プリンスホテル1年目のキャンプで脱走 失意の橋本武広を救ったのは「ふたりの石井」だった
消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜橋本武広(前編)
母校の卒業式に出席するため、新人選手がプロ野球のキャンプ地を一時的に離れる──。毎年恒例の"行事"は、社会人野球のプリンスホテルでもあった。その年、1987年に入社した9名の新人は鹿児島・奄美大島キャンプに参加。東京農業大から入った投手、橋本武広も「農大の卒業式に行ってきます」と監督の石山建一に伝え、東京に向かった。
橋本は2日後にキャンプ地に戻る予定だった。ところが、3日経っても帰ってこない。しかも本人から何も連絡がない。心配した石山が東京農大野球部に電話すると、橋本は式が終わってすぐ帰途についたとのこと。
プロでは西武時代、7年連続50試合以上の登板を果たしたタフネス左腕。97年には最多ホールド投手のタイトルを獲得した橋本だが、社会人1年目に"脱走事件"を起こしていた。いったい、何があったのか。事の真相と経緯を本人に聞く。
都市対抗で好投するプリンスホテル時代の橋本武広
「奄美大島に行った時、周りを見ると先輩は村中さん(秀人・東海大)はじめ有名な方が何人もいたり、同級生にも六大学のホームランバッターがいたり......みんなすごい選手なんですよ。僕は農大でゆるい野球やってたんですよ(笑)。それも田舎の公立高校から入って。だからアマチュアのスーパースターを前にして『オレ、こんなところでやっていいのかな』って思ったんです」
「田舎の公立高校」とは青森・七戸高。だが、橋本は県内では名の知れた投手だった。82年、最後の夏も甲子園には出られなかったものの、東京農大野球部から部長の伊藤澄麿、監督の大沢紀三男が何度も七戸高に足を運んでいた。橋本自身、上京するつもりはなかったが、その熱心さに応える形で入学。1年時から公式戦で登板し、2年時にエースとなった左腕は身長171センチと小柄ながら、キレのある速球が光っていた。
当時、農大は東都大学リーグの二部に所属。それでも、橋本が4年生になった86年の春、日本大との入れ替え戦に勝って一部に昇格。秋には早くも二部に降格するのだが、橋本自身の投球に注目が集まり、いくつかの社会人チームから誘われることになった。「体は小さいけど腰のバネがすごい」と評価するプリンス監督の石山からは、最も熱心に誘われた。
「食事に連れて行ってもらったり、西武球場でプリンス対農大の試合をさせてもらったり。ただ、僕のなかで当時、社会人と言えば、日産とか東芝とか、熊谷組、東京ガスで、プリンスはまったくイメージしていなくて。しかも、まだ、青森に帰りたいと思う自分もいて、社会人であれば東北のチームに......ということも考えていたんですね」
【指揮官の殺し文句でプリンス入り】そんな橋本の気持ちを見越してか、ある日の食事には石山が声をかけている大学生たちが顔を揃えた。投手の石井丈裕(法政大/元西武)、内野手の石井浩郎(早稲田大/元近鉄ほか)、後藤良則(九州産業大)、戸栗和秀(駒澤大)、外野手の高木慎一(法政大)。結局、全員が入社するのだが、橋本自身、何が決め手になったのか。
「石山さんに『都市対抗優勝の時に胴上げ投手やれよ』って言われたんです。『ほおっ!』と思って。これは後々わかったんですが、そういうことを言う人なんです。いろんな選手に、いい殺し文句を言ってるんですよ。それで僕は実際、胴上げ投手にしてもらったのが本当に不思議なんですが、最初のキャンプではいなくなったんです」
まさに、89年の都市対抗、プリンスホテルが初優勝した時の胴上げ投手は橋本だった。石山の数々の「予言」のなかでも、これほどピンポイントなものはないと思われるが、しかし問題はその2年前の"脱走事件"だ。連絡がついた時、石山にはどう釈明したのか。
「『すごいレベルが高くて、プロみたいなチームで、サインも多いですし、スピードについていけません』って言ったはずです。でも、それは言い訳ですよね。何か理由つけて辞めようとして。実際には練習が厳しかったのもあるし、最初は誰もあんまり話してくれなかったのもあるし。ここでやっていく自信がないな......と思った時に、ちょうど卒業式があって」
チーム内では「そんなヤツは辞めさせろ」という声が出ていたが、そういうわけにはいかないと、石山は説得を試みた。監督として、スカウトした者として、当然のことだった。加えて、石山の前に同級生が声をかけていた。まだ携帯電話がない時代、石井浩郎、石井丈裕とは連絡を取り合っていた。
「卒業式のあと、ちょっと考えようと思って、ひとりでふらっと京都に行ったんです。僕、寺が好きで。それで寺巡りしていたら、いちばん最初に声をかけてくれたのが浩郎と丈でした。『もう帰って来いや』って。かたや早稲田の4番バッター、かたや法政の二番手ピッチャー。でも、お高くとまったところはなくて、普通の人間で。その時『もう戻ろう』と思ったんです」
【投手としての成長を支えた高待遇】チームに再合流した橋本は即戦力となり、オープン戦から結果を出した。すると、これまで一度も話したことがなかった先輩たちも、声をかけてくれるようになった。キャンプでレベルの高さに驚き、気後れはしても、投手としては十分に通用していたのではないか。
「いや、キャンプの時は自分がそんなにいいピッチャーだとは思ってないです。周りの人から『いいボールや』とよく言われましたが、本人はそこまでとは思ってない。なぜかと言うと、野球が好きで、それは自分の底辺にあるんですけど、大学までは、成長していこうとかそこまで考えていなかった。いま持っている力だけを頼りに、ただ野球をやっていたようなものでしたから。
それが、プリンスに入ってから変わりました。『もっとうまくなりたい』『自分のレベルを上げていかなきゃ』と考えるようになったんです。それはやっぱり周りの影響があり、いろんな方にアドバイスもいただきましたから。試合でバッテリーを組むキャッチャーの瀬戸山(満年)さんに聞くことも多かったです」
では橋本自身、成長していくためにどのような練習をしていたのか。キャンプでの練習は厳しかったということだが、まず投手陣全体で方針は決まっていたのだろうか。
「球数を多く投げろとは言われていなくても、"投げ込みデー"みたいなのがあって、それはしんどかった。でも、本当にしんどかったのはランニングでした。キャンプ以外でも、小手指の合宿所から玉川上水の球場まで走るとか。距離にして10キロぐらい。あと、府中市民球場で東芝と試合して負けたら、『走って帰れ』って(笑)」
球場まで野球部専用のバスで来ていたにも関わらず、専属のベテラン運転手が「乗るな! 誰も。みんな走って帰れ!」と命じた。実体は運転手というより現場監督で、なぜか選手たちを指導、管理していたという。その日は車で40分かかる道のり、約16キロを走ることになった。
「でも、それだけ走って合宿所に帰れば、大浴場はあるし、ジュース飲み放題だし、食事をちゃんとつくってくれるシェフがいて、昼からステーキの日もあるし。ひとり部屋で冷暖房がきいていたし。社会人チームのなかでは最高の待遇だったと思います。今の時代でも、そこまで待遇がいいチームはないでしょうね」
好待遇は生活面だけではなかった。合宿所には室内練習場とウエート場が併設され、個々にいくらでも練習できた。橋本もウエイトトレーニングで必要な筋肉をつけ、大学卒業時の体重から10キロ増やした。一方、室内練習場では野手が個々にバットを振った。深夜まで金属バットの打球音が響き、近くに住む当時の西武球団代表、坂井保之から苦情が入るほどだったという。
(=敬称略)
後編につづく>>