1998年3月8日、仙台で行なわれたプレシーズンマッチ。筆者が小野伸二を初めてナマで見た試合である。まだ高校の卒業式を終えていない新人ながら、2トップ下でスタメン出場を果たした。「これまで一緒に練習できていないので、周りの選手との連係を確かめたかった」とは、時の浦和レッズ監督、原博実氏の言葉である。

 浦和のスタメンにはチキ・ベギリスタイン、ゼリコ・ペトロビッチ、アルフレッド・ネイハイスという3人の由緒正しい外国人選手がいたが、パッと見、彼らを含め、ピッチ上で一番うまい選手に見えたのは28番を背負う小野だった。

 脳裏に鮮明なのは浦和が右サイドの深い位置でFKを得た時だった。ボールに対して右に構えるペトロビッチが、その時すでにキックモーションに入っていた。反対のサイドに立つ小野も蹴る雰囲気を見せていたが、おとり役かと思われた。しかし、両者は同じタイミングで動き出し、ボールの手前で激突しそうになった。コントではない。お互い大真面目だった。

 まだ清水商業を正式には卒業していない小野が、セビージャ、PSV等に在籍し、欧州でも好選手として知られたユーゴスラビア代表の32歳の前に、ヌッと立ちはだかる恰好になったのだ。コミュニケーション不足と言えばそれまでだが、ともすると厚かましく見える行動に出た小野に、ただ者ではない雰囲気を見て取ることができた。

「技術の種類が多い」「テンポがさまざま」「両足を自在に扱う」「ベテランぽい」「浦和で断トツにうまい」「意外に簡単にプレーする」「身体の向きとボールの出る方向が違う」......仙台の選手は試合後、口々にその印象を語っていた。日本が初出場を決めたフランスW杯まで3カ月という段だった。日本代表(第1期岡田ジャパン)に即刻、加えたい選手だと思った。

 ある評論家は当時、「小野がトップ下で、中田英寿はボランチ。どちらかひとりなら小野。中田のプライドを傷つけたくないのなら、2トップの一角で、下がり目に使え。ジダン役は小野のほうが相応しい」と言っていた。

【最年少でW杯に出場したが...】
 
 実際、18歳と272日で小野はW杯のピッチに立った。いまなお更新されていない最年少記録である。だがそれは、ほぼ脱落が決まっていた3戦目のジャマイカ戦で、しかも出場時間はわずか15分。文字どおり「出ただけ」だった。小野の魅力が晴れの舞台で全開になることはなかった。

 岡田武史監督は在任中、数々の成功と失敗を残しているが、フランスW杯で小野を15分しか出さなかったことは大きな失敗のひとつと言って過言ではない。敗戦を恐れる気持ちが強すぎて起用を躊躇った。だが日本の成績は3連敗。小野を使いこなすことも成績を挙げることもできなかった。

 だが小野にとって、はたまた日本サッカー界にとって、はるかに不幸な出来事が起きたのは、続くトルシエジャパン時代だった。

 2001−02シーズン、浦和からフェイエノールトに移籍。小野はスタメン出場を果たしていた。オランダの評論家、記者たちはなにより、左ウイングバックという、2002年の日韓共催W杯で小野が務めたポジションに納得がいかない様子だった。「槍的な要素がまったくない選手をあのポジションで使うとは」と言うのだ。最終メンバーから落選した中村俊輔も同じポジションだった。


フェイエノールト時代の小野伸二。2002年、UEFA杯決勝でドルトムントを破り優勝した

 フィリップ・トルシエに、なぜゲームメーカータイプの選手をそこで使うのかと筆者が尋ねれば「バックラインに球出しの能力のある選手がいないので、ウイングバックからボールをつないでいきたいからだ」と、答えた。だが、それをオランダの評論家たちに伝えれば、うーんと押し黙ったまま、首をひねったものだ。

 しかし、それなどは些細な問題に過ぎなかった。1999年7月4日。小野を語る時、この日に見舞われた重大事故を外すことはできない。シドニー五輪アジア地区1次予選対フィリピン戦で、左膝に悪質なタックルを受けた一件だ。第1戦は13−0だった。日本はすでに最終予選進出を決めていて、その最終戦となる消化試合が、フィリピンとの第2戦。ホーム開催のリターンマッチだった。

 なぜそんな試合に小野を出場させたのか。この一件に関わった人は誰なのか。小野にきちんと謝罪したのだろうか。

【バルサでやっていける】

 小野は直後にパラグアイで開催されるコパアメリカ1999に臨む日本代表の一員に選ばれていた。だが、出発の間際になって、フィリピン戦を戦う五輪チームの一員に移された。観戦チケットが売れていなかったからだと言われている。小野を客寄せパンダにしようとしたわけである。国立競技場にはその結果、3万9000人が集まった。その前半30分過ぎ、小野は相手選手に蟹挟みを食い、靭帯に大ケガを負った。

 小野はそれでもフェイエノールトでスタメンを張った。4−2−3−1の3の右、1トップ下なども務めたが、途中から守備的MFとしてプレーする機会が増えていった。アタッカーとしての推進力が不足していたことと、それは大きな関係がある。原因がケガにあることは明白だった。

 ケガをする前は、同じ頃、バルセロナで売り出し中のシャビより上だと思われた。小野はバルサでやっていける。筆者は自信満々でそう見ていた。当初の小野は久保建英の上を行く選手だった。

 しかし、代表キャップ数は56に終わった。チャンピオンズリーグ出場回数も9回に留まった。2006年ドイツW杯では、途中交代で1試合しか出場していない。

 最大の晴れ舞台は2001−02シーズンのUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)だ。フェイエノールトは決勝に進出。2002年5月8日、ドルトムントと対戦した。

 あらかじめ定められていた決勝の舞台は「デカイプ」で、フェイエノールトはホームで決勝戦を戦うという幸運に恵まれた。結果は3−2でフェイエノールトの優勝。守備的MFとして先発した小野は85分までプレーしている。

 欧州カップ戦と言えば中立地で行なわれるものだが、この時のフェイエノールトはホームスタジアムで優勝を遂げる恰好になったので、試合後が大変だった。街はお祭り騒ぎというレベルではなかった。市民は狂喜乱舞、錯乱状態で、危ないといったらありゃしなかった。

 欧州でのサッカー観戦歴はそれこそ数百試合とあるが、最も恐ろしかったのはこの試合後だ。筆者は頭を覆い、警官隊のサポートを受けながらホテルまで辿り着いた次第だ。今となってはいい思い出である。小野引退の報道を耳にして、いの一番に蘇ってきた光景がこれになる。

 1999年7月4日の国立競技場がその次で、3番目が1998年3月8日の仙台になる。ケガさえなければCL出場100回は行けたかも、と言いたくなる、日本サッカー史上、最も技術力の高い選手だった。