「心優しき二刀流」「ヤクルト村上を抑えた男」「奄美大島初のプロ指名」…2022年ドラフトの知られざる逸材秘話

2022年10月20日に行われたドラフト会議で、126名の選手が指名された。彼らの魅力は身体能力だけではない。アマチュア選手の取材で全国を駆け回ったライターだけが知る魅力をお伝えする。

広島2位は心根の優しい青年だった

広島東洋カープの2位で「内田湘大(しょうだい)」の名前が告げられた瞬間、私は「おお!」と声をあげてしまった。

身長183センチ、体重89キロの右の強打者。打っては高校通算36本塁打、投げては最速149キロの「二刀流」として活躍し、本人は「プロでも二刀流をしたい」と希望を語っていた。

しかし、ドラフト会議当日の内田は「内野手」としてアナウンスされた。広島は内田の内野手としてのポテンシャルを高く評価しているのだ。

内田は群馬県北部にある利根商で高校生活を送っている。出身は長野県南佐久郡だが、中学では隣県・群馬の西毛ボーイズでプレー。高校は利根商に進学し、寮生活を送った。

ただし、中学時代の内田は「人数がいないので試合には出してもらっていましたけど、不動のレギュラーという感じではありませんでした」と本人が振り返るように、ごく平凡な存在だった。注目されたのは県選抜にも選ばれた双子の兄・耀晴(ようせい)。兄弟揃って利根商に進学したが、湘大への期待はさほど大きくなかった。

湘大は筋肉のつき方や機能まで研究しながら自主トレに励み、高校で見違えるように進化する。兄の耀晴が「湘大はみんなが寝ている間にも陰で努力していました」と証言するほど、もともと努力家だった。肉体が成長するにつれ湘大のパフォーマンスは劇的に進化していった。

そして、その魅力は身体能力だけではない。ドラフト直前時期に利根商に取材でお邪魔した際、挨拶を交わすなり内田は筆者にこう申し出てきた。

「よかったら、これ着てください」

季節の変わり目の群馬県北部の北毛地域は、寒風が肌を刺す。そんな場所に能天気にも半袖で訪れた筆者を見て、内田は自分のウインドブレーカーを差し出したのだ。「遠くから見て、寒そうだなと思って」と内田はこともなげに言ったが、高校生が初対面の中年男にできる気遣いではないだろう。

ただ才能に任せてプレーしてきたエリートではない。広い視野に立って自分を見つめ、誰よりも磨き上げたからこそ、内田湘大はドラフト上位指名を受けるほどの選手になった。

なお、5歳下の弟妹である凰貴くん、茉鈴さんも双子だという。内田がプロの世界で活躍できれば、そんな珍しい家族構成もきっと話題になるだろう。

4度目の正直で指名を受ける

ドラフト会議で指名された瞬間、選手もチームメートも、恩師も家族もみな歓喜の雄叫びをあげるものだが、それは「指名されないかもしれない」という恐怖と向き合っているからだ。実際に何度も「指名漏れ」を経験する選手もいる。

東北楽天ゴールデンイーグルスから2位指名を受けた小孫竜二(鷺宮製作所)は、高校時代から数えてなんと3回の指名漏れを味わっている。

楽天からドラフト2位指名を受けた小孫竜二。一時はストライクが入らない低迷期を経験するも、昨年から急激に巻き返してきた

小孫は速球派右腕として知られ、高校3年夏には遊学館高のエースとして甲子園に出場。九州学院高と対戦し、当時高校1年生だった村上宗隆(現ヤクルト)をノーヒットに抑えている。

同年秋に初めてプロ志望届を提出したものの、ドラフト指名はなし。創価大に進学して腕を磨いた4年後も、同期生であり、ライバルでもあった杉山晃基(ヤクルト)、望月大希(前日本ハム)はドラフト指名を受けながらも小孫は指名漏れ。

「杉山と望月がみんなに胴上げされていたんですけど、僕はその輪に入れなかったんです。この光景を絶対に忘れない。この悔しさを絶対に忘れないと誓いました」

小孫は当時をそう振り返る。それでも、鷺宮製作所に入社して2年後の昨秋もドラフト指名されることはなかった。

同社の岡崎淳二監督から「ドラフト上位指名される投手になろう」と励まされて迎えた今季は、春先から好調をキープ。最速155キロの剛速球とスライダー系の変化球を武器に、アマチュア最高峰の舞台で実力を発揮し続けた。社会人野球最大の祭典である都市対抗野球大会・東京二次予選では3戦3勝、防御率1.45の快投。最優秀選手賞を受賞し、チームを第一代表に導いている。

ところが、好事魔多し。多くのスカウトが訪れる都市対抗本戦では、新型コロナウイルスに罹患したため欠場。今年も指名漏れの悪夢がよぎったが、プロスカウトは小孫の実力を十分に把握していた。

来年は26歳になる「オールドルーキー」だけに、1年目から即戦力として結果が求められる。だが、何度も壁にはね返されてきた不屈の男は、弱肉強食のプロの世界でたくましく生き抜いていくに違いない。

奄美大島から初のプロ野球選手

福岡ソフトバンクホークスが4位で指名したのは、高校生左腕の大野稼頭央(おおのかずお、大島高)だった。奄美大島の高校生がドラフト会議で指名されるのは史上初。奄美大島は歓喜に包まれた。

ソフトバンクから4位指名を受けた大野稼頭央。最速146キロの快速球とカーブ、縦のスライダーなどを武器にする

大野は奄美大島東部の龍郷町で生まれ育っている。幼少期は「集落全体を使って鬼ごっこをしていた」というダイナミックな遊び方をし、小学生時には週7日間のうち3日を野球、3日をソフトボール、1日を体操に通うなどアクティブに過ごした。

大野が幸運だったのは、「島の高校からプロ野球選手を出したい」という夢を抱く島の指導者に出会えたことだった。島内にある龍南中学の軟式野球部では、外部コーチの朝(あさ)哲也さんから投球フォームについて熱心に指導を受けた。

「稼頭央はもともといいフォームで投げていましたが、体重移動のことを少し指摘しただけですぐに修正できる。すごい才能の持ち主ですよ」

そのしなやかな身のこなしから柔軟性があると思われがちだが、実際には大野本人が「両脚は90度くらいしか開きません」と言うほど体は硬い。それでも、限られた可動範囲を最大限に生かす投球フォームの原型は、中学時代につくられた。

そして、朝さんは「体づくりを頼む」と次なる指導者にバトンを渡している。大島高で外部コーチを務めていた奥裕史さんだ。朝さんと奥さんは旧知の仲であり、奥さんは大野の両親の結婚式の実行委員長を務めたほど大野家と縁が深かった。

奥さんが経営する自動車整備工場には、夜間に大島高の選手有志が集まり、トレーニングに励んでいる。身体操作性を高めつつ、効率よく野球のパフォーマンス向上につなげるトレーニングは、いつしか選手間で「奥トレ」と呼ばれるようになっていた。中学時代は120キロ台の球速がやっとだった大野は、「僕のストレートが140キロを超えるようになったのは、奥トレのおかげです」と証言する。

「奥トレ」に励む大野稼頭央。廃材を重り代わりにした棒を巻き上げるメニューでリストを鍛えた

中学時代は身長170センチ、体重50キロと細かった体は、高校3年夏には175センチ、65キロにまでたくましくなっていった。大野は「九州ナンバーワン左腕」と呼ばれるほどに急成長する。数々の公立校を成長させてきた塗木(ぬるき)哲哉監督の手腕と選手のパフォーマンスが噛み合い、大島高は2021年秋の九州大会で準優勝。選抜高校野球大会に一般枠で選出されるほどの大躍進を見せた。

朝さんは言う。

「今まで奄美の子が本土の高校へ渡ってプロになる例はありましたけど、島内の公立高校からプロになった例はありません。奄美の公立校からプロ野球選手を育てるのは、僕と裕史の夢だったんです」

プロ野球選手が一人誕生する背景では、多くの人々の夢や祈りが交錯している。今年のドラフト会議で指名された126名にも、それぞれに晴れの門出を祝福し、誇らしく思う人々がいるはずだ。このなかから、一人でも多く近未来の大スターが現れることを祈りたい。

取材・撮影・文/菊地高弘