危機を叫ぶのなら、リスクの定量化を - 赤木智弘
※この記事は2018年02月18日にBLOGOSで公開されたものです
国際政治学者の三浦瑠麗氏が、テレビのバラエティ番組で「北朝鮮のスリーパーセルが日本に潜んでいて、金正恩に何かあったら活動すると言われている」という趣旨の発言を行った。(*1)
このことに対して、多くの人が「根拠もなしに危機を煽った」と反発しているが、三浦は「仮にこのレベルの発言が難しいのであれば、この国で安全保障について議論をするのは正直、不可能です」と答えている。スリーパーセルだかスーパーフリーザだかは知らなないが。ハッキリいえば三浦は危機を煽った以外の何もしていない。
本人の言によれば安全保障の話をしているつもりらしいのだが「スリーパーセルが潜んでいる、首都以外でも。大阪ヤバイ」程度の発言で、まさか安全保障の話をしていると自認できるとは思わなかった。
安全保障の話であるなら、スリーパーセルが潜んでいることによるリスクはどの程度のものかという「リスクの定量化」が必要不可欠だと考えるのだが、そのような話はなかったようだ。
その後三浦はTwitterで参照できる文献を聞かれると「過去の警察白書を通しての記述と大震災時の迫撃砲発見などの事後的な未遂案件で皆さんが納得するレベルでは十分な公開情報がとれます」(*2)と発言している。
しかし、阪神大震災で手榴弾や拳銃が発見されたという報道はあったが、迫撃砲の存在については後年になって書かれた1つの記事以外では全く報じられておらず、その真偽も怪しいのみならず、そもそも迫撃砲があったとしても、それとスリーパーセルとやらとの関連性も全く定かではない。
そもそもスリーパーセルを始めとする北朝鮮の工作員が日本にいたとして、その存在が私達の生活に及ぼす危険性というのはどの程度のものだろうか。そのことも三浦の発言では一切明らかになっていない。
ハッキリしないものをハッキリしないままに「スリーパーセルが存在する」「安心できない」という「危険があるから危険なのだ!」という主張をして、それが一体何だというのだろうか?
このような「危険があるから危険なのだ!」という類の主張を聞くと、僕はある人たちを思い出す。それは東日本大震災後に現れだした「放射能の危険性を叫ぶ人たち」である。
彼らは原発事故で東日本は汚染されたので、東日本に人は住んではならないし、東日本で作られた食べ物を口にしてはいけないと主張した。さらに、数年で東日本に人が住めなくなる。東日本で子供を産めば、奇形の子供があふれることになる。そう騒ぎ立てた。
しかし、結果としては東日本に人が住めなくなることはなく、奇形の子供があふれることもなかった。そして何より空間放射線量も順調に減り続けている。福島第一原発にほど近い、ごく一部の地域を除けば、もはや生活することに対しては全く懸念のない地域となった。
僕はこうした反原発の妄想を当時から批判していたが、その根拠は決して「原発事故が起きても何も問題が発生するはずがない」という正常性バイアスではなく、各地で計測され続けている放射線量であった。
様々な人達が様々な場所で、正しく放射線量を計測したからこそ、今後の放射線量の減衰が予測でき、その放射線量で起こりうるリスクを定量化することができたのである。
一方で、反原発の中には必死に道端の側溝に放射線量計を突っ込んで、意地でも高い値を出してリスクを高く見誤らせようと画策する者もあったが、そうして測定された数字はデータとしては参照されず打ち捨てられた。リスクを定量化する手順に従わぬデータなどは単なるノイズに過ぎず、参照するだけ時間の無駄である。
今回の三浦の「日本には北朝鮮の工作員が潜んでいる。首都もヤバイし大阪もヤバイ」という、何らリスクの定量化を伴わない発言も、どちらも邪魔なノイズに過ぎないのである。
ところが、今回三浦を批判している人の中には「放射能は危険だから危険なのだ」と主張していた人がたくさん含まれている。 ほんの僅かの放射性物質に対して「可能性がゼロとは言えないのだから、なにがなんでも問題視するべきだ」と言っていた人たちが、工作員の可能性に対してだけは「可能性を言及するべきではない!差別だ!!」と喚くことには違和を感じるし、また放射性物質に対しては「量の問題である」と言い、放射性物質の問題に言及する人たちを「福島差別だ!」と批判していた人たちが工作員の可能性に対してだけは定量的な評価もなしに「テロリストがいるのだから、危機感を持つのは当然だ!差別ではない!!」と喚き立てるのも滑稽なだけだ。
いずれの立場にせよその手の主張をしている人たちは、自分たちの都合で煽る危機を選り好みしているだけの邪魔な人たちである。
「リスクはリスクなのだから排除をするに越したことはない」という考え方は、別のところで大きなリスクを産むことがある。震災からの避難は震災関連死を産む。一部の自主避難者の中には、自主避難にこだわるあまりに生活を守りたい夫などと意見が対立。家族関係が破綻し、経済的に困窮する人もいると聞く。
また、今回の三浦の発言では、工作員というリスクを恐れるあまりに、朝鮮半島にルートを持ち、日本に暮らす人たちに対する差別扇動がまかり通る可能性も十分に考えられる。北朝鮮のスリーパーセルが何処かにいるかもしれないというリスクは、果たして朝鮮半島にルーツを持つ人達も大勢暮らす日本社会の平穏をかき乱してまで排除すべきほど大きなリスクであろうか?
リスクの大きさにそぐわない「リスクの排除」は、それ自身がリスクに成り得る。だからこそリスクを定量化し、常にリスクの大きさを認識するための努力が必要不可欠なのである。その努力もなしに「安全保障についての議論をするなど不可能」という他ないのである。
*1:三浦瑠麗氏、ワイドナショーでの発言に批判殺到 三浦氏は「うがった見方」と反論(ハフィントンポスト)http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/12/ruri-miura_a_23359021/
*2:過去の警察白書を通しての記述と大震災時の迫撃砲発見などの事後的な未遂案件で皆さんが納得するレベルでは十分な公開情報がとれます。スリーパーセルというのは単に工作員の形態に着目した呼び方の問題です。もちろんメディア各社できちんと取材されている記者はもっと情報をもらっているはずです。(三浦瑠麗 Twitter)https://twitter.com/lullymiura/status/963993405180100609