濱井正吾 浪人 

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11浪して早稲田に合格した東さん。浪人は必ずしも肯定できない、と語ります。※写真はイメージ(写真: Fast&Slow / PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は、郁文館高等学校から11浪して、早稲田大学第二文学部に合格。卒業後IT企業での勤務を経て、テクニカルサポートの仕事をしている東(ひがし)さんにお話を伺いました。

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浪人してよかったとは言えない


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今まで多くの人の浪人人生をお送りしていたこの連載。

彼らに共通することは「浪人をしてよかった」と考えていることでした。

ただ、今回お話を聞いた東(ひがし)さんは、11年の浪人を経験したことに対して、必ずしも全面的に肯定しているわけではありません。

彼は言います。「自分は精神年齢が低かった」「恵まれていたのに頑張れなかった」と。浪人に対して今も後悔を抱いているようでした。

しかし、彼の話を聞き進めていくと、この十数年で精神面を鍛え、人間として大きく成長していたことがたしかに感じられたのです。

「浪人をしてよかったとは言えない」と語る彼が、浪人生活で学んだことは何だったのでしょうか。

東さんは、千葉県に生まれ育ちました。小学校3年生になってから研究職をしていた父親の仕事の都合で、京都の城陽市に引っ越し、卒業までを関西で過ごすことになります。

「父方が立派な家系で、祖父が大学の学長でした。小さい頃からいろんな方々が家に出入りする環境でしたね」

小さい頃の自身については「感覚で生きていた」と振り返ります。

「思い通りにならないと、へそを曲げてしまう性格でした。自分の中で勉強に興味を持つ時期と、嫌いでまったくやりたくないという時期があり、いいときはトップクラス、悪いときは最下位レベルの成績でした」

「とにかく勉強が嫌いだった思い出のほうが強い」と語る彼は、中学受験はせずにそのまま公立中学校に上がり、1年生のうちに千葉県に戻ってきます。

高3で文系から理系に変える

「成績が中ぐらいに落ち着いた」中学生活のあと、高校受験をした彼は、東京の私立である郁文館高等学校に進学します。しかし、彼の人生を大きく変えるアクシデントもここで起こりました。

「高校1年生の時点で進路を決める学校だったのですが、自分は漠然と考古学者になりたいと思って文系コースを選択したんです。でも、しだいに社会に出てからの生活のことを考えて、3年生で理系コースに入り直して勉強することにしました。

周囲からはこの選択に『なんでそんな無謀なことするの?』、『1年棒に振るの?』などと言われたんですが、当時は『やる気さえあればどうにでもなる!』と思っていました。考えが甘かったですね……」


現役のセンター試験は500点程度で終わった東さん。写真は2024年の共通テスト会場前の様子(撮影:梅谷秀司)

「学校に入る前に日本史と世界史の教科書を一言一句覚えた」と語るように、興味のある科目に関しては素晴らしい成績を取りましたが、科目によってムラがあるのは高校でも変わらなかったようで、センター試験は500/900点程度に終わります。

「理数系の科目は成績が高かったのですが、文系科目は嫌いだったので、ひどい成績でしたね。模試では千葉大学でD〜C判定を取っていた学部もあったので、そのまま前期試験で受けたのですが、落ちてしまいました」

滑り止めの早慶と明治大学も落ちた彼は、浪人を決断します。その理由については「そもそも現役で受かろうと思ってなかったから」と話してくれました。

「浪人をすることに対して、特に劣等感はありませんでした。勉強すれば行きたいところに行けると信じていましたし、納得するところにいけるまで、(勉強)すればいいんじゃないかとも思っていました」

こうして彼は「やるからには東大を目指そう!」と思い、駿台お茶の水校3号館に入って浪人を始めました。しかし、1浪目・2浪目とともに、夏になると早くも諦めムードが漂ったそうです。

「模試の偏差値は52〜54くらいで、現役時代より成績が落ちてしまいました。東大に合格するには明らかに厳しいレベルでしたね。1浪・2浪のときは、3月から5月までは少し頑張ろうと思って、ガーッと勉強するのですが、夏になったら身の程を知る感じになります」

成績が上がらなかった彼は、志望学部も文系に変えるなどの試行錯誤もするものの、結局受験に失敗します。3浪目の年には『さすがにこのまま親のすねをかじっていてはまずい』と意識が変わり、新聞奨学生として、新聞配達をしながら勉強を続ける決断をしました。

「とにかく朝早いので、眠くて日中の勉強になかなか打ち込めませんでした。朝刊の配達が終わったらすぐ寝て、起きたら今度はすぐに夕刊を配達する時刻になっていて、配達が終わったら17時。次の朝も2時起きなので、21時に寝ないとなかなか体がもたなかったので3浪目はほぼ勉強できませんでした」

一橋の2次試験まで進めたが…

「それでも、新聞奨学生2年目となった4浪目はさすがに勉強しましたね。興味が散る自分の性格的に1年間勉強を続けるのが難しいので、センター試験までの3カ月間を必死で勉強しました。朝から晩まで、隙間時間を使って、とにかく単語帳や参考書を見て、全部丸覚えをしていました。

その甲斐あって、初めて730/800点という信じられない高得点が取れたんです。それでさすがに受かりたいと思って一橋大学を受けたのですが、2次試験ができずにまた落ちてしまいました。センター試験で高い点数が取れたから、それで満足して燃え尽きてしまったのもありますが、2次の勉強をしたことがなくて、何をしていいかわからなかったんです

「今年こそはさすがに受かる」と思っていた東さんにとって、不合格という結果はまさかまさかの結果。ショックを受け、このままではいけないと思った彼は働きながら浪人することを決意します。

「すでに新聞配達をして独り立ちしていたので、家に帰ることはできないと思っていました。親と話したら『浪人するのはいいけど、自分のお金でやりなさい』と言ってくれたので、PHSの契約を取る営業マンになりました」

仕事と受験の両立に関しても、「自分は1年という長期間、集中することができません。だから、4月から働いて、11月〜12月で辞めて、1月まで勉強をするという4浪目でやった戦略をとることにした」という狙いがあった東さん。

周囲から「なぜ大学に行くのか?」と思われる

しかし、ここからの彼は合格から見離され、毎年春から秋の終わりまで働き、冬から猛スパートをかけて勉強を開始する生活を繰り返すことになります。

「途中から営業の仕事にとてもやりがいを持つようになりました。毎年、派遣でプリンターを売ったり、インターネットの契約を取ったりする営業マンをしていました。会社ではいちばん成績がよくて、9浪目くらいのときは年収700万円に到達しました。もう、自分にとって働き始めてからの受験は通過儀礼になってしまっていて、まぁ受かったら行こうかな、くらいの意識でした

仕事をしているときも毎年ずっとセンター試験を受けていた東さんの行動は、周囲の同僚にとっても奇妙なものであったようで、「なんで(いまさら)大学に行く必要があるの?」と思われていたそうです。

彼の中でも、センター試験の得点も毎年65%前後程度を繰り返し、4浪目を超える成績が取れなかったために大学に何がなんでも行くというモチベーションはなくなっていました。

彼にとっての受験は「趣味」へと性質を変えていたのです。

しかし、そんな彼に10浪目にして、「大学に入らなければならない」と、強く思うきっかけが訪れます。

「母方の祖母が亡くなったんです。生きていたときから『入学式の姿が見たかった』と言われていたので、おばあさんにその姿を見せることはかないませんでした。だから自分が情けなくなってしまって、受験を頑張らないといけないなと思いました。

それで、働きながら自分の稼ぎでいける大学を探して、比較的学費の安かった早稲田大学の政治経済学部・第二文学部に目をつけたんです」

とはいえこの年はもう間に合わなかった彼は11浪目に突入します。今まで落ちた理由を「精神的に幼かったから」と振り返った彼は、来年こそは受かるために1日当たりの勉強の密度を上げる決断をします

「この年もいつもとやったことは一緒です。12月まで仕事をしてお金を稼いでから勉強を頑張ったのですが、例年より真剣に取り組みました

その結果、千葉大学法学部と早稲田大学政治経済学部・第二文学部を受験して、政治経済学部以外は合格をいただけたので、立地や働きながら通うことを考慮し、早稲田大学の第二文学部に入学しました。早稲田なら多浪している人も多そうで通いやすそうでしたし、素直に嬉しかったです」

激動の浪人生活を送った東さん。彼に浪人してよかったことを尋ねたところ「自分がどういう人間かを知れた」、また、浪人を通して変わったことについては「精神面が大人になった」と答えてくれました。

「どれだけ恵まれているか知ったほうがいい」

「僕は浪人生活を頑張れませんでした。自身の考えの甘さで、自分を浪人しないといけない状況に追い込んでしまっただけです。高卒ですぐに社会に出る人もいる中で、自分は長い間浪人をさせてもらいました。

現役の受験で東大に合格できず、もう1年浪人して挑戦したかったけど家庭の事情でさせてもらえなかった人に『お前はどれだけ恵まれているかを知ったほうがいい』と言われたことがあります。この11年は、自分がどれほど人に支えられていたかを知れた期間だったと思います。

でも、周囲に何を言われても、一般的な価値観に左右されずに浪人を何年も続けられるような(図太い)人間なのだと知れたのは、自分の人生にとって大きかったと思います」

進学した早稲田大学では、大勢の浪人経験者とも仲良くなれた東さん。「浪人している人は人間として味があって、何かしら感銘を受けることが多かった」と語るように楽しい大学生活を送れたそうです。

40代でIT企業勤務にも挑戦

3年生のときに脳出血を起こしたために就職活動ができず、卒業してからも浪人時代から続けていた派遣の仕事をしていたそうですが、40代になってからIT企業勤務にも挑戦。現在は転職し、テクニカルサポートの仕事をしていると語る東さん。

大学を卒業してからも新しく挑戦を続けている東さん。40代後半を迎えた彼は今、青春時代の多くを占めた浪人の日々を振り返ります。

浪人は人生のリアルだと思います。それなりにいい大学に行けば、人生が成功できるかもしれないという状況に置かれていても、自分は1年すら勉強し続けることができませんでした。『現役で頑張れない人間が、浪人で頑張れるわけがない』と現役生に言われたことがありますが、自分すらもそう思っている部分があります。

でも、自分が新聞配達をしながら浪人をしていた時期、きつい仕事と両立して、2浪で志望校に受かった子も周囲にいました。そういう人にとっては、苦労が実る浪人はプラスだったわけです。

僕が今、人生に大成功していると『浪人をしてよかった』と胸を張って言えますが、結果が出ていないのでそうは言えません。そういう点では、浪人を経験してよかったと思えるかどうかは、自分が置かれた環境でどれだけ頑張れるかだと思います

10年以上に及ぶ浪人で自分の弱さを知り、挫折を味わった東さん。「恵まれていることを知るべき」と言われていた精神的に幼かった彼は、長い浪人生活を通して、俯瞰で物事を見る大人の考え方を手に入れたのだと思いました。

東さんの浪人生活の教訓:やってよかったと思えるかどうかは、置かれた環境でどれだけ頑張れたかによる。

(濱井 正吾 : 教育系ライター)