新兵器の脅威に抗え! いまや幻の艦載火器「機砲」はなぜ急速に普及し消えたのか
現代的な艦艇の黎明期、いまではまったく見られなくなった「機砲」なる独特の機構を備えた火器がありました。現代の機関砲とも異なるこの火器が各国の艦艇に普及した背景には、とある「新兵器」の登場も関わっています。
旧日本海軍艦艇も装備した「機砲」とはなんぞや?
明治、大正期の日本海軍軍艦の武装要目を見ていると、「機砲」という兵器が出てきます。日清戦争に参加した「三景艦」として知られる松島型防護巡洋艦にも「37mm5連装機砲」2基が搭載されていたとされています。
結論から言いますと、「機砲」とは口径の大きな弾丸を連射できる砲のことで、機関砲と同義語です。ちなみに旧日本海軍では口径40mm未満は機銃、40mm以上を機関砲と区別していました。現代の自衛隊では口径20mm未満か以上かで区分しています。
現代の機関銃や機関砲は、引き金を引けば手動での再装填を必要とせず連射ができる「自動火器」とも呼ばれるものです。しかし、上述の「松島」などの時代の「機砲」は、この定義でいうと自動火器ではありません。軍艦に搭載された機砲とはどんなもので、なぜ必要とされたのでしょうか。
アメリカ陸軍兵器博物館に展示されている4連装ノルデンフェルト機砲(画像:Greg Goebel、Public domain、via Wikimedia Commons)。
1873(明治6)年にスウェーデンの発明家であり実業家でもあるヘルゲ・パールクランツが、レバーを前後に動かして銃の装填と発射を連続して行える機構の特許を取ります。これは、後に製造会社の名をとって「ノルデンフェルト式機関銃」と呼ばれます。軍艦に装備されたのは比較的口径の大きいもので、これが日本海軍の言う「機砲」です。
機砲の砲身は1本型、2本型、4本型が基本でした。操作は指揮官と射手のふたりひと組で行われ、指揮官が照準、角度調整、旋回といった砲の制御を担当し、射手がレバーを動かして装填、射撃、排莢を行いました。弾倉は砲身の上部に設けられて重力で砲身に送られます。射手がレバーを前に押すと装填し、もう一段押して発射、レバーを引いて排莢という手順を繰り返します。
発射速度は、単発ずつ1発ずつ手動装填するよりは早いという程度で、現代の機関砲とは違います。連射というよりは、多砲身から同時に発砲する斉射というイメージになります。
イギリス海軍のノルデンフェルト機砲。右が砲の制御、照準をする指揮官、左が発射機構レバーを動かす射手(画像:Public domain、via Wikimedia Commons)。
陸戦では大きく扱いにくかったのですが、船体に固定できる艦載武器としては実用に耐え、大口径にできた上に発射速度が安定していたので、各国で採用されました。日本海軍が軍艦を国産するようになると、4連装型のノルデンフェルト式機砲を輸入するようになります。
機砲が必要に迫られたワケは「水雷艇」
機砲が狙ったのは当時の新兵器「魚雷」で武装した「水雷艇」です。
日露戦争当時、日本海軍の機砲を操作する様子(画像:『日露戦役海軍写真帖第一巻』市岡太次郎 等撮影/小川一真出版部/国立国会図書館 所蔵)。
19世紀までの海戦といえば、木造帆船に大砲を積み、砲撃戦で敵艦を破壊し、そして艦首の尖った衝角(ラム)を敵艦にぶつける体当たり戦法が主流でした。やがて敵弾を防ぐために主要部分を装甲した艦が造られ、それを打ち破ろうと大砲も大口径化します。装甲艦が登場した頃は、大砲の威力不足で命中させても致命傷にはなりにくく、時代が逆戻りしたように衝角をぶつけ合う体当たり戦の方が有効だったという時期もあったようです。
それでも当時の装甲艦は、重くなりすぎるという理由から、敵弾が当たりにくい水面下の船体に装甲は施されていませんでした。そこを狙ったのが魚雷です。
1868(明治元)年にイギリス海軍が魚雷を実用化し、1879(明治12)年にはこれを主武装とする水雷艇が生まれます。当時の魚雷は直進性が悪く、命中させるにはなるべく目標に接近する必要があり、小型ですばしこい水雷艇で敵艦に肉薄したのです。なお、当時の「水雷艇」は蒸気機関を主機とする艦艇であり、後に登場する、内燃機関で水面滑走するいわゆるモーターボートの「魚雷艇」とは別物です。
1906年7月に撮影された、アメリカ海軍の水雷艇、USS「モリス」(画像:アメリカ海軍)。
日清戦争の黄海海戦で損傷を追いながら、辛くも沈没を免れた清国の戦艦「定遠」も、日本海軍水雷艇の夜襲で致命傷を受けて、後に自沈へ追い込まれています。戦艦、巡洋艦の大口径砲では水雷艇を追い切れず、連射できる火器のニーズが高まっており、そこに登場したのが機砲というわけです。
自動火器の登場とその発展
連射火器といえば、1861(文久元)年に発明された「ガトリング砲」は有名です。多砲身で大きく重く扱いにくく、手動でクランクを回して再装填が必要でしたので、これも自動火器とはみなされません。軍艦に搭載されたこともあります。ただ構造上、口径を大きくできなかったのが難点でした。
実用性が高い現代の自動火器の元祖とも言うべきマキシム機関銃が発明されるのは1884(明治17)年で、それ以降はノルデンフェルト式機砲もガトリング砲も姿を消します。
進化したバルカン砲の子孫、近接防御火器システム「バルカン・ファランクス」(画像:アメリカ海軍)。
20世紀に入ると、すばしこい水雷艇よりもっと厄介な航空機という敵が加わり、軍艦には対空用の自動火器搭載が必須になります。現代では20mm多銃身機銃と小型レーダーを組み合わせ、近距離で対艦ミサイルなどを全自動で迎撃できる「バルカン・ファランクス」のようなシステムが搭載されています。前述の1861年に発明されたバルカン砲をルーツとしますが、その子孫は20mm砲弾を毎分3000発から4500発(毎秒50発から75発)で撃ちだすバケモノになりました。
そして21世紀に入ると、肉薄してくるゲリラの小型艇や無人艇を追い払うため、人力で扱う小口径の自動火器が再び搭載されるようになっています。