活動開始当初は「福島差別も…」 震災7年目で東京の拠点「番來舎」を閉鎖するベテランママの会の軌跡 - 渋井哲也
※この記事は2018年03月24日にBLOGOSで公開されたものです
東京電力・福島第一原発から約23キロにある、福島県南相馬市原町区。JR原ノ町駅近くに学習塾「番場ゼミナール」がある。塾長・番場さち子さんは、原発事故後から、若い母親や子どもたちの相談や愚痴、不安を聞いてきた。震災後は「ベテランママの会」を作り、大学に進学した子どもたちの相談拠点として都内に「番來舎」を立ち上げた。しかし震災7年を機に、「番來舎」を閉鎖する。
「ベテランママの会」は、震災直後の傾聴ボランテイアから始まった。当初は番場さんが一人で行っていたが、同級生にも声をかけ、広がっていった。対象は若い母親、子ども、高齢者。まもなく、任意団体「ベテランママの会」がスタートした。14年9月からは、東京都内で「番來舎」を作り、定期的に震災や放射線に関する勉強会も開いてきた。
東京拠点の閉鎖の理由は...
震災から7年目となる今年、「番來舎」を閉じるが、その理由は運営資金の問題と、番場さんの体調がよくないことだ。
「ずっと赤字で運営していました。税理士からは南相馬市の学習塾は撤退をしたほうがいいと言われていました。塾の場所は20キロ圏外ですので、東京電力からの補償はありません。南相馬市の子どもの数も増えないのが現状です。そうした状況下、昨年9月に入院しました。体力をなくし、精神的にも疲れました。やめたら何かが見えてくるかもしれない」
そんなとき、母子支援をしているNPO法人から「南相馬市で子ども支援をするのなら寄付したい」との申し出があった。もちろん、その寄付だけでは運営は難しいが、「ゼロよりはよいが、継続しなさいという神の思し召し」と番場さんは思った。あと3年で震災から10年。その年に番場さんは60歳にもなる。「ベテランママの会」が10年経てば、続けるのか、潔くやめるのかの結論が出ると考えている。
活動のベースは学習塾を通じた傾聴
番場さんの活動のベースは、学習塾で培った傾聴だ。震災前、“あの先生のところに行くと、進学したい学校に合格する"と言われるなど「番場ブランド」があったという。面談を何度も重ね、子どもの適正、家庭環境なども考慮するなど、きめ細かな指導を行ってきた。いつしか、「面談の番場」「泣かせの番場」と言われるようになった。
「60分の面談は当たり前でした。だからこそ、(受験の)失敗がなかったんです。子どものことや夫のこと、ママ友のこと、生い立ちのことを聞きますので、『やっとわかってくれる人がいた』と言われることもありました。震災前からもともと傾聴していたんです」
「番場ゼミナール」に入会していた子どもはピーク時で130人。震災当日にも114人が在籍していた。番場さんのニックネームは人気漫画になぞらえ、「ごくせん」(極道先生の略)。震災当日も、新入会の親子が面接にくることになっていた。
「小規模校の教頭先生からは『うちの学校よりも多い』と言われたことがあります。まさに、小さい学校のようでした。あの日も、中学校の卒業式。教え子が卒業するので、式に出ていました」
地震が起き、津波が発生。原発事故が起きた。第一原発から20キロ圏内は避難指示が出された。「番場ゼミナール」がある原町区は屋内退避の指示となった。学校や保育園、幼稚園、老人福祉施設は避難することになった。原発の状態がどうなるかわからない中、多くの住民も避難し、番場さんも伊達市に避難した。塾生は0になったが、一人の教え子が戻り、その子のために「番場ゼミナール」を再開した。
南相馬市の人口は11年3月11日の時点では7万1561人。18年2月28日現在では市内居住者は5万4984人。震災から1万6577人減少した。小中学校の在籍数は10年度には小学校が4028人、中学校は1985人だったが、震災が起きた11年度には、小学校が1252人(10年比、31%)、中学校が819人(同、41%)に激減。その後、徐々に回復し、17年度は小学校2158人(同、54%)。中学校1265人(同、64%)となっている。
活動を評価され、「復興の光大賞」も受賞
住民たちは放射線のことをよく知らない。ともに学ぶために、南相馬市立総合病院に勤務する坪倉正治医師を招いて勉強会を始めた。それを形にした冊子『福島県南相馬市発 坪倉正治先生の放射線教室』の日本語版は5万部作成。英語版も1万部作った。こうした活動が評価され、15年2月、「日本復興の光大賞」(NPO法人トルコ文化交流会主催)を受賞する。
「受賞理由には、都内の拠点『番來舎』の設立もありました。大学で東京に引っ越しをした教え子の不安を傾聴したことから始まったのです。彼らは福島県出身ということで、「放射能、感染らないよね?」と言われたりしていたんです。当初は毎月、東京に来て相談に乗っていました。でも場所は喫茶店で、隣とテーブルが近い。話を聞いていると、隣の人が『え?』という反応をしていたんです。それを見て、その子が傷ついていました。泣くことができれば、気持ちが落ち着くことがある。静かに話ができる場所は欲しいと思ったんです」
「福島の人が出入りすると、物件の価値が下がる」
14年9月、東京都内に「番來舎」を設立する。不動産屋を回っていたとき、当初は「福島県南相馬市に住んでいる」「正しい福島をわかってくれるサロンを作りたい」と正直に話をしていた。そのためか、オーナーが鍵を貸してくれず、内見ができないことが多かった。
「ある日、南相馬市から福島駅へ行き、東京まで新幹線に乗り、内見をしようと思っていたんです。すると、不動産屋から電話があり、『ご案内できなくなりました』というのです。ここまで来てしまったので、東京まで行き、不動産屋に飛び込みで入ったことがあります。この頃は名刺を貰ってもらえず、初めて出会った人に名刺を渡そうとすると『結構です』と言われたりしたんです」
この頃、不動産屋からは、「福島の人が出入りすると、物件の価値が下がる」「福島の人が、放射能を落として行く」などと言われた。放射線に関する無理解からの『福島差別』を実感する日々。そんな中で、ようやく見つけた物件だった。
「南相馬に帰ろうか」「仕事がうまくいかない」などの相談
18年3月までの3年半で、ベテランママの会として、東京と福島県南相馬市の拠点で相談に乗ったのは約1200人。18年入ってからは、月平均20人前後の相談を聞いている。
「一昨年からは、40~60代の男性の相談者が多くなった。話す場がないんでしょうね。同性にはなかなか弱音を吐けないから」
どんな相談が寄せられるのだろうか。
「東京では、南相馬に帰ろうかどうか悩んでいるというものが多いですね。一方で、南相馬では、仕事がうまくいかないとか、お金がない、ということが多いです。多くの人が、報道が少なくなったためもあり、原発事故を忘れられていると思っています。震災の日が近づくと、被災者としての痛みを共有したい人が増えます」
東京の拠点から撤退するが、南相馬市の現状をどう見ているのか。
「南相馬市立総合病院は経済的にも、人材的にも危機的です。4月からは常勤医が減ってしまいます。小児科医がいませんので、相馬市の公立病院へ行くことになります。医療を充実させないと、若い人は不安で暮らせません」
「必要なところに必要なお金をかけて欲しい」
県や国に対しては要望があるのだろうか。
「行政は書類仕事ばかりで、新しい判断がなかなかできない。例えば、広野町の高野病院が困窮しているのに、改善する手立てはない。必要なところに必要なお金をかけて欲しいです」
「国には嘘はやめて欲しいですね。現状では、弱者にしわ寄せがいく。南相馬では去年、自殺や未遂が多かった印象ですが、報道されないケースも多かった。先生たちも疲弊しているし、不登校も多い。例えば、15人学級するとか、TTにして、教師2人体制にするとか、特別な配慮をして欲しい」