「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第31回 高橋直樹・後編 

(前編「甲子園、早稲田、プロ、そして突然の死。高橋直樹が語った因縁のライバル」を読む>>)

「昭和プロ野球人」が過去に応じたインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ連載。ヒゲ、メガネがトレードマークの高橋直樹さんは、甲子園で戦い、早稲田大で同僚となり、社会人・プロでは再び敵同士となった三輪田勝利(みわた かつとし)を永遠のライバルとして意識してきた。

 プロ入り後はそのライバルに大きく差をつけ、東映(のちに日拓ホーム→日本ハム)でエース級の働きを続けた高橋さんだが、1981年に移籍した広島時代は極端に低迷し、その後、西武にシーズン中トレードされたことで復活を遂げている。短期間での浮き沈みの裏には、いったい何があったのだろうか。


西武で復活した高橋直樹の美しい投球フォーム(写真・産経ビジュアル)

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「東映でよかったのは、キャッチャーの種茂さんのリード。僕と同じく大学、社会人を出てるから、すごく親しみを持って接してくれたんです。コントロールのいい投手が好きで、得意のシュートを生かしてくれました」

 種茂雅之(たねも まさゆき)は静岡高から立教大、丸善石油を経て東映フライヤーズに入団。1962年のリーグ優勝に貢献した捕手で、高橋さんにとって相性がよかった。

「それ以上に勝てた原因は大下剛史、大橋穣(ゆたか)の二遊間。ショートの大橋は外野の芝の上に立つぐらい深く守ってて、前にゴロが飛んできても猛ダッシュして処理する。セカンドの大下は軽快で、左右どこからでもサッと投げて、遊びながらダブルプレーにしてくれる。僕は打たせて取るピッチャーだったから、いかにこの二人の守備に助けられたか。

 ところが、大橋と種茂さんが阪急とのトレードで出されちゃって。代わりに打てる選手は来たけど、守備のうまい選手がいなくなって、僕はもうがっくりきました」

 71年オフのことだった。内野手の阪本敏三、捕手の岡村浩二、投手の佐々木誠吾を交換要員として、大橋、種茂が阪急に移籍。意気消沈した高橋さんは翌72年、オフに右足を負傷した影響で4勝に終わるも、球団が日拓ホームに身売りされたあとの73年には12勝と復調。6月16日の近鉄戦ではノーヒットノーランを達成した。

「それまで疲れ切っていたから、変な話、前の年にケガして休んだのがよかったのかな。プロはね、体調がよくて、気持ちが乗ったときというのは大きな仕事ができるんですよ。ちょっとアクシデントがあると、なかなかね。

 でも結局、ノーヒットノーランもコントロールのよさですよ。ストライクからボールにしたり、反対にボールからストライクにしたり、そんなことができましたから。コントロールは他の人よりもよかったですからね」

 そのコントロールのよさで、高橋さんは安定して勝てる投手になっていく。球団が日本ハムに身売りされたあとの74年こそ9勝に終わるも、75年からの3年間は17勝、13勝、17勝。79年には20勝を挙げて、シーズン最多無四球試合11というパ・リーグ記録を樹立。完全無欠のエースになっていた。

「でも、13勝した年から監督になった大沢(啓二)さんと合わなくてね。大沢さんは南海時代、『親分』と呼ばれた鶴岡一人さんのもとで野球をやっていて、エースといえば杉浦忠さんなんです。『杉浦さんは毎試合ベンチに入ってリリーフもやった』と言われたけど、僕にはそこまでの体力はないし投げるボールも違う。それでギクシャクしちゃったんですね」

 80年、高橋さんにとっては日本鋼管の後輩に当たる木田勇が新入団し、いきなり22勝を挙げた。周りの目がすべて新エース・木田に向けられるなかで10勝に終わり、35歳になっていた高橋さんは、球団から「年俸の高いベテラン」と見られ、トレード要員になっていた。そのなかで79年、80年と広島の2年連続日本一に大きく貢献した江夏豊にも放出の話が出ていた。

「大沢さんは抑えとして江夏がほしかったわけです。そこに『広島が江夏を出す』という話があって名乗りを挙げた。で、大沢さんが広島へ行って直談判したら、監督の古葉(竹識)さんから『高橋直樹を譲ってください』と言われたらしい。でも、僕は広島に行く気はない。『オレは行かない』って何度も言ってたんです。『行くならもう、辞めますよ』という感じで」

 そんな状況下、高橋さんはオーナーの大社義規(おおこそ よしのり)が持つマンションの一室に呼ばれ、「お前はうちにとって必要だから出さない」と言われた。同席した大沢からも「キミを出そうとしたのは言葉の行き違い。江夏君を獲れたらいいと思っていたけど、キミを出すとは言ってないから」と言われた。

「僕はもう全然、出る気はありません。ファイターズが好きですから」と高橋さんが返すと、「わかった。キミは絶対に出さない」と大沢が言った。

「それで大沢さんは帰るとき、タクシーで僕の家まで送ってくれて、玄関に出てきた女房にね、『いや奥さん、高橋君には頑張ってもらわないといけないから、よろしくお願いします、よろしくお願いします』って言って、こう、両手で女房の手を握るわけですよ」 

 いつの間にか、僕の右手が高橋さんの両手に包み込まれていた。取材中のそんなアクションも初めてのことでつい笑ってしまったが、眼前に迫る顔は真剣そのものだった。

「でね、こんなことまでして、翌日、新聞見たら『高橋トレード』。信じられないですよ。オーナーには仲人までしてもらってお世話になっていて、その人が面と向かって『出さない』と言ったのに。だからもう、広島に行ったときはなんのやる気もなかったんですよ。

 まして、コーチからは『江夏を出したから、江夏の代わりにリリーフをやってくれ』と言われて、やらされて。『オレは先発ピッチャーしかやったことないからリリーフはダメ』って何回も言ってるんですよ。当時はセーブなんて何の意味もないような記録だと思ってましたから」

 リリーフ、といっても、専任ではなかった。例えば、先発が決まっている日の前日、突如としてリリーフ登板を要求されることもあった。仕方なく登板すると、翌日の先発はなくなっていた。結局、移籍1年目の81年は16試合のうち8試合に先発して2勝5敗2セーブ、66回を投げて防御率3・95という成績に終わった。

「それで2年目はもう、ふてくされてね。肩が痛い、腰が痛い、足が痛いって、痛くないのに言うときもありました。不思議なもので、『やれ』と言われたら体が動かなくなるときもあった。拒絶反応ですね。そのかわり、自分では、陰で隠れて練習してたんですよ」

 かつて、広島市西区の三篠(みささ)に存在したカープの選手寮と室内練習場。その近くにある公園で、高橋さんは二軍のキャッチャーを相手に投げていた。一軍では4月に先発で1試合、リリーフで2試合に登板したのみ。何も結果を出せずに二軍に降格していたが、心身ともに充実していた。

「公園で練習するとものすごく調子いい。苦しさがないんだろうね。スパーン、スパーンと気持ちよく投げて、キャッチャーに『高橋さん、いいじゃないですか!』って言われる。公園だからマウンドがあるわけじゃない、平地で、だいたいの距離で。

 そのときに思ったのは、オレ、去年より、一昨年より、今のほうが調子いいんじゃないかっていうことでした。2年間の疲れがとれたのか、構えたミットにピシャー、ピシャーって行くんですよ。ゲームがないから、いざこざもなんにもないのもいいし」

 そうして、まさにやる気が起きていたとき、82年6月のことだ。西武の球団管理部長、根本陸夫から電話がかかってきた。あたかも、高橋さんが公園で練習していることを承知しているような第一声だったという。

「お前、遊んでんのか?」

「はい」

「うちね、今ね、優勝かかってんだけど、ピッチャー足りなくて困ってるんだ。力を貸してくれんか。お前、投げられるか?」

「投げられますよ。いやもう、やりますよ。今、絶好調ですよ!」

 根本は67年に広島のヘッドコーチに就任し、68年から監督に昇格して72年まで務めている。この広島との関係性が、陰で隠れていた高橋さんの情報入手につながったようだ。西武は投手の古沢憲司、内野手の大原徹也を交換要員に広島とのトレードを成立させ、高橋さんを獲得した。当時は前期後期制のパ・リーグにおいて、所沢移転後初の栄冠となる前期優勝に向けた緊急補強だった。

「移籍は6月12日でした。すぐベンチに入って14日の近鉄戦。この試合は2回までに西武が7点を取ったのに、2回裏、一挙8点を取られたんです。それで僕は3回途中から4番手で登板したんですが、6回に西武が3点を取って逆転して、最後まで投げてリードを守って1勝を挙げられた。前期はこの1勝だけでしたが、優勝に貢献できたと思います」

 その後、高橋さんは後期だけで6勝を挙げる活躍。後期の優勝は日本ハムだったが、10月のプレーオフ、前期優勝の西武は3勝1敗で日本ハムを下し、所沢移転後初のリーグ制覇を達成した。プレーオフでは第1戦、第2戦と、西武打線が抑えの江夏を攻略したことが大きかった。第1戦に先発して5回2/3をゼロに抑えた高橋さんにとっては、因縁の古巣との対決で結果を出した形となった。

 翌83年、高橋さんは13勝3敗という好成績で最高勝率のタイトルを獲得。プロ15年目で自身初の勲章だった。84年は2勝に終わるも、85年は40歳で球界最年長投手になりながら7勝をマーク。86年に移籍した巨人では結果を出せず、同年限りで現役引退となったが、通算169勝のうち、29勝を西武で挙げた。広島の公園で遊んでいた元エースが、所沢で復活したのだ。

「西武ではいちばん充実して、いちばん楽しい時代を過ごしました。監督の広岡(達朗)さんが早稲田の先輩ということもあって、野球は厳しかったけど相談できたし、やりやすかった。

『お前がしっかりやってくれないと困るぞ』って怒られたときもあるんだけど、これは最初、プロだから個人で勝手にやるよ、という気持ちだったからだと思います。でも、チームということを考えたら、オレがやるんだからお前もやれよ、というふうに変わりましたね」


西武時代を振り返る取材当時の高橋直樹さん。手がデカい

 キャンプで真剣に走らない若い投手をつかまえて「競走しようぜ」とけしかけ、いざ走ったら自分よりずっと速い、ということがあった。「速いんだったらずっと毎日走れ」と言ったら、「それはできません」と返された。この若い投手の姿勢はともかく、こうしたやりとりは日本ハム時代には考えられないことだったという。

「僕がいた頃の日本ハムは和気あいあいとやってました。そのなかで自分がえらくなって、責任が重くなって、楽しむ暇はなかったけど、優勝してないから、若いヤツに『ちゃんとやれよ』とか言うこともできない。何をやってもうまくいかないんですね。その点、優勝経験があるチームは常にピリッとしたものがある。西武で勝って初めてわかりました。日本ハムも江夏が入って優勝して、意識が変わったと思います」

 勝って初めてわかる、とはいえ、根本が目をつけた〈ひたむきで粘り強いプロ魂〉は、西武に移籍する前から培われていたものなのだ。それこそ、高橋さんの野球人生の根幹だろう。

「こいつをやっつけなかったら負ける、っていう目標があったということですよ。僕にとってそれは三輪田で、あいつが目標だったから東映、日拓、日本ハムで勝てたし、プロで長くできた。こうして昔を思い出すと、苦しいときばっかりが頭に残ってて泣きそうになりますけど、僕の野球人生、最高の目標に出会う運はあったんだなって思います」

(2018年8月24日・取材)