鈴木健吾が明かす「マラソン日本記録保持者の苦しさ」 妻の一山麻緒もマラソンでパリ五輪を目指す
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
〜HAKONE to PARIS〜
第21回・鈴木健吾(神奈川大学―富士通)後編
前編を読む>>箱根駅伝の経験が鈴木健吾を変えた マラソン日本記録保持者が大学時代に味わった感覚
2021年びわ湖毎日マラソンで日本新記録を打ち立てた鈴木健吾
大学卒業前、学生屈指のランナーに成長した鈴木健吾のもとには多くの実業団からオファーが届いたが、最終的に富士通に決めたのは3つの理由からだった。
「五輪や世界選手権に常に選手を送り出しているチームで、自分も世界を目指してチャレンジしていきたいと思っていました。また、大学で4年間、僕の体を見てくれたトレーナーが横浜にいるので、関東圏であればすぐ治療に通えるというのも大きかった。それに僕を成長させてくださった大後(栄治・神奈川大)監督という頼れる存在が近くにいるので安心して競技に取り組めると思って決めました」
富士通入社後、鈴木はすぐにマラソンの練習に取り組み始めた。
マラソンは大学4年時、東京マラソン2018に出場し、2時間10分21秒で総合19位(日本人13位)と、まずまずの結果を残した。次に出場するハンブルクマラソン(2019年4月)まで1年もの時間が空くことになるが、それは入社してから股関節などの故障がつづき、復帰まで時間を要したからだった。
その復帰明けのハンブルクマラソンで東京五輪マラソン日本代表選考会として開催されるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)への出場権を獲得した。だが、当時の鈴木にとって東京五輪はあまり現実的ではなかったという。
「MGCに出場できることになり、東京五輪の代表ということをあらためて考えると......自分にそこまでの力があるわけじゃないと思っていたので、マラソンの日本代表選手になると大きな声では言えませんでしたね」
そのMGCで鈴木は粘りの走りを見せた。トップ集団に入り、39キロ地点まで中村匠吾(富士通)、服部勇馬(トヨタ)、大迫傑(NIKE)についていった。
「僕はその時、何かしら爪痕を残してやろうと思っていたんです。でも、前にガンガン行かず、集団の中で様子をうかがって最後に勝負するという展開で、自分から勝負して勝ちに行くレースをしなかった。意外と走れたかなというのはありましたけど、匠吾さん、勇馬さん、大迫さんとは力の差を感じました」
翌2020年2月、MGCファイナルチャレンジでびわ湖毎日マラソンに出場した。東京五輪の出場権を賭けたラストチャンスだったが、2時間10分37秒で12位に終わり、鈴木の東京五輪へのチャレンジは終わった。
「このレースで感じたことはそもそも力がない。ただ、走っているだけじゃダメだなって思いました」
【日本人未踏の2時間5分の壁を打ち破る】鈴木は新たなことに取り組みを始めた。
「長く走ることはできるし、好きなんですけど、それまでフィジカル的なトレーニングをあまりしてこなかったんです。最初は鍛えることで体が重くなって、ランニングのエネルギー効率が悪くなるんじゃないかという不安がありましたが、現状を変えるためにウエイトトレーニングを始めました」
上半身を含めてトレーニングを継続していくと、肩甲骨の可動域が広がり股関節がダイナミックに働き、自然とストライドが広がった。また、そこからコロナ禍の影響により大会中止が相次いだこともあり、トレーニングを積み重ね、仕上げていく時間を作れた。
「僕にとって、コロナ禍での時間は新しいことに取り組むために重要な時間となりました。試合で調子を上げていく選手がいますが、僕は試合がなくても淡々と調整していけば、わりとパフォーマンスを発揮できるタイプ。それが僕の強さでもあるかなと思っています」
その強さを見せたのが、2021年のびわ湖毎日マラソンだった。
鈴木は36.2キロ付近の給水地点で仕掛けて、土方英和(旭化成)を突き放し、2時間4分56秒という日本新記録で優勝。ラップも35キロから40キロのまでの5キロを14分39秒という驚異的なペースで、誰も見たことのない景色を見たのである。
「日本記録が出せたのは、びわ湖の気象コンディションが良かったからです。コース後半ではいつもラストの向かい風に悩まされ、気温も安定しない印象だったので、そこまで期待はしていなかったんですけど、気温も風もいい感じでハマった。後半にあれだけペースを上げられたのは自分のコンディション作りもうまくいったからだと思います。レース前の練習は福嶋さん(正・富士通陸上競技部総監督兼マラソン担当)のメニューどおりに消化できてパーフェクトに近かったと考えています」
鈴木はそれまで日本人が誰も越えられなかった2時間5分の壁を打ち破った。
「自分自身にビックリしました(笑)。本当に距離あってんのかなって思いましたし、本当に自分が日本記録保持者になったのかなって思いました。ギリギリでクリアできたのは、沿道の人たちが『5分切れる』って叫んでくれたからです。『マジで出るのか』って思って、もう1段ギアを上げることができたんです」
日本のマラソン記録ホルダーという立場になると、箱根2区区間賞を獲った時以上に注目されるようになった。日本で最も速い選手という好奇の視線を浴び、再び追われる立場になった。
「意識しなければいいのですが、『記録はまぐれ』みたいなことを言われたことがあって......。そう言われるってことは他のみんなにもそう思われているんだろうなって自分で勝手に思っていました。周囲の見方に対して敏感になっていましたし、期待が大きかったので、次のマラソンでは失敗はできないプレッシャーを感じていました」
【妻の一山麻緒とともにパリを目指す】神奈川大学4年時の箱根駅伝のように取材依頼が増えた。いろんなプレッシャーを抱え込んで、翌2022年3月、鈴木は東京マラソンに出場、2時間5分28秒で日本人トップ、総合4位と結果を出した。ゴールした後のインタビューで、「この1年、つらかった」と涙を流した。鈴木がどれだけプレッシャーを感じ、どれほど追い込まれていたのかが伝わってくる重い涙だった。
「日本記録を持っている選手なら、日本人トップをとらないといけないというプレッシャーを自分にかけていました。しかも、レース前は練習がうまく消化できないことがあったので、焦って練習をやり過ぎたり、故障したりで、本当に走るのか、やめるのかというところまで考えていて......。日本新を出してから『自分の体と心が噛み合っていない』とずっと感じていました」
2022年の東京マラソンで結果を出し、びわ湖マラソンの日本新記録はフロックではないことを証明した。オレゴン世界陸上のマラソン男子代表にも選出され、世界と戦うチャンスを得たが、現地で新型コロナウイルスに感染し、出場を断念せざるを得なかった。
「3月に東京を走ってからオレゴンの世界陸上まではそんなに試合もなく、しっかりと準備してきたので調子がよかったんです。でも、さぁレースというところで新型コロナウイルスに感染してしまって......。日本代表として走れない申し訳なさに加え、練習してきたものを出せなくなったのでショックで、かなりメンタル的にこたえました」
新型コロナウイルスで調子を崩し、世界陸上を欠場した後、秋や冬のレースから鈴木の名前が消えた。鈴木が戻ってきたのは、23年6月末の函館マラソンだった。
「世界陸上に出場できなかった後、ロンドンマラソンに出ようかなとか、東京マラソンをもう一度走ろうかなと思ったんですが、調整を含めてうまくいかない時期が続いてしまって。走ることは好きなんですけど、これだけ走れない期間があるとちょっと怖いなって思うようになりました」
1年3か月ぶりのレースは、ハーフだったが、総合7位になり、「思った以上に走れた」という感触を得た。そのレースには、妻の一山麻緒も出走して見事優勝。MGCに向けて順調に調整を続けているのが見て取れた。苦しかった日々、妻の存在は鈴木にとって大きな支えになった。
「彼女も同じような苦しい経験をしていますし、競技のことをわかってくれる存在なので、他の人に相談できないこと、困ったことなど相談できる存在です。この時は、いろんな意味でサポートしてくれたので本当にありがたかったですね」
夫婦ともにパリ五輪を目指しているが、鈴木にとってパリとはどういう舞台になるのだろうか。
「4年前のMGCを経験して以来、パリに出ることを目標にずっとやってきました。特別な思いがありますし、絶対に出たいです」
パリへのチケットを得るために鈴木はMGCに向けて順調に調整を続けている。MGC出場予定の他の選手はレースや記録会に出てアップグレードをしてきている。だが、ライバルたちの動向はあまり気にならないという。
「MGCに出る強い選手の結果は自然に目に入って来ますが、状態がいいんだなって思う程度ですね。福嶋さん(正・総監督)からは『周囲の選手ではなく、自分自身との勝負。どれだけいい練習ができるか。いい練習ができたら絶対に最後の勝負に絡める』と言われています。僕も自分が求める準備ができればしっかり勝負ができると思っているので、本当に自分との戦いかなと思います」
満を持して鈴木がスタートラインに立った時、その存在は他選手にとって大きな脅威になるだろう。
【プロフィール】
鈴木健吾 すずき・けんご
1995年6月11日、愛媛県宇和島市生まれ。小学校6年時から陸上を始め、宇和島東高校から神奈川大学へと進学。箱根駅伝では1年時より6区を務め、2年以降は3年連続で2区を好走。富士通に進んだのち、第76回びわ湖毎日マラソンにて2時間04分56秒の日本新記録を樹立した。