ロバート・ローズが明かす来日1年目のキャンプでの不安 進藤達哉と石井琢朗の守備に「心の底からヤバイと思った」
ボビー・ローズインタビュー(後編)
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ベイスターズでプレーした8年間で打率.325、167本塁打、808打点をマークしたロバート・ローズ氏
── ローズさんにとって、ベイスターズで過ごした日々はどんな時間でしたか。
ローズ ベイスターズに対しての感情は、ひと言では言い尽くせません。悲喜こもごも、喜怒哀楽、いろんな感情があって、言葉にすることはすごく難しいんです。1993年に25歳で来日した時、ベイスターズというチームはまだ弱かった。スタンドは驚くほどガラガラでね。そこには若くて一生懸命やるけど、強くはないチームメイトたちがいて、僕は彼らと一緒に成長してきた。
97年、優勝まであと一歩のところまで駆け上がった。あのシーズン中に、MLBのダイヤモンドバックスからセカンドのレギュラーで獲得したいからアメリカに帰ってこいという非公式な打診があった。だけど僕は断った。なぜって、あの時の一体感を覚えていますか? チームメイト、横浜のファン、すべての人が"優勝したい"という同じ方向を向いていた、あの場所から抜けたいと思う人間なんて、誰ひとりとしているわけがないだろ?
── 当時の横浜の空気感、覚えています。そして、1998年の日本一でした。
ローズ あの時、僕は確信したんですよ。ついに我々の黄金時代が来た。我々はニューヨーク・ヤンキースにもなれるし、東京ジャイアンツにもなれる。実際に投打ともにかなり質の高い野球ができていたし、このメンバーであれば、必ずや何連覇をも成し得るだろうと。ところが、僕らは1回しか優勝できなかった。それが一番悔しいんです。もちろんその大きな原因のひとつに僕自身がアメリカに帰る決断をしたことがあるのも理解しています。あの当時はそう決断してしまった。だけど、本当にこれでよかったのだろうか。そういった思いは少なからず残していました。
── 2000年のローズさんを皮切りに、優勝メンバーたちのほとんどがベイスターズを離れていってしまいました。
ローズ 知っているよ。その後に長い低迷があったこと。そして、ここ数年のうちに彼らがひとり、ふたりとベイスターズに帰ってきたことも、風の噂で聞いていた。だから、この6月。ユニフォーム姿のみんなと再会できたことは、いろんな意味で感情が昂りましたね。彼らは僕にとって掛け替えのないチームメイトですから。
── 横浜版のフィールドオブドリームスを見ているようでした。
ローズ 僕もいろんなことを思い出したよ。あの当時のベイスターズはマシンガン打線ばかりが取り上げられるけど、守備陣が本当に高いレベルだったんだ。とくにシンドウサン(進藤達哉)とイシイサン(石井琢朗)の三遊間。最初の年のキャンプで、彼らをはじめて見た時、僕は心の底から「ヤバい」と思ったんだ。なんなんだ、このふたりの守備力は、メジャーリーグでも十分通用するレベルじゃないか......ってね。
── 進藤さん、琢朗さんとも93年はレギュラーを獲ったばかりの23歳でした。
ローズ 日本の野球のレベルは、はじめて見た時からMLBに劣らないと感じていました。93年に初めてブルペンでサイトウサン(斎藤隆)の投球を見たあの日、『あなたは明日にでもメジャーリーグで活躍できる』と伝えたことを、僕は今でも鮮明に覚えています。その後、10年以上が経ってサイトウサンはアメリカに渡り、ドジャースのクロ--ザーとして活躍したでしょ。通用する選手はいくらでもいたんです。
── ローズさんが日本の若手選手を見て、そんな危機感を抱いていたとは意外でした。
ローズ 僕がこのチームでやっていくにはただ打つだけではダメでした。守備力をシンドウサンとイシイサンと同等まで磨かなければ認められない。そんな危機感を抱いて、彼らの背中を必死に追い続けたんです。僕の右側にはいつもシンドウサンとイシイサンがいて、難しい打球をなんなく捌いていく。「チッ、いいなぁ」といつも羨んでいたし、彼らの存在が僕を必死にさせてくれたんだよ。
── 優勝した年の内野は全員ゴールデングラブを受賞しました。当時のレギュラーメンバーはほとんどが70年生まれの同年代。「あいつが打ったなら俺も」という負けん気の相乗効果でマシンガン打線が完成したと聞きます。4番を任されたローズさんは年齢も彼らより3つほど上ですが、彼らを引っ張るという意識はあったのですか?
ローズ 1993年から僕らはたくさんの負けと失敗を繰り返し、ともに成長してきたという自負があります。同じグラウンドで、同じプレーヤーとして彼らの目や表情を見ていると、悔しさに満ち満ちていました。必死な形相で食らいつき"いつかうまくなりたい"という渇望がありました。だからこそ僕は、自分のやるべきことをやろうと考えていたんです。結果的に打線を引っ張ることができたかはわかりません。ですが、その後、僕たちはマシンガン打線と呼ばれるようになった。その一翼を担ってきた人間として言えることは、あの打線の中にいると「自分だけがアウトになるわけにはいかない」という意識になるんです。
たとえば僕の後ろにいたコマダサン(駒田徳広)。チーム最年長で、2メートル近い身長で堂々と立っていたコマダサンでさえも、追い込まれると、身体を小さく屈めてコンタクトヒッターに変わる。誰に言われるのでなく、全員が「アウトになるわけにはいかない」と必死になっていた。だから、ヒーローは日替わりだったんですよ。それがあの打線のすごさだったね。
【指導者として日本に来る意思はある】── それでもローズさんのキャリア、とくに後半は恐ろしい集中力を見せていましたね。1999年は前半だけで100打点。プロ野球史上2位の153打点を叩き出しています。
ローズ そう......そんなことを僕がやったんだね。だけど、これは僕ひとりの力では到底成し得なかったこと。幸運なことに、僕の前にはイシイサン、ハルサン(波留敏夫)、スズキサン(鈴木尚典)という最高のバッターが3人もいた。彼らが塁に出てくれるので僕がやることはシンプルに、「来たボールをいかに強く叩くか」、それだけに全集中できたんです。打ったあとのボールがどこに飛ぶかはコントロールできません。できることは、プロフェッショナルとして最高の準備をすること。そして強くボールを叩くこと。それだけに集中していました。
── ローズさんはマイナーリーグで打撃コーチもされていて、巨人のルイス・ブリンソン選手やDeNAのタイラー・オースティン選手を教えていたと聞きます。気になるのはいずれ指導者として日本であり、ベイスターズに帰ってきたいという意思はお持ちなのでしょうか。
ローズ 望まれたならもちろんだよ。ただ、それは今じゃない。この6月にみんなと会った時、彼らが監督やコーチとしてベンチに入っていると聞いたんだ。その顔ぶれを見た時、勝ち方を知っているし、もうこれ以上のメンバーはいない。最高じゃないかと瞬時に理解したんだ。バッティングはイシイとスズキという最高の人材がいる。今の僕がベイスターズに貢献できるとしたら「真剣に応援する」ということですね。
── 先日のハマスタのライトスタンドでは、牧秀悟選手の顔面Tシャツを着て「真剣に応援する」ローズさんの姿がありましたね。
ローズ すばらしい経験だった。僕の応援歌も流れていてね。応援はこれからもしていきたいと思っているよ。だけど、求められない限りそれ以上のことはしない。なぜって、MLBやNPBの一流と言われるレベルになると、メカニック云々ではなくて、僕はメンタルがすべてだと思っているんだよ。打てたこと、打てなかったことで、多くの選手は自分で抱え込み、考え込んでしまい今までやれていたことができなくなってしまう。それは僕自身も経験してきたこと。その時に、どれだけメンタルをフォローしてくれる人がいるか。それは今で言えば僕よりも言葉が細部まで伝えられるミウラサン、そしてイシイサン、スズキサンというすばらしい人がいる。任せておけば絶対に大丈夫です。
【試合後の考える時間が重要だった】── メンタルといえば、ローズさんは2年連続で9打席連続安打をしたこともあれば、サイクルヒットは3回。打ってほしいと願う、重圧がかかる場面にことごとく強かった印象があります。あの勝負強さはどう培ったのでしょうか?
ローズ たとえば、5試合連続ヒットを続けているバッターの心理に言及してみます。ここに「いい選手」と「超いい選手」の分かれ道があるんです。5試合打ちました。そしたら6試合、7試合と続けたいと思うのが「いい選手」のレベル。「超いい選手」はそうじゃない。ヒットが5試合続いても、10試合続いても変わらないんです。メディアや周囲がいくら騒いだとしても、それを追いかけない強さがあるんですよ。ここでメンタルのアプローチを変えてしまうと、その先にはバッティングのメカニックを狂わせてしまう要因があるのです。
── 勉強になります。
ローズ 試合を観ていて「このバッター打ちそうだな」と直感することはないですか? あの感覚は正しくて、「この選手調子よさそう」とか「打ちそうだな」って選手はだいたい打てるんです。問題はその状態をどれだけ長く続けるか。調子のよいレベルにいけるのはみなさんプロだからできる。超一流は、外野の声、試合状況、相手ピッチャーの攻めなど、外的な要因に惑わされることなく、自分をこの高いレベルに置き続けられること。その違いなんですよ。
── つながりました。ローズさんの現役時代は、あらゆる場面でのメンタルを一定にして高いレベルで調子を維持するために、集中を惑わせるすべてのことを除外していたんですね。
ローズ 人間は弱いですから、どうしても外的な声に惑わされてしまうし、自分が本来持っていた強い気持ちが揺らいでしまうことがあるんです。大事なことは自分に自信を持つこと。逆転のチャンスでいい当たりが野手の正面を突いてアウトになった。落ち込まない。いい打席だった。クオリティアウトとして自信を持ち続ければいいんです。
── 外的な声で時に励みにもなれば、大きくメンタルを削られることもあるSNSが苦手と言うのもよくわかります。
ローズ そうですね。これはいい悪いの話じゃなくてね。僕がマイナーリーグでコーチをしていた頃、今の時代は選手もコーチも試合が終わるとスマートフォンを開いて、SNSやいろんな情報を見ている。「答えはここにはないよ」とよく言っていました。
僕にとっては、試合が終わったあとの考える時間が重要だったからです。あのボールをどうして打てなかったのか。あの打席はなぜ打球があそこに落ちたのか......そんなことをずっと考えながらね。僕はスタジアムから家まで歩いて帰っていたんだ。今、振り返ってみるととても豊かな時間だったと思うよ。とくに、日本にはビールの自動販売機というすばらしいものがあったからね(笑)。
── テクノロジーの発達で映像やデータをスマホで見て確認している選手もいると思いますが、ローズさんは考えることを大事にしていたのですね。
ローズ 大事なことは準備です。このボールがきたらどうリアクトするか、こういうアングルで打球を飛ばそう、ここにボールがきたらこう捌いてダブルプレーをとろうと、具体的にビジュアライズしたかということを常に説いていました。なぜなら自分が想像できないプレーは実際のグラウンドでも起きない。自分がビジュアライズしたものを具現化するために練習が必要で、試合で現実に起きた時に緊張せずに実現するためには予めの準備と予習。そしてメンタルが重要になるんです。
【日本の野球は世界一のレベル】── 日本に来てからの配球や攻め方はどのように考えていたんですか?
ローズ これは外国人選手全般に言えることなんだけど、日本の野球は強打者であればあるほど、真っすぐを突っ込んでこない。日本では4500打席ほど立ったと思うのですが、ストレートに張ったことはなくて、常に変化球を頭に入れながら、ストレートは反応で対処していた。それはアメリカ時代にはない、日本ならではのアプローチでした。
いつかはベイスターズに戻ってきたいと語るロバート・ローズ氏(写真提供©︎ボビー・ローズ2023 ツアー事務局)
── 近年は日本に来る外国人野手でもかつてのような圧倒的な成績を残せる選手が少なくなってきていますが、これは日本の野球のレベルが上がっているんですかね。
ローズ たしかに90年代と2023年を比べたら、野球のレベル自体が上がっているということはあるでしょうね。ただ、以前から質という意味では日本の野球は世界一のレベルだと思っています。多くの人はMLBがナンバーワンで、次に日本やドミニカだと言いますが、それはアメリカ人としてフェアじゃないなと、いつも怒りに近い感情がありました。
僕は日米のリーグにおける野球に差があるとは思わなくて、差があるとすれば、それは選手個々の差なのかもしれない。それでも大谷翔平という突出した存在が出現した。ベイスターズにも牧というすばらしい打者がいるしね。
── ローズさんと同じ4番セカンドの牧選手にはやはり期待していますか。
ローズ 彼はまだ25歳で4番としてあれだけの成績を残していることがすでに物語っています。未来は明るいですよ。失敗も成功も積み重ねて、彼が30歳になる頃にはすばらしい選手になっているはず。すでにパワーの面では僕よりも上回っていますが、いずれどのカテゴリーでも私を追い越していくことになりますよ。さらに彼にはイシイサンとスズキサンがついているんだからね。心配はしていないよ。
── 9月の頭には帰国されてしまいますが、これからも日本で活動する予定はあるんでしょうか。
ローズ そうだね。これからは人生の第二章だと思っていて、SNSのチャレンジもそうですけど、僕のチャレンジはこれからも続くと思います。怠けた生活をしていたら、母に尻を叩かれてしまいますからね(笑)。
おわり
ロバート・ローズ/1967年3月15日、アメリカカリフォルニア州生まれ。93年に来日して、8年間ベイスターズでプレー。98年は「マシンガン打線」の中軸として、チームの日本一の立役者となった。99年には打率.369、153打点で二冠王を獲得。2000年のシーズンを最後に退団。02年にロッテに入団するもシーズン前に退団した。その後は、マイナーリーグのコーチなどを務めた