成人した子供の罪に対する責任は親にはない。本当にそういい切れるか? - 赤木智弘
※この記事は2018年02月04日にBLOGOSで公開されたものです
タレントの大竹まこと氏の長女が大麻取締法違反(所持)で逮捕されたとして、大竹まこと氏が謝罪の上、会見を行った。(*1) このニュースに対して、会見前からネットでは「子供とはいえ、成人がやったことに対して、親が謝罪を行う必要はない」という意見が上がっていた。
大竹まこと氏というのは、ちょうど僕の世代にとってはテレビでみる「ヒーロー」の一人である。
僕は子供の頃から、大竹まこと氏が子供や女性タレントをぶん殴って回るような番組を楽しんで育ったし、ゲーム好きとしても「大竹まことのただいま!PCランド」はとても印象深い番組であった。
また、数年前には「大竹まことゴールデンラジオ」に出演させていただいた。
というわけで、僕としては非常に好きなタレントである。
そうした贔屓目を無視したとしても、僕もネットの意見と同じで、成人している子供の犯罪に対して、親がいちいち謝罪をする必要はないと考えている。親子とはいえ、子供が成人しているのであれば、親に子供を監督する責任はないからだ。
もちろん単純に世間体を踏まえた上での謝罪、それこそタレントで言えば「タレントを番組や記事やCMなどに使っている関係者に向けた謝罪」はそうしたものとして受け入れるしかないのだろうが、それを超えて糾弾するような姿勢は決してあってはならないと考える。
だが、本当に我々は問題をそうきっちり割り切っているであろうか?
我々は、ちゃんと成人した子供の責任と親の責任。これをきっちりと区別して「成人した子供の責任を親に帰さず」ということを、本当に徹底できているだろうか。僕は疑問に思う。
今回の事件は薬物利用であり「被害者」といえる存在はいない。だからこそ大竹まこと氏への目も優しい。しかし、被害者がいる事件ならどうだろうか。特にその事件が日本の歴史に残るような残忍な犯行であったらどうか。
例えば連続女児誘拐事件を起こした宮崎勤の父親は、メディアや知識人からの強い非難によって自殺に追い込まれたし、秋葉原で通り魔殺人事件を起こした加藤智大の母親は、異常に厳しい鬼親であり加藤智大の心を捻じ曲げた主因だとして、非難の声が挙がっている。特に加藤の母親への批判の声は、ネットでこそ大きい。
犯行当時、宮崎勤は26歳。加藤智大は25歳であり、成人していた。いみじくも大竹まこと氏の長女は28歳であり、年齢的には大きく違わない。いずれも若いとはいえ成人した大人である。
もし、娘の大麻所持で、父親を批判してはいけないのであれば、当然、宮崎の父親や、加藤の母親だって「育て方を間違えた」「お前が犯罪者を育てた」などと批判されてはならなかったはずである。
もし、大竹まこと氏は批判してはならないが、宮崎の父や加藤の母は批判してもいいと考えるのであれば、それは単に罪の度合いで、軽い罪であれば親を非難してはならないが、重い罪であれば親も非難しても良いという、身勝手な解釈をしているだけであり、とても「成人した子供の責任を親に帰さず」が徹底されているとは言えないのである。
では、どうして我々は成人した子供の責任を親に負わせてしまうのだろうか。僕は「親の教育に対する神話」があるのではないかと考えている。
有名なのは「三歳児神話」である。「三つ子の魂百まで」のことわざでも知られる三歳児神話は、日本では「子供が生まれたのに働こうとする女性は母親失格だ!」といった女性の社会進出を批判する根拠として利用されがちである。僕はこれの延長線に、親の子供に対する育て方が、子供の一生を決定づけるという神話があると考えている。
例えば、加藤智大の母親は、極めて厳格な教育をしたことで、加藤智大を通り魔事件を起こすまでに追い込んだと言われている。しかし、もしかしたら、厳格な教育が上手く行って、いい大学に出てエリートになっていたかもしれない。その可能性が無かったとは、誰にも言えないはずである。
だが、世間にはそうした「勘違い教育毒親」などゴロゴロしている。決して加藤智大の親だけが、世間から並外れておかしかったわけではない。
その一方で、世間には加藤智大のような通り魔事件を起こすような人間は、決してゴロゴロしていない。通り魔殺人事件の認知数の推移(*2)を見ても、通り魔事件は年に数件。平均で6.5件しか起こっていない。
ネットでは時折「毒親に育てられて自尊心がなく、大人になった今でも苦労している打ち明け話」なんてものを目にすることもあるが、彼らは殺人犯になることなく、頑張って生きている。そうした人たちが大半なのだ。
結局「加藤智大の親は、子供にテレビやマンガを許さず、厳格に育てた。そのことが彼をいつしか通り魔に育て上げていたのだ」などというしたり顔のセリフは、結局はあの事件が起きたからこその結果論で言える話でしかないのである。
親の教育と子供の成長というのは、フラグの定まったアドベンチャーゲームのように「こう育てれば成功するし、こう育てれば失敗する」というものではない。もちろん「こうするほうが良いだろう」という方法論はあるだろうが、それで成功が約束されるわけではないのである。
子供には親の教育が必要だが、親の教育は何らかの結果を保証するものではなく、親の教育が子供の一生を決めるわけではない。親がいかに教育しようとも、子供の人生は子供のものである。故に、成人した子供が犯罪を犯そうとも、その責任は子供自身が負うしかない。
だからこそ、成人した子供の犯罪の責任を、親に負わせるのは不当なのである。
*1:大竹まこと、会見で報道陣に逆質問 “公人の娘”のあり方を問う(ORICON NEWS)https://www.oricon.co.jp/news/2105024/full/
*2:法務総合研究所研究部報告50 第2章 殺人事件の動向 2-1-11図 通り魔殺人事件の認知件数の推移(法務省)http://www.moj.go.jp/content/000112398.pdf