たどり着いたのは「パラリンピアン、一ノ瀬メイ」という生き方 自分自身と向き合うことから始まった引退後の生活
パラ水泳日本代表として2016年リオパラリンピックに出場した一ノ瀬メイさんは、逃してしまった東京パラリンピック閉幕後の2021年秋に突然、現役引退を発表した。本格的に水泳を始めた9歳から数えて競技歴15年とはいえ、24歳という年齢での引退には、「まだできるのでは」と惜しむ声も大きかった。
引退してからの生活、想いなど語ってくれた一ノ瀬メイさん
そのあとの活動が注目されるなか、引退発表からほどなくして、さまざまな場面でアクティブに活躍する一ノ瀬さんを見かけるようになった。
「引退後の取材で肩書を聞かれるようになって、私は『ただの一ノ瀬メイ』で、やっていけたらと思っているのですが、そこはすごく悩みます。それに、自分を表すときに『肩書は2つまで』って指定されることが多いので、ひとつはパラリンピアンと答えます。1回でもパラリンピックに出た人はパラリンピアンなので、それはずっと変わりません。
もうひとつは、その時々で変えていて今やっていることや、これからやっていきたいことを答えていますが、最近は、お話をする機会が多いので『パブリックスピーカー』と答えています」
今は、興味のあることや伝えたいことがたくさんあると言い、そのひとつが現役時代からずっと発信している、「社会から『障害者』というカテゴリーをなくしたい」という思いだ。身体の特徴や病気が、障害なのではなく、そうした特徴などのために生きにくさや不便さを感じさせる社会環境が障害を作り出していて、社会が変われば、「障害者」という言葉もいらなくなくなるはずだ。そういう活動に貢献したいとずっと思ってきた。
きっかけは9歳のときに、パラリンピックを目指して本格的に取り組むためにスイミングクラブの競泳コースに申し込もうとしたところ、生まれつき右肘から下がないことを理由に入部を断られてしまった。以来、「同い年の両手両脚のある子よりも速く泳いで、認められること」がスイマーとしての強いモチベーションとなり、水泳は勇気や自信を与えてくれて、自分を守ってくれる手段となった。
パラで日本一になり、日本記録も塗りかえ、当時史上最年少の13歳でアジアパラ競技大会に出場してメダルも獲得した時、「自分のための水泳は終わった」と思ったと同時に新たな目的を見つけた。
「私が経験したように、社会にはまだ、見た目だけで障害者とカテゴライズされて、居心地の悪い思いをしている人たちがたくさんいるはずだ。そんな人たちの分まで、私が思いを届けられるように、もっとよい結果を残さなければ」
水泳に精一杯取り組み、日本記録を何度も塗りかえ、パラリンピアンにもなり、発信力も身につけた。水泳引退後は、その思いを伝える場がトークショーやインタビューなどに変化したというわけだ。【言葉よりも伝えられる手段】
スイマー時代から憧れていたモデルの仕事も今は積極的にこなしている。ファッション雑誌や広告で、自身のような片腕が短い人を見たことがなかったからこそ、自分が出ることで、「人と違うことも美しい」「一人ひとりにユニークな美しさがある」といったことを伝えられるのではないか、という思いもある。
学生時代にはスピーチコンテストで全国優勝の経験もあり、言葉を使った発信はたくさん行なってきた。たとえば、「障害者」のような、できれば使いたくない言葉も使わなければならなかったり、言葉を使うことで誤解や分断が生まれたり、言葉だけでは伝えられることに限界があることも感じていた。
泳ぐ姿で相手に何かを感じてもらえたように、モデルも言葉を介さずに表現で伝える手段として興味を持ち、言葉よりもインパクトがあるのではないかと思っていた。そして、次のステップとして、「モデルをやりたい」と言い続けていたら、少しずつ声がかかるようになった。
そのモデルで手応えを感じた瞬間がある。
「私の短いほうの右手にも、ちゃんと爪があるのですが、ある現場のメイクさんが気づいてくれて、『じゃあ、塗ろうよ』って、当たり前のようにマニュキュアを塗ってくれたんです。その光景を俯瞰して見た時に、『新しい風が吹いているんじゃないかな。なんか、よくない?』って、うれしくなりました」
パラアスリートや障害者モデルの特集ページに自分が出るのは障害者のために用意した枠を自分が埋めているだけでしかない。そうではなく、誰がやってもよい仕事に、自分が入ることにすごく意味があると思っている。
「私がナチュラルに、そこに存在する。それが理想としてきたことなんです」
さまざまな現場で、さまざまな顔を持ちながら活動するなかで、肝に銘じていることがある。「自分自身を犠牲にした活動は、長続きはしない」だ。
そう強く思ったのは引退後だった。アスリートとしての目標や日々のルーティンはもちろん、スイマーというアイデンティティも、所属先も仕事も、パラスポーツというコミュニティさえも一気に手放して、残ったのは自分自身だけだった。じっくりと向き合い、これから何をベースに人生の選択をしていこうかと自分に問いかけた。
「選手時代には周囲の期待に応えようとか、みんなの声を代弁しなければとか、さまざまなものを背負っていた気がします。すべてを手放したことでラクになって、改めて自分の価値観やこれから持ち歩いていきたいことを、一つひとつ精査しました」
アスリートとしては、未来の大会に目標を置き、そこから逆算した今日を生きてきた。「4年後にメダリストになるために今日、自分がとるべき選択肢は何か」と考えるだけで、「その日、自分が何をしたいか」には一切、目を向けてこなかった。だからこそ、たどり着けたアスリートのレベルもたしかにあったが、ひとりの人間としては欠けているように思えた。
自分を差し置いて、人のために活動するのは限界がある。だから、自分の声を聞く時間を持ち、本当は何をしたいかをしっかり理解する。それができてこそ、自分の言葉と行動がつながり、思いもしっかり伝えることができるはずだと考えた。
「今、一番興味があるのは心身の健康をどうやって保っていくかという、私自身のウエルビーイングです。自分自身が健康で余裕がないと、人に余裕をもって接することはできません。自分の心地よさこそが、持続可能なパワーなのだと思うようになりました」
近年、環境問題に興味を持ち、そこからヴィーガン(完全菜食主義)に出会い、今はライフスタイル全般にビーガニズムを取り入れるようにもなった。「すべてが通じているなと思います」
引退発表から1年も経たない昨年7月、パラ陸上大会に初参加し、100mを14秒97でフィニッシュした。プールからグランドへの鮮やかな転身は周囲を驚かせ、「現役復帰か」と話題になった。
だが、本人は「陸上は趣味」ときっぱり。中学時代は陸上競技部に所属していたし、以前からパラ陸上の第一人者である山本篤(新日本住設)に勧誘されていたのはたしかだが、走り始めたのはあくまでも「体を動かしたいな」という思いからだ。
引退まで、結果がすべての世界でやってきて、日本記録保持者になり、パラリンピックにも出場し、「自分なりに、もう極めた」。その代償としてケガや心身の不調も経験し、今は少しずつ健康を取り戻しているところであり、もう自分をないがしろにしたくない。
陸上は健康的な生活のための一手段であり、ただ純粋に楽しむために走りたい。もちろん、タイムが伸びればうれしいから、そのための努力は惜しまない。山本作成のメニューにそって地元の競技場で週1〜2回練習をしているが、メダルや世界を目指すつもりはない。
「スポーツには競技性を極めることから、ただ楽しさを追求する形まで、いろいろな取り組み方があっていい!」
こうして日々発信したいことが、増えていく。
「パラリンピアン、一ノ瀬メイ」はこれからもありのまま、思うままに進み続ける。
Profile
一ノ瀬メイ(いちのせ・めい)
1997年、京都府出身。先天性右前腕欠損症。日本人の母とイギリス人の父を持つ。一歳半から水泳を始め、史上最年少13歳でアジア大会に出場。2016年リオデジャネイロパラリンピックでは8種目に出場し、現在も7種目の日本記録を保持。現役引退後の現在はモデル、スピーカー、俳優業などさまざまなシーンで活躍の幅を広げている。