消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜村中秀人(後編)

村中秀人前編:プリンスホテル入部で驚愕「ここはプロ野球の養成所か...」はこちら>>

 1984年、プリンスホテルは2年連続、第一代表で都市対抗に出場。優勝候補の一角に挙げられたなか、1回戦は住友金属に11対9で勝利する。この時、チームで唯一、本塁打を放ったのが1番の村中秀人だった。身長171センチと小柄ながら、長打力のある左の強打者。のちに高校野球の名将となる村中に、プリンス時代の野球生活を聞く。


東海大甲府の監督として今夏の甲子園に出場した村中秀人氏

【主将となり都市対抗初のベスト4】

「その時の都市対抗は2回戦で負けたんですけど、僕自身、少しずつ試合で結果が出るようになって、一番の思い出は翌年の都市対抗の予選です。NTT東京と対戦した第一代表決定戦。延長17回までいった試合で、僕は2本ホームラン打ちまして、2本目がサヨナラでした。それで僕、キャプテンになったんです(笑)」

 その年、85年から主将には第3代の居郷肇(法政大/元西武球団社長)が就任。村中は86年に第4代の主将となるのだが、同年、4年連続で都市対抗出場を果たしたプリンスは初のベスト8に進出する。81年に助監督を引責辞任した石山建一が監督で復帰して2年目。投手の鈴木政明、外野手の中本龍児という両ベテランが84年に移籍してきたことも功を奏した。

「僕が入って2年目までは『オレが、オレが』というチームで、これじゃダメだ、と思っていました。だからキャプテンになって、完全に個人プレーをなくして、ガッとまとめたらチームがひとつになった。そのなかでは鈴木さん、中本さん、ノンプロの野球をよく知った方がまた違った雰囲気を醸し出してくれて、いい意味での化学反応というか、相乗効果もありましたね。あとは当然、監督の石山さん。以前よりも"野球の鬼"になって戻って来られて、いい意味でしつこい野球をやってプリンスは強くなった。都市対抗になったら、ミーティングなんて2時間以上ですから」

 村中の母校である東海大相模高、東海大を通じて監督だった原貢は、ほとんどミーティングを行なわなかった。ゆえに当初、石山が相手チームのデータを徹底的に分析し、対策を講じていくミーティングに驚き、ギャップを感じた。なにしろ、都市対抗の対戦相手の場合、全選手の長所・短所だけではない。出身地から家族構成まで調べ上げていたという。

「たとえば、1番、ライト、村中。こいつは3人きょうだいの末っ子。兄、姉がいて、かなり甘やかされて育ったけど、親父が厳しかった。中学、高校とかなり厳しく育てられて、野球部の監督も厳しい。けっこう根性あるから要注意だ、という感じなんです。この人、すごいなと。原監督は相手のデータはほとんど関係なくて、試合の時にしっかりやればいい、という方でしたから」

 そうして87年、村中が主将となって2年目。5年連続で都市対抗に出場したプリンスホテルは、初のベスト4に進出する。ついに念願の優勝も見えてきたところだったが、村中自身、大会終了後に野球人生の転換点に立たされた。母校・東海大相模高野球部の監督就任要請が、大学本部からあったのだ。しかし、その時の村中は断りを入れるしかなかった。

【プリンスからの出向で東海大相模へ】

「キャプテンをやっていて、結婚したばかりで女房が身籠っていて、今は抜け出せませんと。そうしたら1年後にまた要請があって、その時、僕は30歳でコーチ兼任。キャプテンは中島輝士(元日本ハムほか)に代わっていました。家庭的にはもう子どもができていた。高校の監督をやってみたい気持ちもありました。そこで女房に話したら『あなたの好きにしなさいよ』と言われまして」

 早速、石山に相談すると「行って来い!」と即答だった。まして、村中としては退社するつもりが、プリンスからの出向で就任することが認められた。石山曰く「どうせね、高校野球の監督なんて、5年間、甲子園に出なかったらクビになるから。戻ってきてプリンスの監督やれ」とのこと。実際、89年から5年間の出向扱いとなった一方、近い将来のビジョンが描かれていた。

「僕自身、戻るつもりではいたんです。ただ、高校野球の厳しさを知って、簡単には戻れなくなって......。相模の監督になって1年目、2年目と、ノンプロの目で高校生を見てしまって、けっこう叱咤してたんです。『こんなこともできないのか!』という感じで。ノンプロのような野球を高校生がすぐにできるわけがないですよね。それで2年間、甲子園に行けなくて、3年目、グーッと我慢したんです」

 我慢とは、自分の目線を下げる。ノンプロの目線で見ては絶対ダメなんだ──。早く気づけたことで結果につながった。就任3年目の91年、東海大相模高は秋の関東大会で優勝。翌92年春のセンバツ大会では17年ぶりに甲子園出場を果たすと、1回戦で常盤高(福岡)、2回戦で南部高(和歌山)、準々決勝でPL学園高(大阪)、準決勝で天理高(奈良)を破って決勝に進出する。

 最後は帝京高(東京)に2対3と惜敗したが、見事に準優勝を果たした。全国大会で大きな結果が出た途端、有望な選手が集まるようになり、就任から5年間が経とうとしていた頃だ。「どうする? 戻ったらプリンスの監督は用意してあるぞ」と石山から連絡が入った。村中が「もう少し、高校野球をやらせてくれませんか?」と答えると、3年間、延長になった。

【ホテルマンとしても優秀だった】

「感謝しかなかったです。社長の粋な計らいに。それで2年後、95年の春にまた甲子園に行けたんですけど、次の年で8年。だいぶ迷惑かけてるから、『じゃあプリンスに戻るか』と言ったら、小学3年生の息子が『お父さん、ホテルマンになるの? 似合わないよ』なんて言ってきて。『高校野球の監督が似合ってるよ』って言われて『わかった』。そのひと言でしたよ」

 九分九厘、戻るつもりが、翌朝には校長に「プリンス辞めます」と言っていた。そして校長とともにプリンスホテルの社長と面会。社長は「そこまで高校野球は魅力があるのか?」と言いつつ、「村中を東海に獲られた!」と付け加えた。というのも、村中は野球部で主将まで務めながら、営業としても十分な実績を残していた。出向容認の背景にもその実績があった。

 とりわけ、ホテルでの結婚式。自身の人脈を最大限に生かした。たとえば、高校・大学を通じて同僚の原辰徳(元巨人)。ほかのホテルで式を挙げる予定だと知ると、知恵を働かせて赤坂プリンスホテルに変更させた。また、東海大で3学年先輩だった国際武道大監督の岩井美樹。夫人が藤田元司(元巨人)の娘だった縁で、巨人の選手の挙式がほかのホテルから赤プリに変わった。

「そんなこともあって、社長は『おまえの好きにしろ』と。でも『辛くなったらまた戻ってこい』とまで言ってくれて、うれしい限りでした。で、本気で高校野球をやるんだったら、教員を目指したいなと。グラウンドだけでは選手との意思疎通が十分ではないんじゃないか、生徒との時間を少しでも長くしたいと考えたんです」

 2年間、大学に通って教員免許を取り、国語の教諭になった。その後、99年、相模の校長が東海大甲府高の校長になると決まり、ともに村中も異動する話が持ち上がると、恩師・原貢の勧めもあって転任。低迷していた甲府を立て直し、2003年の夏から23年の夏までの間に8回の甲子園出場。04年夏、12年夏にはベスト4に進出し、山梨県で34連勝という記録もつくった。

「監督としての勝たせ方はプリンスが土台になっていると思います。石山さんに教わった、相手のデータを徹底的に集めて分析すること、ミーティングも含めて。でも、僕はそれだけじゃない。練習は徹底して原監督のやり方で。だからその2つをミックスしてやってきましたけど、8年間、経験させてもらったホテルマンとしての厳しさも生きてますよ」

 東海大相模高時代から、グラウンド整備に始まってトイレ掃除まで、完璧にきれいに仕上げるのが当たり前、という姿勢をチームに浸透させた。礼儀作法も社会に出て通用するレベルが当たり前と指導し、とくに挨拶は相手の心に響く声の出し方から教えた。そのプリンスホテル野球部がなくなって23年が経った今、あらためて、どういうチームだったのか。

「高校野球で長く指導してきたことを踏まえて思い返すと、プリンスはノンプロじゃなかったです。プロ養成と、オリンピックを目指すためのチーム。だからこそ一時代をつくれたんだと思うけれど、錚々たるメンバーをしっかりまとめないと勝てない。それはキャプテンとして感じたことであり、今も生きていることです」

 現在65歳の村中は、24年3月限りで監督を退任。4月以降は、全13校ある東海大付属校のバックアップをしていくという。そのなかにあって、プリンスホテルでの経験はどう生かされるのか。名将の指導がミックスされた野球はどこまで伝わっていくのか、注目したい。

(=敬称略)