※この記事は2018年03月15日にBLOGOSで公開されたものです

今年の1月30日、宮城県警は、東日本大震災後に石巻市日和山近くで発見された遺体について、私立日和幼稚園(震災当時:園児103人、斉藤紘一園長)の送迎バスの添乗員(当時58)と発表した。日和幼稚園を巡っては、津波警報が出ていたにもかかわらず、園児を乗せた送迎バスが海側に向かって出発し、津波や火災などに巻き込まれた園児5人が死亡。控訴審で和解していた。

県警の担当者「遺体を家族の元に返したい」

添乗員の遺体を発見したのは園児の遺族だ。亡くなった園児、西城春音ちゃん(当時6歳)の父、靖之さん(49)に今年1月中旬、宮城県警から電話があり、石巻警察署に出向いた。説明によれば、「焼けた遺体のDNA鑑定や歯型照合はできない。だから身元が確定できない」というのが鑑識の判断だったと。そのため、筑波大学に骨学鑑定を依頼。性別や年齢を判別したという。

「あとは状況証拠だけだった。見つけた場所にたどり着く遺体は限られている。園児が発見された場所から出た遺体で、当初から『私たちは添乗員ではないのか?』と言っていた。警察では、発見した当時の様子を思い出して、教えてほしい、と言われました」

なぜこのタイミングだったのだろうか。

「県警の担当者が今年度で定年のようで、『どうしても遺体を家族の元に返したい』と思っていたようです。これまで係争中だったために、言いにくかったとのこと。でも、私はずっと、裁判とこれとは別だと思っていました。早く言ってくれればよかった」

震災当日、津波警報の中で、幼稚園バスは海側に向かった

一審判決や遺族の説明によると、日和幼稚園は日和山(61.3メートル)の中腹にある。園内に待機するか、避難するとしても、日和山の山頂へ向かえば事故は防ぐことが出来た。しかし、園は園児をバスに乗せ、しかも、津波警報が出ているなかで、海側に向かった。途中で引き取りにきた保護者もいた。そんな中で、「バスを上げろ」と園長から指示を受けた幼稚園教諭2人が、門脇小学校で停車していたバスに追いつく。指示を伝えたが、バスは園児を乗せたまま、動いた。そして津波がくる中、運転手は園児5人と添乗員を残して、園に戻った。

その後、運転手は園に戻ったものの、園長との間で、添乗員や園児の話にはなってない。しかも、子どもを迎えにきた母、江津子さん(43)が「子どもたちは?」と尋ねた際に、バスの運転手は津波被災地域を指差し、「あっちのほう」と言っただけだった。しかし、実際に運転手が逃げ出した場所は別の場所だった。確認もせずに説明したのだ。

子どもたちの死因ははっきりしない。当日の夜、子どもの“助けて”との声が聞こえたという近所の人の証言もある。もし、この声が残された園児だとしたら、園側が早く捜索活動をしていたら....と思うと遺族としてはやりきれない。

火がくすぶる中で遺族が捜索するも、園側はせず

3月14日、再度、靖之さんと江津子さんは園に向かった。この日、ようやく、津波が引いて、捜索できる状況になったが、園側は園児も添乗員も探した形跡はなかった。火災があったために火がくすぶる中で、靖之さんらは捜索を行った。園側が指摘した車内には遺体はなかった。しかし、ゴルフバックがあったので、他の遺族との間でも「園のバスにはゴルフバックは入ってないよね?」という話になった。

近くの別の車を探していると、「幼稚園」と書いてあるワゴン車を見つけた。そこで、焼け焦げた子どもたちの遺体と対面することになる。そして重なるようにしていた大人の遺体を発見した。今回、身元が確認された添乗員のものだった。

「子どもと比べると大きい骨だった。でも、自分としては、子どものほうが大事なのでよく見ていなかった。真っ黒だったが、子どもではなく、大人の上半身の部分だった」

「骨をいかに壊さないようにするのか難しかった」

状況的には、添乗員の可能性は高かった。骨を受け取るかどうかは夫である運転手次第だった。しかし、100%の確証があるわけではない。

「衣類も焼けていましたが、子どもの場合、衣類の一部が付着していました。母親はその日に何を着させていたのかわかります。それに娘の場合、歯型でわかりました。乳歯が抜けていたことが決定的でした。でも、添乗員の手がかりは出て来なかったようです」

こう冷静に話す靖之さんだが、春音ちゃんの遺体を発見したときは必死だった。

「(焦げていたので)骨をいかに壊さないようにするのか難しかった。毛布に包んでそっと抱きかかえて運んだ。このときは幼稚園に対する憎しみしかなかった。だって、自分で、自分の子どもの遺体を発見し、抱きあげるんですよ」

仙台高裁で和解。異例の「前文」がつく

その後、亡くなった園児の遺族は、園側に説明を求めるが、納得できるものではなかった。そのため、園児4人の遺族が「安全配慮義務を怠った」などとして園側を訴えた。仙台地裁の斉木教朗裁判長は13年9月17日、「巨大な津波に襲われるかもしれないと容易に予測できた」「園児は危険を予見する能力が未発達。園長らは自然災害を具体的に予見し、園児を保護する注意義務があった」とした。その上で、その注意義務を怠り、高台から海側にバスを出発させたことで被災を招いたとしていた。

その後、園側は控訴。仙台高裁(中西茂裁判長)では和解となったが、異例の「前文」がつけられた。

「当裁判所は、私立日和幼稚園側が被災園児らの死亡について、地裁判決で認められた内容の法的責任を負うことは免れ難いと考える。被災園児らの尊い命が失われ、両親や家族に筆舌に尽くし難い深い悲しみを与えたことに思いを致し、この重大な結果を風化させてはならない。今後このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべきだと考える」。

その上で和解条項は以下のようになっている。

第1項 幼稚園側は法的責任を認め、被災園児らと遺族側を含む家族に心から謝罪する。

第2項  幼稚園側は、幼い子どもを預かる幼稚園や保育所などの施設で自然災害が発生した際、子どもの生命や安全を守るためには、防災マニュアルの充実と周知徹底、避難訓練の実施や職員の防災意識の向上など、日ごろからの防災体制の構築が極めて重要であることと、日和幼稚園では津波に対する防災体制が十分でなかったことを認める。

こうして裁判は終結した。ただ、遺族側によると、和解の文言に「心からの謝罪」とあるものの、園側が実際に言葉にしたり、線香を上げに遺族宅を訪れたことはない、という。その意味では、運転手だった夫の元に添乗員の遺体が戻ることに複雑な思いがあるのではないか。

「県警のホームページを見ても、いつも、その遺体番号が載っていた。いつまで番号が残っているんだろうと思っていた。遺体が遺族の元に返るのは当たり前のこと。裁判は裁判。遺体が遺族に戻ることとは別。体の一部ではあるが、戻ってくることは嬉しいことじゃないか」

そもそも裁判をしたのは遺族が本当のことを知りたいからだった。しかし、遺族たちは「裁判ではわからなかった」と口々に話している。園側が当時のことをきちんと証言をしていないからだ。その意味では、今回の遺体確認で、交流のチャンスはできたのではないか。

「私たち遺族は、本当のことを知りたくて裁判をした。しかし、今の裁判の仕組みでは知り得ることができなかった。いまだに答えは見つからない。裁判は終わったので、今さら何を言っても影響はないはず。その意味では、本音を言うチャンスができたとも言えます。自分が第一発見者だということは運転手もわかっているはず」

震災から7年。家族にも変化が

震災から7年目。西城家にも変化があった。長女の楓音さん(15)は中学校を卒業し、4月からは高校へ進学する。長男の靖汰くんは(9)は小学3年生になった。さらに、次男の春汰くん(4)が生まれた。もちろん、震災は経験してない。

春音ちゃんが卒業する予定だった小学校では昨年3月、学校長が卒業証書「卒業の日に・証」を手作りし、両親に手渡していた。これは同級生が春音ちゃんのことを忘れないと書いた日記から始まり、交流が始まっていた。

証書の冒頭には、「やさしく吹くそよ風に、温もりが感じられます。目を閉じて耳を澄ませば、軽やかな春の足音が聞こえてくるようです」とある。これは卒業式の式辞であり、「春の足音」は「春音」を意識したものだった。

「卒業式にも招いてくれました。こうした配慮は嬉しかった」(江津子さん)

残された子どもへのケアは不十分

一方、楓音さんは当時のことをどのくらい話せるようになったのだろうか。靖之さんは静かにこう話した。

「まだ喋れないですね。背負ったものが大きかった。自分が生きているのが不思議という感覚を持っているようです。言えないことが多かったんだろう。大人でも理解に苦しむ経験をしたので、楓音もなかなか納得して進めない。私たちは裁判という道を選んだが、残された子どもたちには迷惑をかけたのではないかと思っている、控訴審で和解し、最高裁まで進まなかった理由の一つに、いまを生きる子どもたちにちゃんと向き合いたいというのもあった。今から何年かかるかわからないが、子どもたちと向き合う時間を取り戻したい」

遺族のケア、とくに、きょうだいをなくした子どものケアはいまだに十分ではない。15年9月には文部科学省の「『学校事故に関する調査研究』有識者会議」(座長、渡辺正樹・東京学芸大学教授)のヒアリングも受けた。遺族は「一回のヒアリングでは伝わらない」として、現地視察の要望書も出したが、聞き入れられなかった。そのため、靖之さんは「十分にヒアリングをされていない」と話している。和解にある「日ごろからの防災体制の構築が極めて重要」という指摘は活かされているのだろうか。