原発事故で避難した唯一のサテライト・相馬農業飯舘校の演劇部が問いかけるもの - 渋井哲也
※この記事は2018年03月21日にBLOGOSで公開されたものです
東日本大震災に伴う、東京電力・福島第一原発事故によって、県立高校10校が避難を余儀なくされ、「サテライト校」として位置づけられた。しかし、18年3月現在でも残っているサテライト校は相馬農業飯舘校だけとなっており、福島明成高校(福島市永井川)の敷地内にプレハプの仮校舎として存在している。
同校の演劇部は「ーサテライト仮想劇ーいつか、その日、」で地区・県・東北大会を突破し、全国大会で優良賞・舞台美術賞に輝いた。その演劇部も今年3月で全員が卒業した。東京公演で最後の舞台となった2月、筆者はその演劇を見に行き、原発事故の“別の姿”を見ることができた。
福島市へ避難した飯舘校
原発事故発生時、北西の風が吹いていた。そのため、その方角に位置していた飯舘村は、事故から2ヶ月後に計画的避難区域とされ、全村避難が決まった。村役場も福島市役所飯野支所に移転した。同原発から約40キロ付近にあった相馬農業飯舘校は県教育センター(福島市)に一時移転。その後、福島明成高校敷地内の仮校舎で運営されている。
当初、サテライト校は10校あった。警戒区域や緊急時避難準備区域、計画的避難区域となった双葉高、浪江高、浪江高津島校、富岡高、双葉翔陽高、小高商業高、小高工業高、原町高、相馬農業、相馬農業飯舘校だ。
このうち、原町高と相馬農業は元の校舎に戻った。双葉郡の双葉、浪江、双葉翔陽、富岡の5校は、ふたば未来学園高校の開校とともに生徒の募集を停止した。また、小高商業と小高工業は統合し、小高産業技術高校として再出発した。
福島市出身者が大半となり、学校が抱える課題が変わっていく
そんな中で、飯舘校演劇部は、サテライトとして福島市内にあることの課題を演劇に託した。近い将来、飯舘村の校舎に戻るのではないか。すでに、飯舘村出身者よりも福島市出身の生徒が多くなっている中で、生徒一人ひとりが「飯舘村の校舎へ通うのか」「定時制や通信制に転校をするのか」をイメージするものになった。
こうした思いが「ーサテライト仮想劇ーいつか、その日に、」の背景にある。舞台は校舎2階にある「選択教室」で実在の場所だ。劇には反発するハルカ、従うサトル、ほとんど喋らずリコーダーをふくユキ。飯舘村出身のイクミ先生...の4人が登場する。
同校で演劇部をつくったのが西田直人教諭。震災前、飯舘村の存在のことはそれほど意識していなかったという。「遠いところ」という印象があったくらいだ。
「隣の福島明成高校で勤務していたとき、飯舘村出身の生徒が何名かいました。飯舘校サテライトのことも同じ敷地なので当然知っていました。(事故による避難は)大変だなと思いますが、福島第一原発から遠くに住む我々にはわかりにくい。県北地方で働いている多くの教員には、あまり関係ないという気持ちではないでしょうか。通常の業務もありますので、震災は過去のものという意識もあったんです」
「自信を持てない子がいる」演劇部を作ったわけ
そんな西田教諭が同校に赴任したとき、なぜ演劇部をつくったのか。
「飯舘校の現状発信と文化部の生徒を育てたいという2つの気持ちがあったんです。飯舘校に限らず、文化部は運動部に比べてマイナーな存在。文化部で活動している自分に自信を持ってない子がいる、という印象でした。自分も高校時代は美術部で絵が好きでした。『自分の仕事は運動部の指導ではない』と感じていました。教育実習のとき、美術部の生徒が進路相談をしてきたのです。そのとき、文化部での生徒の指導なら自分の経験が活かせると思ったんです」
相馬農業飯舘校は校名に「農業」とはあるが、設置されている学科は「普通科」。その中で、自然科学コース(実質的に農業科)と、生活福祉コース(実質的には家政科)に2年生から分かれる。現在は、福島市にあるため、飯舘村出身者が少なく、大半が福島市とその周辺の出身だ。
劇中、「飯舘村に行ったことはない」「通ったことはある」というセリフが出てくる。生徒の多くは村に縁がなく、どんなところかわからない。その意味では「村の校舎」に戻るという想定には特別な意味は感じられない。
一方で、中学時代に不登校で成績が下位で、市内の全日制高校には入ることが難しい子どもたちの受け皿にはなっていた。つまり、そうした子どもたちの「居場所」としての意味を持っていた。このように受け皿として機能していたが、サテライト校としての意味は薄れてきていた。
「中学時代のつまづきなどから『普通の』高校に入るのが難しそうな子どもたちがこの学校に来るんです。そうした子どもたちの受け皿にはなっていますが、村の学校としての特色が曖昧になっていました」
「勝負できる芝居を作りたい」
そんなときに「演劇部をつくろう」と生徒に声をかけると、役者がやりたいという生徒が集まった。最初は3人の部員から始まった。演劇の脚本は西田教諭が書く。文化祭でコント劇を上演し、その実績を元に、学校に演劇部の設立を認めてもらった。そんななかで、脚本を作っていった。
「やはり大会に出るからには、他の学校と勝負できる芝居を作りたい、と思って来たんです。でも、演技の巧さやセットの立派さなどではかないません。ならば、他じゃ絶対できないもの、つまり、飯舘校のプレハブ校舎を題材にしたものを作ろうと思ったんです。飯舘校の現状を発信しなくては、という思いも設立時からありました。」
3月に卒業した生徒たちは震災当時、小学校5年生。福島市出身の生徒たちにとって、地震は実感がある。11年3月11日午後2時46分に発生した地震はマグニチュード9.0。福島市は震度6弱だった。ただ、津波はメディアを通じて見ていた程度。原発事故という意味では、福島市の一部は線量が高くなったものの、どちらかといえば沿岸部からの避難先だった。西田教諭は生徒から何度もヒアリングした。台本は、演じるたびに修正した。
「震災時にはラジオに励まされたので、DJになりたいという生徒もいました。また、あまり喋らない生徒の役は、実際に、あまり話さない生徒が演じています。しゃべらないのであれば、笛をふかせてみようとなったんです」
演劇は評判を呼び、全国大会出場へ
舞台では、ほとんど話さない生徒「ユキ」は、音楽の補習のため、リコーダーの練習をしている。課題曲の「ふるさと」を吹いているが、なかなか上手にならない。それは、飯舘村出身者ではない生徒たちが飯舘校を「ふるさと」として位置付けることへの違和感も象徴していた。
ただ、生徒たちは対話と対立の中で徐々に飯舘校が居場所だったことに気がつく。そんなタイミングでリコーダーが奏でる曲が「ふるさと」として聞こえてくる、という流れになっている。
演劇は評判を呼んだ。生徒たちも自分たちの芝居への思いが伝わったと、喜びを隠せないでいた。全国大会にも出場するまでになった。
「最初はバラバラで、部員同士、話をしなかった。すぐ休むし、意見も言わなかった。自信がなかったんでしょう。あの子たちは、他人から評価され、励まされる経験は今までほとんどなかったと思う。演劇をすることであの子たちは自信をつけていった。でも、まさか県大会、東北大会だけでなく、全国大会まで行けるとは思っていなかったです」
劇中で、元不登校児の「ハルカ」は飯舘校サテライトが好きになっていた。そのため、最後の掃除をなかなかできない。そして思いついたのは、この学校で頑張った証である様々なファイルを中庭に埋め「記念碑」とすることだった。このシーンは、練習では実際に「ハルカ」が中庭まで行き、それを練習場所である2階の「選択教室」から眺め感覚をつかんだ。
母校がなくなることが現実になる
また、ラストシーンで「ハルカ」が、飯舘校サテライトが「村の校舎」に帰ることを想像しながら、こんな台詞を話している。
「だから今から少しずつ傷つけて、心を慣らしておきたい。自分で傷つけて、いつか来る痛みへの、準備をしておきたい」
「ハルカ」にとって飯舘校は居場所だった。「村の校舎」に戻るとなれば、プレハブ校舎は解体される。移転すれば、心の拠り所を失ってしまう。それによって傷つく。その前に、少しだけ自分で傷つけておく。それがこの演劇。筆者はなんとも言えない自傷行為に切なさを感じた。
「こういうことはいつも、私たちの知らないところで急に決まっちゃうから」という「ハルカ」の台詞もあったが、それが現実のものになる。全国大会で演じた後の、17年10月、福島県教委は、飯舘校サテライトの18年度の生徒募集を停止することを発表した。村立で学校継続を検討することになったが、文字通り、母校の校舎がなくなることになった。