5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 小島茂之 編(後編)

 2000年シドニー五輪でリレーの決勝を経験し、「もっと強くならなければいけない」と感じた小島茂之。「自分が充実した状態で臨めるのは24歳で迎える2004年アテネ五輪」と、次の目標に定めた。しかし、そこからは厳しい3年間が待ち受けていた――。


シドニー五輪後から代表復帰までを語ってくれた小島茂之氏

 2001年の春先に肉離れをしてしまい、6月の日本選手権はギリギリで間に合わせたものの100mで6位。さらにそのあともケガが続き、7月以降は試合にも出られなかった。2002年も春先からシーズンインができず、6月の日本選手権がシーズン初戦となり、再び6位。翌年2003年は春先から走れたものの、日本選手権は予選敗退と低迷が続いた。

「やはり、シドニーのあとは焦りがあったのかもしれません。今思えば、『このままじゃいけない』と思って練習量を急に増やしたり、ウエイトトレーニングをガラッと変えるなど、必死にいろいろ考えてやっていました。オーバートレーニングからケガにつながり、空回りしてしまった感じですね。結果が出ないのが続くと自分の走り方もわからなくなってしまい、自信もなくなっていきました」

 それでも2004年のアテネ五輪シーズンには少し調子が上がってきた。2003年世界選手権の200mで末續慎吾が3位になったのを見て、日本人でも世界に通用するのがわかった。「自分も世界に行きたい。負けていられない」という思いが生まれ、初めてオーストラリアでシーズンイン。4月の織田記念陸上では4年ぶりに10秒2台となる10秒29で走り、日本人3位になった。

「6月の日本選手権へ向けてさらに調子が上がってきていたところ、大会1週間前に肉離れをしてしまい、結局、勝負の舞台にも立てなかったんです。それまでの3年間は代表を外れても、普通に大会をテレビで見て、みんなを応援していたけど、04年の日本選手権だけは、悔しくて見ることができませんでした」

 2004年の秋にはそれまで所属した富士通を退社し、アシックスに移籍。そこから「プライドも何も、失うものはない」と、リスタートを切った。

「今までやってきたことを含めて、1から自分に何が合うのかを考え直そうと思いました。25歳になって、少しずつ自分の体がわかってくる時期だったんですよね。走れなくなって初めていろいろ考えるようになって、自分の体とも対話するようになっていました。末續が見せてくれた走りで、世界まで行きたいという思いは生まれたけれど、自分のレベルではまだ現実的ではなかったし、日本選手権も2位が最高で勝てていなかったので、まずは100mで日本一になって、世界でどれだけ戦えるかもう一度チャレンジしていきたいという気持ちでした」

 2005年は4月の織田記念で末續に次ぐ2位になったが、日本選手権は8位。2006年は日本選手権で塚原直貴(東海大)に次ぐ2位になり、12月のアジア大会にも第1次選考で選ばれて久しぶりに日本代表に復帰を果たした。さらに9月にアテネで開催された大陸別対抗のワールドカップには、アジア代表として塚原や末續、高平慎士とともに4×100mリレーにも出場。4走を務めて銅メダルを獲得した。

「自分のなかでは、練習のコントロールや体の使い方が少しずつわかってきて、学生時代よりも速く走れる感覚でした。ワールドカップでは『やっと代表に戻ってこられた』というのと、自分でも好きで最も力を出せると思っていたのが4走だったので、うれしさも感じました。塚原の1走はうまかったし、末續の加速もすごくて、高平のコーナリングもうまかった。アンダーハンドパスもみんなうまくなっていたので、このチームで来年も走りたいという思いはありました」

 12月のアジア大会は100mで6位に入ったが、4×100mリレーの出番はなかった。3走には200mで07年世界選手権A標準を突破している大前祐介(富士通)が入り、高平が4走というオーダーに変わったのだ。だが小島は納得していたという。

「リレーのオーダーはコーチがその時のベストメンバーを選ぶものだと思っています。走れなかった悔しさはあったけど、個人の100mの決勝で、予選や準決勝よりタイムを落とした自分が悪いので。塚原は個人でも銀メダルだし、末續と高平も200mで1位と3位。リレー要員だった大前もしっかり準備をしていたので『何で自分が外されたんだ』というのは一切なかったですね。それよりも自分がダメだったことへの喪失感というか......。

 やっと代表に戻ってきて個人のレースにも出たのに、まだ力がないのかと自分に対しての情けなさのほうが大きかったですね」

 そんな小島が競技人生の集大成のひとつと考えていたのが、27歳で迎える2007年世界選手権大阪大会だった。そこには主要大会を1年休んでいた朝原も復帰してきて、競争は厳しくなっていた。

 小島は、7月の南部記念で最後の1枠に滑り込んだ。そのあとも個人種目出場のために100mA標準の10秒21を突破目指したものの10秒24と届かず、2000年シドニー五輪と同じく、リレー要員としての代表となった。A標準を突破の4人が揃っている状況では、走れる可能性は低かった。

「最初からリザーブという立場でしたが、やるべきことは明確でした。もちろん集大成だと思っていたからこそ、走りたいという思いは強かったけど、チームの意識も高くなっていたので『どうやったらこのチームは強くなれるか』ということも考えていました。だから、まだ若くて先輩たちについていくだけだったシドニー五輪の時とは視点もまったく違いましたね。自分勝手ではなくチームがうまくいくように、万が一、誰かが痛んだ時はすぐ行けるようにとイメージも体も準備していました」

 コーチ陣からは、「どこでも走れるように準備しておいてくれ」という指示があった。そのなかでも小島は1走の練習に集中したという。

「3走というのはないだろうし、直線だったら100mでいつも走っているから、コーナーの準備さえしておけばどこでも走れる」という考えだった。

 自分が不安そうな顔をしていたらいいチームにはならない。モチベーションを保って万全に準備することで、チームは強くなれると考えた。

「リレー要員で入った限り、シドニーの時のようにチャンスはあると思っていたので『めちゃくちゃ調子いいですよ』と必死でアピールしたのは覚えています。自分が走れなかったとしても何ができるかということだけに集中していたからこそ、調子がよくて、感覚的にはいつでも自己ベストを出せるような感じでした。人生のなかでも、リレーの準備が一番できていた時だったと思います」

 予選も決勝も、メンバーを送り出す瞬間まで「自分はいつでも替われる」という気持ちでいた。しかし、練習トラックから決勝でスタジアムへ向かう4人のうしろ姿を見た時は、「出られないんだ」と思って涙が流れた。

 その悔しさを振りきるように、全力で250m走のタイムトライアルを1本走った。

 翌年に北京五輪があったことで、気持ちは救われたと振り返る。

「補欠で走れなかった悔しさは、あの大阪の時が一番大きかったけど、送り出したあとは『強いチームにいたんだな』と思って『メダルを獲って欲しい』と思ったし、そのチームにいられて幸せだと思いました。決勝が5位だった時は『日本新を出してもメダルが獲れないんだ』と思ったのを覚えているけど、レース後に高平などが『小島さんがどこでも走れる準備をしてくれていたから頑張れた』と言ってくれたのはうれしかったです。

 自分はたまたま走れなかったけど、やるべきことは100%できたかなと思っていたし、どこを走ったとしても自分の競技人生で最高のパフォーマンスが出せるなと思っていたので。本当は走りたかったけど、自分の中では納得していたし、走った4人と一緒に戦えたことをうれしく思いました」

 北京五輪を目指した2008年、脚に不安があった日本選手権は4位で代表を逃した。そこで引退も考えたが「もう1年やってから次の五輪挑戦を考えよう」と競技を続け、2009年は、日本選手権の準決勝で10秒26と世界選手権B標準を突破し、決勝で3位以内に入れば代表になれるところまで迫った。しかし、決勝では思っていた走りができず7位。そして、引退を決意した。

「振り返ってみれば、代表を5年間外れて戻ってくる選手はなかなかいないので、2006年からの2年間は幸せでした。周りの人に支えられてもう一度日の丸をつけられました。20歳で出場したシドニーの五輪代表ももちろんうれしかったけど、代表復帰をした2007年の世界選手権のほうがうれしかったですね。走れなかったけど『帰ってこられた』という、うれしさがありました。リレーメンバ−として、いい状態を作れたあの世界選手権は、自分の競技人生のなかの勲章だったと思います」

Profile
小島茂之(こじま しげゆき)
1979年9月25日生まれ、千葉県出身。
市立船橋高校時代から頭角を現し、早稲田大学進学後20歳でシドニー五輪の個人種目100mと4×100mの日本代表に選出された。その後、富士通へ進んだが、ケガに悩まされることも多く、2004年にアシックスへと移籍。2005年に日本代表に復帰を果たし、大陸対抗W杯では4継で銅メダルを獲得した。翌年のアジア大会100mで6位入賞を果たし、2009年に引退した。