野村収インタビュー(後編)

【古巣・大洋で最多勝&カムバック賞】

── 日本ハム時代の75年に、11勝3敗(勝率.786)で最高勝率のタイトルを獲得されました。

野村 鈴木啓示(近鉄)も勝率.786(22勝6敗)で、同率でのタイトル獲得でした。シーズンオフの表彰式の時、鈴木に「最終戦に投げなければ、単独でタイトルを獲得できたのに」と言われました。じつはシーズン最終戦を残して、私は11勝2敗(勝率.846)の成績でした。ただチームは、勝てば5位、負ければ最下位という状況で、中西太監督に「野村、投げてくれ」と言われて投げたんです。

── 76年には、「1イニング3者連続3球三振」を記録しています。ちなみに、今年6月6日にリバン・モイネロ投手(ソフトバンク)がDeNA戦で記録しました。

野村 南海戦での片平晋作(見逃し、ファウル、空振り)、ドン・ビュフォード(見逃し、見逃し、空振り)、柏原純一(見逃し、見逃し、見逃し)ですね。結果的にそうなりましたが、気づいたのは試合後で、誰かに言われたからです。投げている最中は夢中で、そんなことはまったく考えてなかったですね。

── 78年に間柴茂有さん、杉山知隆さんとの1対2のトレードで、再び大洋でプレーされます。復帰1年目は自己最多の17勝をマークして最多勝のタイトルを獲得、カムバック賞も受賞されました。

野村 シーズン最終日、ダブルヘッダーを残して私と齊藤明雄が16勝で並んでいました。第1試合に私が先発して、リードしていたんですが、途中で守備のミスが出たのです。別当薫監督が「代わろうか」と打診したのですが、「いえ、自分でケリをつけます」と続投。結果は完投勝利で、17勝目をマークすることができました。

── 81年には「通算100勝」と「通算100敗」が同時リーチでした。

野村 100勝目は意識しましたね。リーチをかけてから6連敗を喫し、99勝99敗で勝敗が並んでしまいました。でも、100勝を先に達成しました。ヤクルト戦でした。

 ヤクルト戦といえば、翌82年の「両軍合計2安打(最少記録)」という試合が思い出深いです。私は水谷新太郎の内野安打1本に抑えていたのですが、味方も鈴木正幸に7回までノーヒットに抑えられていました。そして8回に私がヒットを放ってノーヒットは免れました。試合は2回に犠牲フライで挙げた1点を守りきり完封勝利。

── そういう展開で投げるのは、心身とも疲れるのではないですか。

野村 0対0とか、1対0の僅差の試合は、投手にとっては投げやすいものです。なぜなら、打者は打とうとして力みが生じ、タイミングが微妙にずれるんです。さらに両軍打っていないと、同じ間隔、同じリズムでマウンドに上がれるので、テンポよく投げることができる。逆に乱打戦の場合は、リズムが崩れる。「もうそんなに点はいらないよ。早くマウンドに行きたい」と内心思う時がありました。

【プロ野球史上初の12球団勝利】

── その後、83年に加藤博一さんとのトレードで阪神に移籍されます。その年、大洋戦に勝利してプロ野球史上初の「12球団勝利」を達成されました。セ・パ交流戦が始まる以前は、セ・パそれぞれ2球団ずつ在籍しないと記録できない貴重な記録でした。

野村 いい投手ならトレードされません。たまたま私がセ・パ2球団ずつ在籍したから達成できた記録です。私自身は、そんなたいそうな記録だとは思っていません。

── 野村さんは在籍した4球団すべてで2ケタ勝利を挙げられています。

野村 移籍しても私のやることは変わらないですから。その積み重ねですね。今年誰かが「12球団勝利」(6月14日に阪神・西勇輝が記録)したようですが、そんな時に私の名前が出る。みんなの記憶に残るのものいいものだと、今になって思います。

── 通算500試合登板もされています。

野村 83年に達成したのですが、通算500試合登板は自分のなかで価値がある記録だと思っていましたので、クリアしたいなと思っていました。

── 阪神時代の一番の思い出は何でしょうか?

野村 それは言うまでもなく、85年の優勝ですね。18年間の現役生活において、たった一度の優勝ですから。自分に優勝を経験させてくれたチームだということで感謝しています。ヤクルト戦(神宮球場)で3対5と負けていた8回裏に投げさせてもらい、9回表に阪神が追いついた。試合は引き分けに終わったのですが、優勝が決まりました。


83年に大洋から勝利を挙げ、プロ野球史上初めて12球団から勝利を挙げた野村収(写真中央)

── その試合後、チームメイトから胴上げされていました。

野村 ある試合前の円陣で、私が"声がけ"した時に勝ったものだから、ゲン担ぎが続いていました。たしか横浜戦で、相手の先発が2年連続最多勝の遠藤一彦。それで私は「ぶっつぶせー!」って叫んだら、ナインがドッと沸いてね。遠藤を序盤でKOしたものだから、以来、声がけの役を任されるようになりました。39歳のベテランがそんなことであってもチームに貢献したので、優勝決勝後に胴上げしてくれたのでしょう。

── 当時チームリーダーだった掛布雅之さんが、野村さんの存在、アドバイスに感謝されていました。「自分の4番打者としての野球人生にとって重たい言葉だった」と。

野村 現役時代、岡田(彰布)に聞いたことがあります。「オカ、打率3割と30本塁打だったらどっちをとる?」と。岡田は「そりゃ3割です」と即答しましたが、打者にとって打率3割は大きな勲章なんだと思ったものです。優勝が決まって、カケは打率3割スレスレで、試合に出場するか迷っていました。欠場すれば3割は確定。それで「カケは通算3000安打を打てる選手だ。1本足りなくて引退になったら悔いが残るぞ。それに、もうおまえは3割を打つとか打たないとか、そういうレベルの選手じゃないだろう。ファンためにグラウンドに出て、野球をやらなければいけない選手なんだよ。だから絶対に休んだらダメだ。最後まで出たらどうだい」と言いました。掛布は最終戦に出場して、5年連続全試合出場、打率.300、40本塁打、108打点で優勝に花を添えました。

── 最後に野村さんの現役生活18年で最大の思い出は何ですか。

野村 やはり85年の阪神の優勝ですね。あの年のベンチの盛り上がりはすごかった。まさしく「猛虎打線」の爆発で、毎日がお祭り騒ぎでした。もう38年前のことですが、今でも鮮明に覚えています。

おわり


野村収(のむら・おさむ)/1946年8月9日、神奈川県生まれ。平塚農高から駒澤大を経て、68年ドラフト1位で大洋(現・DeNA)に入団。72年にロッテ、74年に日本ハム、78年に再び大洋、83年に阪神と、のべ5球団を渡り歩き、83年5月にプロ野球史上初となる全12球団から勝ち星を挙げた。86年限りで現役を引退。引退後は阪神、大洋などでコーチ、スカウトを歴任。2000年にはシドニー五輪日本代表のコーチを務めた。通算成績は579試合に登板し、121勝132敗8セーブ