光秀の追手と落武者狩りに襲われながら、家康一行はどうやって伊賀を抜けるのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第28回「本能寺の変」では、乱世を鎮めた後の世を憂う信長と、その信長を討てず光秀に先を越された家康の感情のぶつかり合いが話題となりました。第29回「伊賀を越えろ!」では、光秀の追手と落武者狩りを退けながら織田軍因縁の伊賀の地をひた走ることに。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

1582年6月2日、織田信長は明智光秀によって本能寺で自害に追い込まれました。光秀は、信長の嫡男・信忠も自害に追い込みます。織田のツートップを倒し、次なる狙いは織田の最大の同盟国を治める徳川家康です。

家康は、酒井忠次ら主だった重臣たちと安土に招かれた後、堺見物に出かけていました。本来のスケジュールではその後、京で信長と落ちあう予定でしたが、堺から京に向かう途中で旧知の茶屋四郎次郎から本能寺の変を聞きます。首謀者が光秀と知った家康は、逃亡は不可能と考え一度は京の知恩院で自死を考えますが、酒井忠次、本多忠勝らの説得により三河への帰還を決意しました。

本能寺の変を知った家康の決断

まず家康一行は、宇治田原から甲賀、そして伊賀を抜けるルートでの脱出を考えます。幸いなことに明智軍は、信長親子の首の探索で家康を追撃する初動にわずかな遅れが生じていました。しかし明智軍より厄介なのは「落ち武者狩り」です。

信長の死により、その敗残兵は近隣の農民や土豪たちの獲物となります。討ち取れば武具や財産を奪え、位の高い武将を討って首を差し出せば、さらに恩賞に預かれるからです。おそらく光秀は、すぐに家康の首に懸賞をかけたのでしょう。

ちなみに光秀自身、このわずか十数日後に秀吉との戦いに敗れて小栗栖で落ち武者狩りに遭い、命を落とすことになります。

ということで家康一行は明智軍だけでなく、近隣の農民や土豪、野盗のたぐいにまで命を狙われることとなりました。まともな兵もおらず、鎧兜などの武具や武器もないままの脱出行です。まさに時間との戦いでした。そのなかで、1人だけ別行動を取った者がいました。それが武田から寝返り家康の家臣となった穴山信君です。

逸話では、信君は家康たちの移動速度について来られず次第に遅れ、完全に別行動になったところを落ち武者狩りに遭って命を落としたとされています。しかし、それは宇治田原での出来事でした。出発してすぐの場所ゆえ単に遅れたとは考えにくく、信君は明智側に降伏しようとした可能性があります。

信君は百戦錬磨の武将であり、状況的に見て百に一つも家康が脱出できるとは思えなかったのではないでしょうか。信君は家康の家臣になったとはいえ、まだ1年も経っていません。明智側に降伏して家康の脱出ルートを教える代わりに、自分の身を保証してもらう考えがあったとも考えられます。しかしながら、その前に殺されてしまいました。はからずも自らの死で、この脱出行の難しさを証明することになったのです。

こうして家康にとっての本能寺の変は、神君三代危機とされる「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」を超える「伊賀越え」につながります。

最大の難関となった伊賀の地

家康一行は、宇治田原から甲賀に入りました。甲賀では多羅尾光俊という土豪が宿を提供してくれます。甲賀を抜けると伊賀に入り、そこから伊勢湾を抜けて三河というルートを設定していました。しかし、この伊賀が最大の難関でした。

伊賀は、1571年と1581年の二度にわたって織田軍と交戦しており、とくに1581年の天正伊賀の乱では、伊賀に住む9万人のうち非戦闘員を含む3万人が虐殺されました。当然、伊賀の人々は深く織田を恨んでおり、その恨みは同盟国である徳川にも及びます。したがって伊賀は、避けて通るべき地でした。

このときの家康一行に服部半蔵がいましたが、彼は先祖が伊賀の出というだけで、忍者でもなく伊賀に旧知の者がいたわけでもありません。この伊賀越えにあたって大きな役割を果たしたのは、伊賀者ではなく多羅尾光俊や山口定教といった甲賀者でした。とくに山口定教は加太峠で一揆に襲われ、絶体絶命になった家康一行を救っています。

これら甲賀者の働きで無事に伊勢湾に出ることができた家康一行は、三河へと帰還しました。ちなみに伊賀越えで家康を助けた功績で伊賀者が徳川家に召し抱えられたという逸話は「伊賀者由緒」という書物に書かれており、伊賀者の御庭番編入を進めていた八代将軍・徳川吉宗が伊賀者の地位向上のために仕掛けたものだという面白い説もあります。

史実としては、伊賀者が家康のために目覚ましい働きをしたという事実はありません。

こうして家康は無事、三河に帰還しました。本能寺の変から3日後のことです。家康は、すぐに光秀討伐に動き出します。しかし徳川家は軍備を解いており、すぐには出陣できませんでした。それでも家康は慌ただしく出陣を準備します。

ちなみに、このタイミング(6月5日時点)で羽柴秀吉は、本能寺の変を知って毛利と講和を結び、その条件である高松城主・清水宗治の自害を見届け、いよいよ京に戻ろうとしていました。

距離的には家康のほうが近いですが、すでに戦時中の大軍を率いている秀吉のほうが有利です。秀吉のすさまじさは、最大の障害となる毛利との講和を成し遂げたことにあります。もしも毛利が、この講和をのまなければ、信長の仇討ちという最大の功績は家康に転がり込んだでしょう。


家康を取り逃したことを知った明智光秀の心境は(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

一方の光秀はというと、味方を増やすべく朝廷への工作や近隣大名への説得に明け暮れていました。しかし、こちらは恐ろしいほど結果が出ていません。それどころか最大の身内であり理解者であるはずの細川幽斎、忠興親子にすら見限られるありさまでした。

光秀は戦う前から、すでに敗れてしまった状態といえます。あとは誰が、その光秀と戦うかが問題だったのです。

光秀の敗因は「首」と「家康」

光秀の最大の敗因の1つは、信長の「首」を確保できなかったことです。秀吉は本能寺の変の後、畿内の信長配下であった諸将に、

「上様ならびに殿様いずれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」

と信長・信忠親子が生存しているという旨の書状を送っています。

受け取った側が信じたかどうかはわかりませんが、信長の首がない以上、その可能性は無視できません。畿内の諸将は、状況を確認するために光秀の加担に慎重にならざるをえなかったのでしょう。せめて信忠の首だけでもあれば状況は違ったかもしれませんが、光秀は信忠の首も得られませんでした。それゆえ、わずかではあっても信長・信忠親子の生存が真実味を帯びてしまったのです。

そしてもう1つの敗因は、家康を取り逃したことです。

6月5日には、家康は三河に戻って軍備を整え始めますから、その一報はすぐに光秀および畿内の諸将には届いていたはず。家康は織田最大の同盟国であり、何より、この時点で徳川軍はどこにも対決する敵を持っていませんでした。


つまり徳川は、全兵力を明智討伐に注げるということです。史実では、秀吉が中国大返しを成功させて光秀を討つのですが、冷静に戦力を分析すると、家康が出陣すれば光秀に勝ち目はなかったでしょう。家康を取り逃した時点で、光秀の運命は定まっていたといえます。

畿内の諸将が光秀に味方し、その政権に参画する決意を促すには、信長の首を得て、その首をさらすことにより信長を殺したことを確定させ、さらに家康を討ち取り、フリーハンドの最大兵力を持っている徳川家を混乱に陥れることが必要だったのです。

信長の首を得られなかったことで、わずかでも信憑性の確認の時間的猶予を与え、さらに家康を討ち取れず、最大勢力、徳川軍の来襲を確定させたことで畿内の諸将は光秀を見かぎりました。

その意味では、秀吉を天下取りに導いた立役者は家康といえるかもしれません。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)