、その希望は凶行によって打ち砕かれる。本作の物語の重要な展開に触れることにはなるが、京本はある事件によって窮地に陥ることになるのである。この突然の展開による喪失は、解釈によっては、東北芸術工科大学で学んだ藤本タツキが、ある道を犠牲にして漫画の道を選んだメタファーであると考えることもできる。
原作漫画が発表された当時、この凶行の箇所が実際の事件をモデルにしたと指摘されたり、精神疾患をわずらう人への偏見を助長するという指摘がなされた。ジャンプ+編集部は、この批判に対応し、セリフの一部改変をおこなっている。だが映画版である本作では、改変前の実際の事件を想起させるセリフに戻している箇所があるのだ。
これは筆者の踏み込んだ想像ではあるが、アニメ業界が巻き込まれた実際の事件について、製作側は漫画業界よりも近いところにあるのは確かなことだ。アニメ業界全体が震撼したことになった事柄について、本作では理不尽な凶行に対する怒りを原動力に、あらためて当該部分を表現し直したということではないだろうか。もちろん、この想像は外れているのかもしれないし、当該箇所に対する批判意見や、さらにその反対意見も含め、議論は自由におこなわれるべきだ。何にせよ、こういった物議を醸す性質が備わった作品だということは留意しておいた方がいいだろう。
本作の物語上の肝となるのは、この後だ。藤野は事件後に、もう一つの世界で物語をやり直すことになる。本作唯一のファンタジックな「ルックバック(振り返り)」の箇所であるが、それをかたちづくったのは、じつは藤野の願望が生み出した創作であることが、「京本」作であると銘打たれてはいるが藤本の作風にしか見えない漫画作品が登場することで、暗示されているのだ。
そう考えれば「漫画」は、ただひととき世界に没入させ、現実を忘れさせる効果はあるが、それ以上の力を発揮することはできないのだと、ここでは示されているように思える。だが一方で、藤野の漫画の力が京本を引きこもっていた部屋から外に出すことになったのも確かなのだ。かつて手塚治虫の画期的な漫画作品『新宝島』が、藤子不二雄の未来を決定づけたように、漫画が誰かの人生を左右することは現実にあり得ることなのである。
しかし、ここで漫画の影響の良い部分だけにフォーカスしないのが、シニカルな藤本タツキの作風だ。藤野の漫画は引きこもっていた京本の精神を救う効果を発揮してはいるが、同時に京本の不幸の間接的なきっかけにもなっていたのである。ある漫画に感動し、漫画の道を志す……それはある者にとっては“福音”になるが、ある者にとっては“呪い”にもなり得るのかもしれない。
自分の生み出すものが、社会に貢献して誰かに希望を与えるかもしれないし、逆に社会を混乱させ誰かを不幸にすることも当然あり得る。売れっ子漫画家となった藤野は、強い悔恨と無力感に苛まれながら、また一人で机の原稿に向き合う。それは、言うまでもなく藤本タツキ自身が投影された姿なのだろう。だが、それをもし「美しい姿」だとして全肯定してしまえば、クリエイターのナルシシズムや特権性を賛美し掲揚するだけの内容だったということにもなりかねない。
そう考えれば、映画館ですすり泣く声があちこちから聞こえたという声や、クリエイター全体の想いを代弁しているという感想もある本作は、心を揺さぶられる部分が間違いなくありつつも、実際には、いわゆる涙を誘うタイプの「感動作」とは言い切れないのではないのかという疑問をおぼえるところだ。
藤本タツキは、現在連載中の『チェンソーマン』(第2部)で、露悪的な残酷描写で読者を揺さぶろうとしている。そういうタイプの作家が、多くの人々の感情と同調して一体感を得ることに快感を見出し、それを是としているとは思いづらい。あくまで本作の核には、ただ藤本タツキという傑出した個人の、等身大の姿があるだけなのではないのか。もちろん、その姿から何を受け取り、どう思い発展させるかは、観客一人ひとりに委ねられているのも確かである。(文=小野寺系(k.onodera))