フェミニズムの目的は女性の人権抑圧か? - 赤木智弘
※この記事は2018年03月13日にBLOGOSで公開されたものです
池袋マルイで開催予定だった「ふともも写真の世界展」が急遽中止された。(*1)
この写真展では、学生服や水着や私服などを着た女性のふとももの写真が展示される予定だったという。
朝日の記事では、「色んな人が出入りするデパートで開催すべきではない」という声を紹介しているが、ネットで見るに、これはかなり穏当な方の意見である。
主張される中には「女性の体の一部を切り取ることは人格の否定である」「女性の体の一部を性的に切り取ったポルノである」などという意見もあり、どうもフェミニストたちの間では一定の支持を得ているようなのだ。
まず、ハッキリいうと、ふともも写真展で否定される人格など存在しない。
仮に人格否定であるとすれば、それはふともも写真が盗撮であったり、または別の意図をもった写真作品から、被写体女性の許可を得ずにふとももの部分だけを切り出した場合であろう。
しかし、今回の展示の場合は最初から女性に対して「ふともも部分の写真である」「イベントなどで展示、公開される写真である」という説明の上で撮影された写真である。つまり、被写体の人格は了承の上に正しく存在しているのであり、少なくとも被写体である女性の人格は一切否定されていない。
それでも必死に「私たちの女性の人格が切り取られて否定されたのだ!」とフェミニストは主張するが、それはもはや、グツグツ煮えたぎる湯に入った豆腐を見て「私たちの体が釜茹でにされているのだ!」と主張しているに等しい。
もし、自傷癖の女性がいて、せめて写真の中では健康的に見られたいと、太陽の下でノースリーブの服を着て写真を撮影し、フォトショップで腕の切り傷を消すようなことは人格の否定だろうか?
もし、がん治療中で髪の毛が抜け落ちた女性が家族や友人と記念撮影をするときに、撮影のときだけウィッグを被ることは人格の否定だろうか?
被写体の女性が自分の体をどのように撮影されるかを決めることは、彼女たちの権利であり、その権利を彼女たちの人格が行使しているのだ。無関係の他人に「人格の否定」などと騒いでその表現を否定する権利などないのである。
また、フェミニストの中にはふともも写真を「ポルノ」や「児童ポルノ」である、またはそれに類するものであると主張する人がいる。
ポルノというのは、女性の肉体の一部を性的視座で切り出したからポルノであるということであり、さらに展示される写真の服装が制服などの子供を想像させるものであるから児童ポルノである。と、そういうことらしい。
しかし、ふともも写真は明確にポルノではない。法的に見れば、児童ポルノ規制法におけるポルノとは、第二条の第3項に規定されている。(*2)
一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって、殊更に児童の性的な部位(性器等若しくはその周辺部、臀でん部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり、かつ、性欲を興奮させ又は刺激するもの
念のために記しておと「性行為」は性器の挿入そのもの。「性交類似行為」はフェラチオや性器や胸への愛撫、またはオナニーなどの意味である。なので、そうした行為が全く含まれないふともも写真は明確に一、二には含まれない。
すると残るは三だが、三に規定される「殊更に児童の性的な部位」は性器の周辺や尻や胸を指すのであり、ふとももは含まれない。また衣服についてもふともも写真は着衣である。むしろ服が表現の一部であるために「服装が子供を認識させる」などとケチをつけられているほどである。
そして重要なのは「かつ」という接続詞が使われていることである。「かつ」とは「AND」であり、たとえ子供の写真が誰かの性欲を喚起させることがあったとしても、それに加えて児童の性的な部位が露出や強調されていなければ児童ポルノであるとはみなせないと規定しているのである。
逆に、子供がお風呂に入っている写真に、乳首や性器が写っていたとしても、それが性欲を刺激するような内容でなければ、これも児童ポルノにみなされないということだ。
なので、仮にふともも写真に性欲を掻き立てられる人がいたとしても、それをもってふともも写真を児童ポルノとみなされることは、現在の児童ポルノの定義からはありえない。そう言えるのである。
にも関わらず、フェミニストたちはこれを「ポルノ」であると言い張る。
これにはもちろん、ふともも写真を擁護する人たちに対して「ポルノを見たいから文句を言っている」というレッテルを張るという目的もあるだろう。そして僕はさらにもう1つ目的があるのではないかと疑っている。それは「被写体女性を吊るし上げること」だ。
今回のふともも写真の件で、少なくとも被写体女性は、自分がポルノ写真を供給したとは考えていない。そして実際にポルノではないことは先に述べたとおりだ。
しかし、フェミニストたちは何の罪もないその写真を「ポルノ」と呼ぶ。つまりフェミニストの中では被写体女性は「男にポルノ写真を供給した、自分たちの意に沿わぬ女」なのである。意に沿わぬ女性に対して「お前はポルノを供給した」というレッテルを張ることで、必死に見下そうとしているのである。
考えてみれば、「ふとももを切り取った写真は人格を否定している」という論理もおかしい。どうして写真において「人格」が表現されなければならないなどと、フェミニストたちは考えるのか。
フェミニストたちはふともも写真をポルノであると考えている。ポルノ写真に人格を付与する。そんな「ポルノと人格」を合わせて表現する物を、僕は何度かネットで目にしたことがある。
それは「リベンジポルノ」である。
誰だかいまいち分からないポルノ写真の横に、学生証や社員証をならべ「このセックスしている女はこいつです」と提示するやり口で、ポルノ写真と人格を結びつけて目的の女性に社会的ダメージを与えるのがリベンジポルノのよくある手法である。
フェミニストたちはふともも写真の横に学生証や社員証をくっつけて「こいつが男にふともも写真というポルノを取らせる女です」とやりたいのではないか。そうでなければ、いちいち写真に対して「人格を切り取ってはならない」などと主張する理由が存在しないのである。
写真に写った女性は、全て人格をさらけ出さなくてはならない。そんな無意味な抑圧をどうして望むのだろうか?
フェミニストがどうしてふともも写真のような、少し性的でフェティシズムを刺激するような写真を供給する被写体女性を憎むのかは分からない。
ただ、フェミニストの中に本来あったはずの「男女平等を達成する」という目的が、いつしか「男性を憎む」に変質してしまったことは知っている。そこからさらに「男性に性的供給を行う女性を憎む」というように捻れても、全くおかしくはない。彼女たちの論理はすでに男女平等や女性の自由を望むどころか、それを憎むフェイズに来てしまっている。
私たちは男女平等の原則を忘れてはならない。それは男女ともに自分の望むことを望むままに実現できることが最重要だということだ。
レイプを憎むあまり、セックスを楽しむ女性を否定することは、全く男女平等を意識した活動とは言えない。それと同じく、性的搾取を否定するあまりに、フェティシズム感あふれる写真を撮影してほしいと望む女性を否定してはいけないのである。
女性の人権を否定するような、今のフェミニズムの論理から、心ある人は速やかに離脱して欲しい。なにがポルノで、何がポルノではないかをフェミニズムが決めるような考え方が行き着く先は、宗教右派的な、何かしらの権力による性の管理でしかない。
フェミニズムの目的は女性の人権を権力をもって抑圧することでは無いはずだ。
*1:女性「ふともも」写真展、中止 池袋マルイ、疑問の声受け(朝日新聞デジタル) *2:児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(e-Gov)