「気仙への恩返し」三陸道開通で人の流れが変わる中、直売所の食堂を担当する″かめちゃん″ - 渋井哲也
※この記事は2018年03月29日にBLOGOSで公開されたものです
宮城県との県境である岩手県陸前高田市は東日本大震災に伴う大津波で多くの死者・行方不明者を出した。今後の津波対策として市中心部を盛り土し、防潮堤を建設している。訪れるたびに、道が変わっており、まだまだ復興途上だ。
同市米崎町の直売所「産直はまなす陸前高田」では、地元の人と交流をする食堂を始めている。「家庭の主婦の延長」という料理をそろえており、地元ならではの食事が楽しめる。また、曜日ごとに、食堂の担当を変えようとする試みも行われている。より一層、交流の輪を広げるのが狙いだ。
水曜担当は、キッチンカーでコーヒー販売をする「かめちゃん」
食堂の水曜日担当は、隣接する大船渡市を拠点にしている「ケセン元気玉プロジェクト」代表の小野寺明子さん、通称「かめちゃん」だ。普段はイベントなどが開かれると、キッチンカーでコーヒーほか、気仙地域の食材、特産品も販売している。
食堂でのメニューとしては、500円の定食で焼き魚などが食べられる「気仙・海ランチ」や、鶏肉などが入った「気仙・山ランチ」を考えているという。また、海音コーヒーが350円、かめちゃんコーヒー(キリマンジャロブレンド)が200円で、開店時間は10時から17時までを予定している。
「かめちゃん」は、震災前に所属していたケセン語劇団、つまり、気仙地域(大船渡市、陸前高田市、住田町)の言葉を伝える劇団での役名だった。覚えやすいということで日頃から役名で呼び合った。
「かめちゃん」は、震災当日、陸前高田市内で働いていた。地震が大きかったため、母親と二人暮らしの「かめちゃん」は、大船渡市上山の自宅が心配になり帰宅した。国道45号線を超えて津波が押し寄せたが、自宅は無事だった。自宅から津波を見ることになり、関わっていた人が亡くなった。
「午前中はポカポカ陽気だったけれど、津波の後は雪が降っていたのを覚えています」
震災後、ケセン元気玉プロジェクトをつくる
被災後は、地元のために何らかの活動をしようと思っていたため、、市内の飲食店のオーナーがおにぎりを配ったことがきっかけで始まった配食ボランティア(さんさんの会)を手伝っていた。5月5日、たまたまホームセンターに立ち寄ったところ、コーヒー豆とケトルを見つけた。「これならできる」と「ケセン元気玉プロジェクト」を立ち上げ、まったくの個人で、その日から避難所にいる人たちにコーヒーを配った。
16年7月10日からはキッチンカーを使ってコーヒーなどの販売も始めた。軽トラ市やイベントにも出店している。気仙地域の食材や特産品も販売しているため、季節によってもメニューが変わる。3月現在のメニューは、陸前高田市の果汁100%りんごジュースを使用した「HOT(ホット)りんごジュース」、同市の肉屋直送のホルモンを使用した「煮込み」、ジオパークをイメージした「でっかいさんますりみ汁」などを用意している。
「キッチンカーは、食の元気玉としての発信を目的としています。そのため、三陸ケセンの食材や特産品もメニューに取り入れています。海音コーヒーや柚子塩、おきらいの塩などは、私が料理に使っていますし、欲しい人には売値で販売もしています。また、震災後に復活したパン屋さんのホットサンドも売っていますね。キッチンカーは、小さいけど、走るアンテナショップを兼ねている、と勝手に思っています」
「かめちゃん」は、様々な取り組みをしているが、そのエネルギーの源は何か。
「父親は、私が生まれる前に胃がんになり、亡くなったのですが、母親は『一人ぐらいなら、自分だけでなんとかなる』と産むことを決意しました。母親への恩返しをしたい。ひいては、母親を育てた、気仙地域へのお恩返しがしたい。震災後に、自分の生活を選ぶために気仙を出て行った人もいます。住めないかもしれませんが、ぜひ、遊びに来てください」
「はまなす」は震災遺族が運営
「はまなす」を運営する戸羽初枝さんは震災遺族だ。2011年3月11日。中学校の卒業式の前日。戸羽さんは三男が卒業とあって、美容室に行っていた。お弁当を買って自宅に戻ると、次男と三男がいた。しばらくすると、地震が起きた。
市役所の職員だった長男は、指定避難所である市民会館に市民を誘導していたところ、津波にのまれたという。遺体は内陸の竹駒駅から1キロ付近で見つかった。長女は市の学校図書相談員(学校司書)で、避難誘導の手伝いをしていたが、市民会館の瓦礫の下から発見された。弟は陸前高田民主商工会の事務局長だった。当日は確定申告のための街宣をしていた。津波が押し寄せたときには、市民を市役所の屋上にあげたというが、本人は行方不明となった。そんな戸羽さんは「陸前高田東日本大震災遺族連絡会」の発起人でもある。
陸前高田では市庁舎も津波にのまれたため、内陸部に仮説の市庁舎がある。新市庁舎をどこにするのかが議論されていたが、17年6月、現在の高田小学校の場所に建設されることになった。同小学校は19年夏に移転することが決まり、また大型商業施設が近いことから、市街地の活性化が狙いだった。
東日本大震災では高田小学校まで津波が押し寄せた。市側は防潮堤の整備や土地のかさ上げ事業などで、同震災クラスの津波が来ても浸水しない、としている。しかし、浸水域だったことには変わりはないと、戸羽さんは新市庁舎の位置には賛同しない。
三陸道が開通。人の流れが変わる。「どんな商売ができる?」
そんな中で、戸羽さんは「はまなす」の運営に携わる。国道45号沿いにあるため、これまでは多くの観光客に目立つ位置だった。しかし、三陸道が陸前高田ICから吉浜IC(大船渡市)まで開通。当面は無料区間ということもあり、交通の流れが変わっていく。
「釜石方面に向かう人は45号を使わず、(店の前を)通らなくなりました。一方で、震災後、陸前高田市内にはイオンスーパーセンターができたため、大船渡市方面からは人が来ます。客層が変わりました」
「はまなす」には様々な人が訪れ、交流の場にもなっている。食堂は曜日ごとに担当を変えることで、様々な市民に利用してほしいと願っている。そのため、 「はまなす」では、1)惣菜加工、2)仕出し、3)飲食営業、4)菓子製造、5)瓶詰め加工、6)梱包・鮮魚の販売、7)臨時営業ーの許可を取得した。
「地元の人で、自分の加工場を持っていればいいが、そうではない人はなかなか独立が難しい。お店を失った人が再開するために使うのもよし、趣味でやってみたい人でもいい。志はあるが拠点がなかなか見つからない人もいる。過疎の街が被災して、震災後は外から人が集まった。復興期が終われば、これからまた過疎に戻る、そんな場所でどんな商売ができるだろうか、と試行錯誤しています」
「はなます」では、このほか、隔週日曜日には、整体師にもスペースを貸し出している。また、月一回程度、理学療法士による健康相談も行なっているという。