※この記事は2018年03月23日にBLOGOSで公開されたものです

土屋礼央の「じっくり聞くと」。今回はアニソン界の大御所、影山ヒロノブさん。

16歳の時にロックバンド『LAZY』のボーカル“ミッシェル”としてデビューして、アイドル的な人気を博したものの、わずか4年で解散。

ソロになってからはうまくいかない日々が続き、年収7万円というどん底も経験した影山さんがアニメソングに転向して大逆転!

去年めでたくデビュー40周年を迎え、記念本『ゴールをぶっ壊せ 夢の向こう側までたどり着く技術』を出されたばかりです。

紆余曲折を経て、アニソン界のプリンス、いまや長老として歌い続けてきた理由とは?

土屋礼央が今回も「じっくり」聞いています。

大人気アイドルだった10代の頃


土屋:この本を読むまで影山さんがロックバンド『LAZY』で活動されていたとは知りませんでした。

影山:大阪時代、LAZYはハードロックを目指していたんです。でも東京に出てみるとアイドルで売れてしまいました。そんな葛藤を経て解散したあと、ドラムの樋口(宗孝)とギターの高崎(晃)はデビュー前からやりたかったことに立ち戻って「LOUDNESS」として世界的に成功を収めました。

解散して、ひとりになって、さぁここから自分のスタイルを作るぞ!思っていた時に、前の事務所、バースデーソングの山岸社長から『お前の歌って、女に媚びてるわ。特にお前のバラードは媚びまくり!』って指摘されたんです。

与えられたラブソングをファンの女の子たちにウケるように歌っていたことに気づかされました。だからアニソンを歌うようにはなってからは男ウケのする、ズドンとくる歌い方ができるシンガーになりたいと願うようになったんです。20代の半ばくらいのことでした。

土屋:僕たちRAG FAIRも最初はアイドルのようなスタートでした。そこから次にどうすれば息の長い活動ができるか考えました。事務所が売り出した時の最初の印象と自分たちのやりたいこととのギャップに、みんな悩みますよね。

影山:俺たちの時代も事務所が強かったんです。事務所が考えた「うまくいく方法」はこっちなんだから、成功してから好きなことをやればいいと言われました。でも今では最初からやりたいことをやった方が良かったと思っています。それで生き残れるかどうかは自己責任。

年収7万円でも歌うことは止めなかった

土屋:本の帯にもありますけど「年収7万円」なんて時代があったんですか!?

影山:歌だけで食べられるようになったのはだいぶ後のことで、37歳まで工事現場でアルバイトをしていました。あの頃の友達と会うと、歌っても全く金が入ってこないのに、よく歌手をやめなかったねと言われます。

年収7万円には自分でも驚きましたよ。そんな年収でも歌い続けるって、俺って本当に歌が好きだったんだと気付かされましたね。

土屋:ソロになられてからは年間100本ものライブをこなす、そこにもびっくりしました。

影山:とにかく歌う場所が欲しくてノーギャラでライブハウスを回っていた時期があったんです。それが年収7万円のころ。一番大変だったのは、30日間ずーっと毎日ライブがあった時。

どんどん声が出なくなっていき、10日目には喋ることもできなくなるんだけど、それでも毎日歌い続けていると、20本目くらいのライブでまたモリモリモリ~っと盛り返して、最後の2~3本では今までよりも太い声がでるようになる(笑)。

土屋:今、太い声が出せているのは、30日連続ライブのおかげ?

影山:過酷でしたが、やってよかったと思っています。歌い方や声の質、ロックの感覚といった、人から教わるものではないことが、ライブの本数を重ねていくうちに身についていったんです。昨日までできなかったことが、今日一生懸命歌えば、明日にはできるかもしれない。そう信じてやってきました。

作詞作曲を初めたのはグループ解散後

土屋:本の中に『遠い夢のための今日の一歩』とあって、グッときました。LAZYが解散してから、作詞作曲を学び始めたそうですが、かなり勇気と覚悟が必要だったのでは。

影山:ソロになってダメになった時に、LOUDNESSで成功した元メンバーの高崎をよく思い浮かべていました。高崎は10代の頃から採用されなくても詞と曲を書いていたんです。そういう地道な努力を続けてきた高崎と、やらなかった俺。違いが解散してすぐに出てしまいました。俺もライブを続けていくうちに、自分の音楽性を周囲に示すのに、自分で曲を作らなければいけないと初めて気づいたんです。

土屋:自分発信の曲じゃないと、聞く人の心に思いが届かないという一文も、なるほどと思いました。

影山:アニソンって、俺たちが曲を作ることを誰も求めていません。それでも手作りした方が僕らの真心を一番添えられる形になると信じているんです。自分が有名になれた『ドラゴンボールZ』の主題歌『CHA-LA HEAD CHA-LA』は与えられた楽曲ですけど、俺が参加しているアニソンシンガーのユニットJAM Projectでは手作りのアニソンをみんなに、というのをモットーにやっています。

土屋:そういう心情はラジオに近いと思います。ひとの心の中に長く留まるのは、やはり言葉。思いがどれだけこもっているのかだと思います。僕は「ラジオは企画じゃなくて人(ニン)で行け」を座右の銘としています。

影山:今はたくさんの人にチャンスがあって、アニソン界も多様化しています。昔だったらスターだけに注目が集まりましたが、独特な才能も評価されるようになってきたんです。

例えばLinked Horizonはドイツ語で詞を書く、マニアックすぎるグループなんですが、NHKの紅白歌合戦に出場しました。あの人たちは売れる前からずっと同じ形。そこにお客さんがついて、東京国際フォーラムを何日もいっぱいにしたんです。


今や自分たちにしかできないことをやった者が勝つ時代です。だからJAM Projectでも自分たちにしかできないものは何かと、常に考えています。

時代とともに進化を続ける事が重要

土屋:僕ら、RAG FAIRは2002年にデビューしたんですけど、音楽業界にとって00年代は不遇の10年と言われています。そういう時代でも影山さんたちはアニソンというコンテンツにあぐらをかかず、常に進化をし続けたからこそ今があるんだと思いました。

影山:アニメーションの進化はすごいんです。1970年代のゲッターロボやマジンガーZは今のアニメよりのん気で画もそんなにリアルじゃない。

俺がアニソンシンガーになった90年代のアニメや特撮ものは、70年代のものに比べて、よりパワフルで、よりリアルで、よりドライブ感の効いた映像に変わっていました。オープニングを飾るアニソンシンガーも、映像の進化に合わせてドライブ感を表現できるロックシンガーが求められるようになってきた時期でした。

だからJAM Projectのメンバーは全員ロックシンガーなんです。そんな時代の流れに乗って全速力で走ることができた自分たちは、幸せなミュージシャンだったと思います。

その昔、アニメは一部のマニアックなファンのものでしたが、2000年代以降は誰でも好きなアニメの1つや2つはあってもおかしくない時代になった。『ONE PIECE』が好きと言ってもだれも「キモいやつ」とは思わないでしょ?。カラオケだってアニソンで盛り上がるんです。

土屋:アニメが市民権を得るようになってきて、アニソンシンガーになりたい!という人も増えてきたんじゃないですか?

影山:昔の仲間がESP学園(音楽学校)の校長をやっていて、トークショーに呼んでもらうことがあるんですが、漠然とアニソンシンガーになりたいっていう生徒さんが最近多くなってきました。

そういう子には必ず言います、「アニソンっていうジャンルはないんだよ」って。まずは自分というものを持たなければ、アニソンシンガーにもプロのシンガーにもなれない。

『ドラゴンボール』で孫悟空の声をやっている野沢雅子さんは80代でもバリバリです。なぜ野沢さんがずっと現役でいられるのかというと、代わりがいない唯一無二の声優だから。すべての職業に言えることですが、自分しかできないことを探すのが、一生のテーマになるなのではないでしょうか。

人生に大切なことは建設現場で学んだ

土屋:失敗についても赤裸々に書かれていて、影山さんを身近に感じることができました。どん底だったと、いつから言えるようになりましたか?

影山:工事現場のアルバイトを辞めてからでしょうか。JAM Projectのファンは若くて、多感な時期を過ごしています。ファンレターなどで悩み相談をたくさんもらうんですよ。そういう年頃の子たちに、俺の話をすることで、武道館で好き放題やっているおじちゃんも悩みを乗り越えてきたんだな、じゃぁ自分も頑張ろうと思ってくれたら、すごく幸せだと思います。

土屋:影山さんは懐が広くて何でもOKのように感じますので、僕もつい相談したくなります。若い頃から頼りにされるタイプでしたか?

影山:昔はもっとおとなしくて口下手で、ネガティブシンキングでした。

土屋:そういうトンがっている時代があっての今でしょうか?

影山:ずっと同じでいられる人はいないんじゃないかと思います。成長することを社会が要求しますから。大事なのはそこから逃げないこと。

今は声も大きいし何でも言えますが、自分は元々そういう人間ではなかった。建設現場でアルバイトをして親方もやりながら家族を養っているうちに身についたんだと思います。

実は音楽業界より先に建設業界で成功したんですよ(笑)。あの業界は人を引っ張っていかなければいけませんから、自分も元気じゃないとダメなんです。そこで頑張ったから変わることができたのかもしれません。

土屋:僕、今41歳なんです。今の若い人は優秀な人が多くて、そんな中でこんな僕が…と不安になります。僕よりも年上なのに若い人を相手にしている影山さんのパワーはすごい。キラキラしている。

影山:JAM Projectを続けていく中で、若い人を無視しちゃいけないと感じているんです。ロックもすごく進歩しているけど、進歩はいつの時代も若い人たちが作っている。それを敏感に察知してJAM Projectにもエッセンスを取り入れたいと思っています。

EDMが流行れば、音楽をやっている娘と一緒に聞いて「お、かっこいいね~」なんて言いながら参考にしているんですよ。

土屋:それは意図的に?

影山:意図してやっているうちに楽しくなってくるんです。実は今月から皿を回すDJを習いに行くんです。下北沢のバーにチアキくんというオールドスタイルのDJがいて、彼に『58歳のカゲさんが突然皿を回しだしたら、みんなビビるんじゃね?』と言われたので、挑戦してみようかなと思いました。

土屋:そのパワーの源は?

影山:楽しいから!アンテナを張り巡らせながら、それでいて好き嫌いには正直です。 JAM Projectでの活動は、体力的に限界だと思ったら後輩に任せる日がいずれくるでしょう。若くてパワーのあるシンガーが出てくれば、一緒にやろうぜと誘って、俺たちが常に進化し続けてきたマインドを受け継いでもらえたら嬉しいです。

土屋:出る杭と手を結ぶ。育てる感覚ではないんですね。

影山:歌は教えて出来るものではない気がしています。好きだから貪欲に獲得していくもの。でも俺はまだまだガンガン歌っていきますよ。

去年、40周年だったので本を出して、今年の2月14日には40周年の記念のアルバムを2枚出したんです。1枚は『影山ヒロノブBEST カゲちゃんパック~君と僕の大行進~』。

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もう1枚は自分のアコースティックライブと合いそうなアニソンのカバー曲を月に1回発表して、レコーディングしたバージョンをダウンロードでリリースしてきました。それが12ヶ月分たまったので、『誰がカバーやねんアニソンショー』というアルバムになりました。

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そのアコースティックライブ、4月と5月に東京と大阪でやります。

土屋:アニソン界の神はよく働きますね。ロックをやり続ける姿も、ずっと青春してる感じがして、我々男の子は憧れます。

影山:振り返ればラッキーでした。40年も続けてこられたのは大阪から一緒に上京してきたLAZYのキーボード(井上俊次)が所属レーベル、ランティスの社長をやってくれたり、どん底の時には金はくれないけどライブをやらせてくれた山岸社長がいてくれたり。ターニングポイントで助けてくれる友達がいたのが大きかったと思います。

土屋:何が一番やりたいのか自問し続けた結果、現在のポジションにたどり着かれて、すごいです。

実は僕、今日対談するのは恥ずかしいと思っていたんです。今の自分にとって歌が一番でなければいけないのに、ほかに仕事があることで自分の本心をごまかしていて。だから全てに前向き、貪欲な影山さんのお話を恐縮しながら伺っていました。これからは背筋を正して生きていきます、今日はありがとうございました!

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プロフィール

影山ヒロノブ
1961年大阪府生まれ。アニソンシンガー、作曲家、編曲家。77年、ロックバンド「LAZY」でデビュー。バンド解散後、ソロに。85年、アニメ・特撮ソングに出会い、以後アニソン界を代表するシンガーとなる。2000年、JAMProjectを結成。活動を世界に広げながら、作詞、作曲もこなす「アニソンアーティスト」としてその音楽を届けている。アルバム「影山ヒロノブBEST カゲちゃんパック~君と僕の大行進~」「誰がカバーやねんアニソンショー」が好評発売中。4月30日に大阪Music Club JANUS、5月17日に渋谷duo MUSIC EXCHANGEでアコースティックライブを開催。
・影山ヒロノブオフィシャルサイト

土屋礼央
1976年生まれ、東京都国分寺市出身。RAG FAIR として2001年にメジャーデビュー。 2011年よりソロプロジェクト「TTRE」をスタート。ニッポン放送「土屋礼央 レオなるど」、FM NACK5「カメレオンパーティ」などに出演中。
・ TTREアルバム「ブラーリ」
・土屋礼央 オフィシャルブログ
・Twitter - 土屋礼央 @reo_tsuchiya