植田総裁の初手に市場はどう反応するか(写真:記者撮影)

4月の就任から3カ月あまり。植田和男日銀総裁が初めて動いた。7月28日、就任後3回目の金融政策決定会合で、長短金利操作(イールドカーブ・コントロール、YCC)を修正し、長期金利(10年国債利回り)の上限を0.5%から1%に引き上げた。

決定会合後の会見で植田総裁は、「金融緩和の持続性を高めるための柔軟化」だと強調した。「政策は修正するが、現状の緩和は続ける」というわけだ。

あいまいな決定に市場の解釈は交錯

決定内容は、これまでどおり長期金利を「0%程度」、変動幅は「プラスマイナス0.5%」と示しながら、国債買い入れでそれ以上の利回り上昇(債券価格の低下)を抑え込む値は0.5%から「1%」に引き上げるというややこしいものだ。

金利上限に二重のラインを設け、その間の0.5~1%は金利上昇を許容しつつ、状況に応じて抑制する。


決定を受け、28日の金融市場では10年国債金利が一時、0.575%まで上昇。円高・株安に振れた後、ほとんど戻すという荒い値動きとなった。政策修正と現状維持、タカ派(金融引き締め)とハト派(金融緩和)、どちらのスタンスともとれる決定内容に対し、市場の解釈は交錯した。

なぜ日銀は、このようなあいまいな政策判断に至ったのか。背景には2つの「反省」が浮かぶ。

植田総裁は就任以来、「待つことのコストは大きくない」などと述べ、現状の緩和を維持する「ハト派」のスタンスを印象付けてきた。足元で前年比3%超の物価上昇が続くが、「2%目標実現」とは見なしていない。

植田総裁の発言から想起されるのは、「日銀のゼロ金利解除が早すぎたため、景気失速を招き、デフレに逆戻りした」と批判を浴びた2000年のことだ。当時、審議委員だった植田総裁は解除に反対票を投じていただけに、同じ轍は踏まないとの思いはひとしおだろう。これが1つ目の「失敗」だ。

日銀は1998年にゼロ金利に達して以降、金融緩和の手法を模索してきた。主なものが「将来の緩和効果の前借り」で、「将来、金融引き締めに動くべき水準まで経済・物価が上向いた段階でも、緩和を続ける」と約束することで、現在の中・長期金利を引き下げる効果を及ぼす。

かつて審議委員時代に植田総裁は「時間軸政策」と名付けた。

物価2%超でも緩和続行

現在でいえば、前年比2%超の物価上昇が「持続的・安定的と見通せる」まで緩和を続ける方針は、この枠組みに沿っている。植田総裁はこの3カ月、政策判断の根拠を足元の物価ではなく、先々の物価の見通しに置くというメッセージを発してきた。

今回、「物価の見通し」はどう変わったのか。

日銀は今回、3カ月に一度、決定会合の際に公表する「展望レポート」で、2023年度の物価見通し(生鮮食品除く、対前年度比)を2.5%に引き上げた。民間予測に近い値だ。


一方、2024年度は1.9%、2025年度は1.6%(同)と2%を下回る形で低下するという見通しは前回とほぼ同じだ。ただ、会見で植田総裁は「(2%実現には)まだまだ距離感がある」と述べつつ、「企業の賃金・価格設定行動に変化の兆しがみえている」と指摘した。

日本に、物価も賃金も上がる状態が定着するのか。それとも一過性で低インフレに戻るのか。

今はその分岐点にあるが、日銀はこれまで、先々の物価が予想より下振れする可能性をより大きく見ていたのに対し、今回、上振れの比重が増している。

物価・賃金の上昇を「安定的・持続的」と見なし、金融政策が正常化に向かうとすれば、金利を上げていくときにネックとなるのが、現行の長短金利操作(YCC)で10年長期金利に変動幅の制限を設けていることだ。

2022年来の円安インフレの局面で、実に厄介な代物であることが浮き彫りとなった。

長短金利操作が導入されたのは2016年。黒田東彦前総裁が追加緩和として短期金利の誘導目標をマイナス0.1%とした影響で、長めの金利までマイナス圏に沈んだ。これでは金融機関による長期の運用に支障をきたすため、これを引き上げるべく、長期金利(10年)の誘導目標を0%程度とした。

皮肉なことに、日銀が目指す「2%物価上昇」が遠い間は、この長短金利操作は事なきを得ていた。

金利差が招いた円安インフレ

ところが、2022年に入ると様相が変わる。欧米でインフレが加速し、中央銀行は急ピッチで利上げを進めたのだ。

日本でも物価上昇率が2%を超えて上がっていったが、黒田前総裁は、自身が進めてきた超緩和政策を堅持。日米金利差の拡大を材料にドル円相場は一気に円安に振れ、円安がさらなる物価高を招いた。秋には1ドル=152円まで円安が進んだ。

長期金利を市場に委ねていれば、変動幅上限の0.25%を超えて上がるはずで、「YCC修正は必至」と見込んだ海外ヘッジファンドが国債をカラ売りした。金利上昇で価格が下がった後に買い戻すことで利益を得る狙いだ。日銀は変動上限である0.25%の利回りで10年国債価格を買い支えようとする無制限の「指し値オペ」で金利を抑え込んだ。

政府が円買いの為替介入を行う事態に陥った末、日銀は12月の決定会合で突如、長期金利の変動上限を0.25%から0.5%に拡大。日銀は建前としては「為替不介入」だが、円安対応が主だと目される。



「YCC修正は突然にならざるをえない」――。識者たちは、10年金利の上限をめぐる攻防が繰り広げられる前から指摘していた。

というのも、事前に上限引き上げや撤廃の予想が生じれば、国債保有者たちは金利が上昇(債券価格が下落)する前に売り抜けようとするため、日銀は決定会合までの間、変動幅の上限を守るには買い続けざるをえなくなるからだ。

しかし、2022年12月のこのサプライズは、2つ目の「失敗」となった。

黒田総裁は変動幅拡大を「(緩和の)出口への一歩ではない」と言い張ったが、市場では正常化に向かうとの観測が高まり、10年金利は新たな上限値の0.5%まで上昇(債券価格は下落)。日銀は海外カラ売り勢を追い払うため、カラ売りに使われる国債の貸し出しを絞った。


今回、日銀は10年国債金利を抑え込む上限を「1%」に引き上げ、1%での「指し値オペ」(買い注文)を毎日入れる方針だが、決定文に「現在の金利情勢のもとでは応札は見込まれない」と注記しており、1%に達するとは想定していない。

待ち望んだ「買い場」の到来

というのも、利回りが0.5%を超えて上がっていけば(債券価格が下がれば)、「待ち構えた国内投資家が買ってくる」(債券ストラテジスト)。

2022年12月のYCC変動幅拡大、そして植田総裁の就任で、国内投資家は政策正常化に伴う金利上昇への期待を抱いたが、なかなか動かない植田総裁にしびれを切らしかけており、今回変更していなければ資金を別の投資先に振り向けていたという。

市場で長期金利は、先々の金利予想を基に価格形成され、経済情勢への見通しが反映される。国債金利のような日銀の上限がない10年スワップ金利(OIS)もこの1年間、1%を超えていない。10年国債が1%を記録したのは2012年が最後だ。

1%の手前まで金利が上昇(債券価格が低下)すれば、国内投資家にとって魅力的な金融商品となり、買いが入ると見込まれる。

とはいえ、市場取引では想定外に金利が急騰することもある。「指し値オペ」の1%は「念のためのキャップ(上限)」(植田総裁)、いわば「抜かずの宝刀」という位置付けだ。0.5~1%の間でも、日銀は完全に手を引いて市場に委ねるのではなく、急な動きや投機的な動きの際には抑制する。

今回の政策変更では、金利変動にストッパーを設けつつ、長期金利を市場メカニズムへ戻す一歩を踏み出した形だ。

日銀は、いまや国債市場で発行残高の半分を保有し、長期金利をコントロールしている。その副作用の1つとして、市場の取引ノウハウが失われていることが問題視されていた。

植田総裁は会見で「(YCCを放棄せざるをえなくなる)手前で、対応の余地を広げるために動いた」と述べたが、それは市場がウォームアップする時間を設けた面もあるだろう。

「次の一手」まで半年以上?

今回の日銀の決定のあいまいさには、相反する意図がうかがえる。緩和の正常化を視野に、長期金利のコントロールを緩めるという布石を打ちつつ、実際の正常化にはまだ距離があると念を押している。

正常化の次の一手は、マイナス金利の解除と目される。

今回の長期金利の上限引き上げが影響を及ぼすのは10年前後の金利であるのに対し、短期金利をマイナス0.1%から引き上げれば全年限にわたって金利引き上げとなり、正真正銘の「利上げ」だ。日銀が目指す物価上昇について「賃金の上昇を伴う」と銘打つ以上、2024年の春闘で賃金上昇を確認できるかどうかは1つのポイントとなる。

次の一手が打たれるのは、早くても半年以上先となりそうだ。

(黒崎 亜弓 : 東洋経済 記者)