アルマーニの制服?貧乏くさいな - 赤木智弘

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※この記事は2018年02月11日にBLOGOSで公開されたものです

 東京都中央区の中央区立泰明小学校が、春から生徒の標準服として高級ブランドのアルマーニが手掛けた制服を採用し、これまでの標準服一式の価格から2倍以上になるとして、問題になっているという。(*1)

 これについての僕の感想は1つである。
「死ぬほど貧乏くせぇ話だな!」
決して「アルマーニの制服がちょっと高いだけでごちゃごちゃ抜かすな!」といいたいわけではない。むしろアルマーニの制服なんて着せようとする側から貧乏臭さがにじみ出てしかたないのである。

 卒業生からはこういう話も出ている。実は卒業生や地元の人達は反対しているが、越境入学をしている人たちが賛成しているという話だ。(*2)

 地元の人からすれば単なる近所の小学校だが、わざわざ入ってくる人からすれば、選んでわざわざ入った小学校である。ブランド性を過剰に求めるのは越境入学側であるというのは、予想の範囲内である。そしてそれがとても貧乏くさいのである。

 貧乏くさささとは、すなわち生活水準の異なる他者を認められず、自分のことしか考えられないさもしい精神から発せられる腐臭のことである。本当に貧しい人からよりも、主にちょっと他人よりお金を多く持っているだけの小金持ちから発せられる。

 考え方がとても貧しく、たかだか金を持っているというだけのことを、自分を肯定し他人を見下すことのできる根拠であると考えてしまう。つまり、小金持ちが自分を「貧乏人とは違う立場である」と自惚れるための形式として、経済力を必要とすることそのものが貧乏くさいのである。

 つまり、アルマーニの標準服が貧乏くさいのは、アルマーニの標準服を制定する理由が「気に入ったから」ではなく、学校からすれば「有名ブランドを利用することで学校の格を上げること」、保護者からすれば「学校の格利用して、子供や自分自身の格を上げること」に利用することでしかないからだ。

 子供自身が選択しているわけでもないのに、子供にアルマーニの服を着せて「うちの学校は子供にアルマーニの服を着せることができるくらい、素晴らしい学校だ」と周囲に発するがごとき所業が、実に貧乏くさいのである。  その貧乏臭さは、「平成30年度からの標準服の変更について」(*3)という、アルマーニの標準服に理解を求めるための文章に、ガッツリ染み付いている。

 読んでもらえれば分かるが、一から十までツッコミどころ満載だ。

 小学校は当然たくさんの未熟な子供が集まるところであるから、問題行動を起こす子供がいるのも当然のことである。しかし校長はこれを「どのような思いや願いがあって本校を選択されたのかが分からなくて、思案に暮れる」などと、自惚れているのが情けない。

 これは問題行動を起こす子供に対する苛立ちであるとともに、同時に子供の親に対するいらだちも見て取れる。アルマーニの制服が「実質、貧乏な家庭を排除するためだ」と勘ぐられるのも当然であろう。

 正直、この校長が公立小学校という場に何を求めているのかが、全くわからない。子供や親たちに対して「泰明小学校にふさわしくあれ」とは思っているが、果たしてどのような子供に育ってほしいかは、全く見えてこない。

 もちろんたかだか制服で「どのように育てたいか」なんてことを語りようなどないのだが、少なくとも校長は「「ビジュアルアイデンティティー」の育成は、これからの人材を育てることに不可欠である「服育」という重要な教育の一環」と、この制服も教育の一環であると論じている。ならば服育の結果の子供像は校長自らが明確にするべきだろう。

 僕には少なくとも、校長は小学生を育てたいとは思っていないとしか考えられない。彼が育てたいのは泰明小学校そのものではないかと疑ってしまう。
 あくまでも泰明小学校を形作る「部品」として、彼がふさわしいと考えるような、おとなしく、大人の言うことに唯々諾々と従う子供を必要としているだけにしか僕には読み解けないのである。

 また、泰明小学校の校長は幼稚園だよりで「水からの伝言」を取り上げている。(*4)
 「水からの伝言」とは、子供に丁寧な言葉づかいをしてもらいたい教育関係者が飛びつくことで有名なニセ科学である。水に「ありがとう」などのきれいな言葉をかけると凍った結晶がきれいになり、汚い言葉だと結晶も汚くなるから、きれいな言葉遣いの大切だという話で、一時期は多くの教育関係者が飛びついた。

 言ってしまえば、水が人の言葉の意味を理解するはずもなければ、凍った結晶の見た目が綺麗だからといって、一体それが何なのかという、実にしょうもない話で、とうの昔に科学的根拠は皆無であると否定されている。

 「水からの伝言」に含まれるのは「丁寧な言葉づかいをするべきだという理想が、美しさという目に見える現実として現れればいい」という、根拠なき欲望である。この欲望に「アルマーニの標準服」という「目に見える美しいもの」を当てはめると、アルマーニの標準服を着ることでスクールアイデンティティが喚起され、泰明小学校にふさわしい子供に育つという、校長の「服育」なる考え方の在り処がより明確になる。もちろんそこには根拠など存在していない。
 根拠などなくとも、信念だけが存在すればそれでいい。こうした考え方はニセ科学と親和的である。

 教育の役割とは、未熟な子供を成熟した大人に育てることである。成熟とは自分で物事を考え、その場にふさわしい行動を取れる人間になるということである。
 それは決して「問題を起こさない、集団に同化した、おとなしい人間になる」という意味ではない。問題を起こさない人間は、周囲との軋轢を恐れて、問題を正さなければならない場面でも問題を解決しない方を選び、集団を間違えた方向に進めてしまう。

 日本の「上」の人間はそうしたおとなしい大人が大好きだし、昨今の風潮は「お上に逆らうな。上に逆らうやつは悪」という風当たりは強いが、そうした人間ばかりを育てることは決して社会のためにも本人のためにもならないと、僕は考える。

 僕は子供たちには、大人の要請にただ従うのではなく、なぜその要請をされているのかを考え、従うべきは従う、反発するべきは反発する。決してブランドや小学校といった、伝統ある他者の格を利用して誇る人間ではなく、自らがそれまで歩んだ紆余曲折をしっかりと誇ることのできる人間であった欲しい。そう思う。

*1:銀座の公立小学校が高額“制服”の導入方針 困惑や批判の声も(NHK)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180208/k10011321171000.html

*2:「アルマーニ」制服で波紋の泰明小学校、卒業生のプロレスラーが明かす導入までの内幕(スポーツ報知)http://www.hochi.co.jp/topics/20180209-OHT1T50115.html

*3:なぜアルマーニ監修の標準服に? 泰明小校長は、こう保護者に説明した(ハフィントンポスト)http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/07/principalletter_a_23355613/

*4:泰明幼稚園だより 平成29年12月号(中央区立泰明幼稚園)http://www.chuo-tky.ed.jp/~taimei-kg/index.cfm/1,230,c,html/230/20171204-103807.pdf