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韓国出身の女性DJ「DJ SODA」さんが2023年8月中旬、自身のX(旧ツイッター)で「私が6歳の時、両親は共働きで家に1人でいた私は強盗に性暴力を受けた」「その時の衝撃で場面緘黙(かんもく)症にかかり、今までこの事実を誰にも話さず、隠しながら生きてきた」と告白した。

場面緘黙とは家庭などでは会話できるものの、学校など特定の状況では困難となる症状だ。専門家は、大きな不安や緊張をもたらす環境の変化が引き金となって発症することが多いと指摘する。場面緘黙を経験した人はどのような苦しみを抱えているのか。J-CASTニュースは経験者3人に話を聞いた。

そもそも場面緘黙とは

米国精神医学会が定める「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」によると、場面緘黙の診断基準は次の通りだ。

・他の状況で話しているにもかかわらず、話すことが期待されている特定の社会的状況 (例:学校) において、話すことが一貫してできない。・その障害が、学業上、職業上の成績、または対人的コミュニケーションを妨げている。・その障害の持続期間は、少なくとも1か月 (学校の最初の1か月だけに限定されない) である。・話すことができないことは、その社会的状況で求められている、話されている言語の知識またその言語に感じる快適さの不足によるものではない。・その障害は、コミュニケーション症 (例:小児期発症流暢症) ではうまく説明されず、また自閉スペクトラム症、統合失調症、または他の精神症の経過中にのみ起こるものではない。

また、場面緘黙研究会の奥村真衣子・信州大学助教は『教職をめざす人のための特別支援教育 基礎から学べる子どもの理解と支援』(福村出版)で、

「身体の緊張が強く、思い通りに動くことができない人もいる」

と説明。早期発見と早期支援が重要だとし、「不安を低減させることと発話に代わる表出や参加方法を保障する」ことが対応の中心になるとしている。また、子どもの状況に応じて、「話す」ことにスモールステップで取り組むことも重要と説明する。

場面緘黙を発症するきっかけについては必ずしもトラウマ体験をきっかけとするものではなく、奥村助教はJ-CASTニュースの取材に次のように説明した。

「場面緘黙の発症契機は幼稚園や保育所への入園や、小学校への入学といった集団生活が始まる時期が多いと言われています。場面緘黙の子どもは生まれつき不安を感じやすい気質を持っており、入園・入学等の環境の変化(大きな不安や緊張をもたらす)が引き金となって発症するのではないかと考えられています。場面緘黙の発症機序自体がまだ十分にわかっておらず、多くはありませんが、ショックな体験(いじめ、大人からの叱責、事故、幼少期の入院等)が引き金となって場面緘黙を発症するケースや、ストレス障害と場面緘黙を併せもつケースもありますが、統計がありません」

症状が改善してきた「中学以降の方が苦しかった」

今回取材したのは、場面緘黙に関する情報交換や理解促進のための活動を行う「かんもくネット」の会員である3名。まず、場面緘黙経験者で、現在は場面緘黙に関わる活動を行っている20代後半のヤマダさん(仮名)に話を聞いた。ヤマダさんは小学2年生から6年生の頃まで場面緘黙の症状があったと話す。

「場面緘黙は人によって症状が違うのですが、私の場合は仲のいい2〜3人とは普通に喋れましたが、先生や他の同級生とは喋れませんでした。授業中に当てられたときには緊張しながらなんとか発言できていましたが、雑談は全くできず、首振りだけで答えていました」

発症のきっかけについては、「今振り返っても、自分でもわからない」。小学1年生のときに、先生が生徒全体に「静かにしなさい」と言ったあとに自分だけ喋ってしまった記憶はあるが、その直後に話せなくなったわけではなく、直接のきっかけではなさそうだという。

自分が学校で話せないことに関してはあまり気にしていなかったというが、とくに授業中は困ることや辛い思いをすることもあった。

「教科書を忘れたり、配られたプリントの枚数が足りなかったりしても、先生や周りに言えないことがありました。あとは、日直のスピーチや国語の発表の授業などで、教室の前で喋るときは緊張がものすごく強かったです。原稿を準備していても、初めの数行で声が震えて、泣いてしまって最後まで読めず、先生が『もういいよ』という感じになり席に戻ったことも。そういう発表のときは辛かったですね。中学以降も緊張はすごかったです」

ヤマダさんは、中学生になった頃から徐々に学校で話せるようになった。小学校高学年のときに周りの子どもと自分とを比べて客観視できるようになり「中学生になったら話せるようにしよう」と思ったこと、中学校はヤマダさんと別の小学校出身の生徒もいたため「自分のことを知らない人が多かったので、喋れる自分を出しやすかった」のが理由という。

しかし、ヤマダさんはむしろ症状が改善してきた中学以降の方が「苦しかった」と話す。

「いきなりたくさん喋れるようになったわけではなくて。とくに男の子とは喋れませんでした。話しかけられてもすぐに答えられなかったり、挨拶も自分からできなかったりということは結構ありました。中学から高校、大学、大学院と、本当に徐々に徐々に喋れる程度が増えていったという感じです」

中学3年生のときにはうつ病の診断もされた。

「自分は喋りたいという気持ちがあっても、同級生が雑談しているように喋れない。それがかなり辛かったです。なかなか大きな声で話せないというのもあって、飲食店のホールのバイトで、自分では大きな声を出しているつもりでも『もうちょっと聞こえる声で話して』と言われたこともありました。完全に喋れない状態ではなくなりましたが、自発的に話しかけることや雑談が苦手で、周りの人と同じではないなというのはずっと感じ続けていました」

話すことへの苦手意識や周りとの違うという感覚を抱きながらも、人と関わり続けることをやめなかった理由について、ヤマダさんは次のように語った。

「仲のいい友達もいましたし、家だとめちゃくちゃ普通に喋るので、(外では)話せなくても、人と接すること自体が嫌いだったわけではないと思うんです。話せるようになる努力をしたのは、やっぱ周りの人と同じようになりたいという思いがありました」

教師から馬鹿にされ...それでも「高校では絶対喋るぞ」と固く決意

小学校2年生から中学3年生まで場面緘黙の症状があったという30代後半のムラタさん(仮名)は、もともとはお喋りな子どもだったという。

「私の場合、小1の終わり頃からだんだん人と話すときに変に緊張するようになりました。小学校2年のときには(学校で)話してなかったという認識です」

発症したきっかけとなる出来事について、「喋らなければ可愛いのに」と言われた経験や弟が生まれたことなど「それなりに思い当たるイベントはある」としつつも「大きくなってから考えたことなのであまりしっくりこない」と話した。

症状については、

「授業で答えたり発表したりは全くできませんでした。本当に親しい一部の友達とは普通に話せましたが、授業中は挙手もできないし、音読もできないし、返事もダメでした」

と話す。クラスには仲の良い友達もいたが、学校の先生主導によるいじめを受けていたという。

「ちょっと頭の弱い子のように扱われていました。馬鹿にするというか、見下すというか。先生が主導になって(馬鹿にするような扱いをしていたため)、クラスのみんなも『あ、こいつはいじめていいのかな』という感じでした。当時は完全に私が悪いと思っていました」

親が医療関係者だったため、児童相談所や発達障害支援センターに一緒に通っていたが幼い頃から親とは不仲で、虐待ともいえる扱いを受けていたという。

「バンバン叩かれるし、殴られるし、蹴られるし......。場面緘黙の症状がありながら、学校の方がましなくらい、家は居心地が悪かったです。殴られるくらいならみんなに無視されている方がいいや、みたいな」

ムラタさんが学校で初めて声を発したのは、中学校の卒業式だったという。

「中学の終わり頃に『高校では絶対喋るぞ』と心に決めていました。私の性格からしたら珍しく、本当に固い決意でした。高校に入ってからだといまいち意思が弱くなってしまいそうだったので、中学の卒業式の日に初めて声を発しました。それ(声を出したこと)で頭がいっぱいで、周りの情景はまったく覚えていないです」

高校以降は外で話せるようになったが、それでも場数を踏みながら徐々に慣れていったという。ムラタさんは現在、介護関係の仕事に就いている。

「仕事柄、声が大きくないと相手に全然聞こえないので、声が小さいことで困ることはあります。あとは、急に話しかけられたときにとっさに返事ができないとか、あまり経験したことがないような場面に出くわしたときに、どう対応していいのかわからなくなることもあります」

自助グループのイベントやボランティアで発話の練習

大学生のカワグチさん(仮名)は幼稚園入園当初から、高校2年生の半ばぐらいまで場面緘黙の症状があった。ひどい時期には発話以外の行動も難しいほどだったという。

「時期によってだいぶ変わりますが、ひどいときは、外で全く話せないだけじゃなくて、食べるとか飲むとかトイレに行くというのも難しくなることがありました。だいたい小学校高学年から高校生あたりです」

カワグチさんは中学生の頃に場面緘黙の診断を受けた。その後、高校生の頃に場面緘黙の専門家に相談に行ったという。

「小学校のときに両親がかかりつけの小児科医に相談したらしいのですが、あまり親身になってくれなかったそうです。その後、中学生の頃に不登校になってしまったのですが、そのときにスクールカウンセラーの先生に紹介された小児科の精神外来のようなところで診断されました。ただ、専門家の先生に行くところまでは、(場面緘黙への)治療はあまり受けていなかったです」

学校では特別支援学級に通っていたが、そこでも発話ができるような支援はなかったそうだ。当時辛かったことについては

「発話ができないときに先生に怒られたり、音読ができずにできるまで立たされたり、挨拶ができなくて何回も促されたりといったことがありました。一番大変だったのは、体調不良のときに訴えられなくて、すぐに病院に連れて行ってもらえずに入院することになってしまったことです」

と話した。外で話せるようになったのは高校生の頃、専門家に相談しに行ってからという。

「(専門家の先生の勧めで)お昼休みの時間を使って、クラスメイトの女の子と空き教室で会話の練習をすることで、ちょっとずつ緩和していきました」

その後も雑談や大きな声を出すことへの苦手感は残るといい、アルバイトのときなどに苦労した。

「面接でうまく話せずになかなか受からなかったり、採用されても仕事の報告をするときなどに『もうちょっとはっきり喋って』と言われてしまったりしました。話せるときもあるだけに、たまにつっかえて話せなくなると、無視していると捉えられてしまうこともあります。ほかにも、例えば他人にぶつかったり他人の物を壊したりなど、相手に迷惑をかけてしまってもなかなか謝れない、ということが現在もあります。(1つのアルバイト先で)長く続ければ続けるほど、(アルバイト先の人と)親しくなればなるほど、雑談が難しくなってきてしまいます。そもそも日常生活があまりうまくいっていないので、継続的に働くことがすごく難しくて、単発や派遣を選んでいます」

現在は通信制大学に通いながら、場面緘黙の自助グループが主催するイベントや単発のアルバイト、地域のボランティアに参加しながら発話の練習をしているという。

「当事者同士の交流会では、テーマトークをするのですが、色々と考えながら喋る練習になります。当事者が店員を務めるカフェのイベントにも店員として参加しましたが、理解のある中で接客の練習をすることで、失敗体験にならない練習ができたと思います」

(J-CASTニュース編集部 高橋佳奈)