断り続けたコーチの誘い「絶対もめる」 “上下関係”に嫌気…ピッタリだった最下位球団
牛島和彦氏は2005年に横浜監督就任…それまで投手コーチの依頼を断り続けた
元中日、ロッテ投手の牛島和彦氏(野球評論家)は2005年から2シーズン、横浜(現DeNA)の監督を務めた。1993年にロッテで現役引退して以来のユニホームだった。「打つチームだけど、ピッチャーがって。そこを何とかしてくれって感じでしたね」。新外国人のマーク・クルーン投手を投球フォーム改造の上で守護神にするなど、投手陣整備に成功して3年連続最下位だったチームを就任1年目でAクラスの3位に引き上げた。
現役を退いてから横浜監督になるまでの11年間、牛島氏は1度もユニホームを着なかったが、話がなかったわけではない。頭脳派投手として知られただけに、投手コーチとしては、むしろ引っ張りだこだった。中日時代の恩師、権藤博氏が横浜監督だった時にも誘われ、他からも声がかかった。だが、そのすべてを断った。どこの球団でやっても指揮官と衝突するのが予測でき、それが嫌だったという。
「ピッチングコーチってピッチャーをその気にさせないと駄目なポジション。よしって気にさせないとピッチャーは力が出ないですから。監督はそれよりもまず勝つことを考える。絶対もめるんですよ。じゃあピッチングコーチが監督の気持ちを変えられるかと言ったら変えられない。監督の方が偉いですから。監督がこうだと言ったら、そうなるしかない。それで選手がへそを曲げたりしたら困るので、やっぱり監督と戦わなければいけないですからね」
32歳の若さで引退したので、当時はまだまだ選手に近い世代。自身もコンディション面で、かなり無理しながら投げてきたし、選手の気持ちもよくわかるからなおさらだった。「権藤さんは、僕がプロに入った時のコーチ。そんな方に“駄目です”とか“こうしてください”とか言えないじゃないですか。長嶋さんや原さんにしても僕はジャイアンツのユニホームを着ていたわけじゃないし、そういう部分は難しいかとその頃は思ったんですよね」。
そんななか、43歳の時に横浜から監督就任を要請された。当時、横浜球団の筆頭株主だったTBSで牛島氏が解説を務めていた縁もあってのことだった。考えた末に承諾し、2004年10月18日に監督就任が発表された。会見では「1勝でも多く、順位は1つでも上に、1人でも多くのファンに来てもらうことしか考えてない」などと話した。「正直な話、(球団からは)横浜港開港150周年(2009年)に強いチームにしてくれと言われていました」と話す。
2年契約だったが、すべては4年先をにらんでのことで、まずは「投手陣を何とかしてほしい」との要望もあり、牛島監督は精力的に動いた。意識改革の一環として「ホームランを打たれて膝に手をあてて下を向いたら、代えると予告しました。そんなヤツは闘争心を持ってバッターに投げられないと言ってね」。結果、その対象の投手はひとりもいなかったという。「しそうにはなるんですけど、下を向いて手が膝にいきかけたところで思い出して、立ち直っていましたね」。
3年連続最下位から3位躍進…助っ人クルーンを守護神に育て上げた
それは一例にすぎないが、そんな“牛島イズム”が横浜投手陣に浸透。三浦大輔投手(現・DeNA監督)は2001年以来の2桁勝利(12勝)をマークするなど、大黒柱としてAクラス浮上に大貢献した。さらに大きかったのが守護神・クルーンの存在だ。この年に加入した助っ人は、当初、球は速いがコントロールが悪い投手だった。そこに牛島監督がメスを入れた。
「球が横回転していて体も軸がブレていたからコントロールがつかなかったんです。だから体のラインをずらすなとかいろいろやって、横で投げても離すところがバラバラになるから、できるだけ上から直線で、とかいう話もしましたね。でも、それができるようになってコントロールがついたら、今度は打たれるようになった。クルーンが『何で打たれるんだ』と聞いてきたから、言いましたよ。『真ん中ばかり投げているからや』ってね」
今度は内側半分とか外側半分とか分けて投げられるようにならないといけないと伝えたそうだ。「それに真っ直ぐとフォークだけでなく、違う球も覚えろと言いましたね」。そのたびにクルーンは真剣に取り組んだ。2005年は55登板、3勝2敗26セーブ、防御率2.70。「最初は(抑えの)佐々木(主浩投手)の前の8回に考えていたんだけど、佐々木の調子が悪くてクルーンを後ろに持っていったんですけどね」。
故障者を出さないことにも神経を使った。「あの時、選手が少なくて65人もいなかったんですよ。だから怪我人を出すと絶対戦力が少ないから落ちていくので、僕が肩を治してもらったリハビリの先生(山口光國氏)を大学病院から借りて、(フィジカルコーチとして)チームに入れたんですよ。1年目は怪我人が出なかった。それでそこそこの戦いができたって感じもありましたね」。それもAクラス入りの要因のひとつだった。
そもそもクルーン獲得も山口コーチの存在なしでは実現していなかったという。「クルーンは肘を2回手術していましたからね。フォームを変えてリハビリのケアを山口がちゃんとできる体制だったので、獲ろうという話になったんですよ」。大戦力になったクルーンは、その後2008年に巨人に移籍して最多セーブ投手(41セーブ)に輝くなど、MAX162キロのストレートを武器に日本で大きく成長し、通算177セーブをマークした。
牛島氏はうれしそうにこう話す。「僕が通算126セーブだったので、クルーンは(2009年の巨人時代に)127セーブ目を取った時のボールを僕にくれました。“日本でチャンスをもらって、監督の数字を超えることができました、ありがとう”ってね。そのボールは家に飾っていますよ」。一心不乱で3年連続最下位だったチームを立て直すことに全精力を注ぎ込んだ監督1年目。現役時代にクローザーとして名を馳せた牛島氏は、見事に守護神も作り上げた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)