「アヒルの子」は家族の修復の物語なのか?新作「恋とボルバキア」につながるもの 小野監督インタビュー - 渋井哲也
※この記事は2018年01月17日にBLOGOSで公開されたものです
7年ぶりに公開された、セルフドキュメンタリー映画「アヒルの子」。小野さやか監督自身が抱えていた問題について家族と向き合う内容で、東京・東中野の「ポレポレ東中野」で1月19日まで上映されている。また、大阪でも公開が予定されいるいう。前回に引き続き、小野監督に話を聞いた。(前編はこちらから)
次兄に対して「抱いてほしい」と願う意味は?
ーー次兄が泊まりに来て、寝顔を見ているシーンがありましたね。あの場面で「抱いてほしい」と言っていましたが.....
小野:「抱いてほしい」は一つの表現ですけど、当時はすごい偏っていた。性欲的な願望がありながらも、一番近くにいながら手を出してこない次兄を神格化していました。一緒の布団で寝たことは何度もあります。次兄は安心できる存在。絶対的な安心感がある。「抱いてほしい」は性的な意味ではない、ぬくもりがほしい、という意味なんです。
ーー最後のシーンで、両親と川の字に寝ることは、家族再生を意味しているのか?わかりあったという意味なのか?
小野:子ども時代の願望を自然にしただけ。家族が修復した物語ではないですね。家族がずっと破壊したままで、それを今生きている人を使って描くのはオナニー的という感覚が自分の中にあったんです。問題に向き合ってくれた証が残せれば、見る人に勇気を与えるんじゃないか、それで映画として成功かな...。
新作ができるまでの「アヒルの子」の存在
ーー新しい作品「恋とボルバキア」を作るまでの7年間、「アヒルの子」はどのような存在だったのか?
小野:ずっと重かった。いまも重い。正直にいうと、「恋とボルバキア」は成人した大人たちが出てきます。ある程度、作り手側にも受け止める力がある。「アヒルの子」は、どの側面をみてもしんどい。守りたいものがある人と表現したいものの間に壁がある。向き合い続けるのはしんどい。
もしかして、今回の上映で終わりかなと思っています。一回、寝かせたほうが作品にとって、自分にとって、家族にとってもいいのかな?自分にも家族も冷静になれるのかな?映画として生まれたから、たくさんの人に観てほしいんですけどね。
「アヒルの子」は自己存在の中の、言いたくない部分の8割ほどを語らないといけない。向き合うたびに疲労感がある。いまだに映画から抜け出せてない。語るときに客観性を持って語りきれない。自分の生の部分に触れてしまう。
ーーところで、「アヒルの子」の中で母親に「死にたい」と言っていましたね。今は?
小野:今は思わない。映画が作りたいという思いが単純にある。まだ作りたい。
ーー「死にたい」感情はゼロになったということ?
小野:実家に帰ったらあるのかもしれない。私には新しい家族もいないし、家族が望むほど成功しているわけではないと。消えたいとか、死にたいとか思います。実家では、自分は不完全である感覚を与えられるじゃないですか。家族は口では言わないけど、どこかで不満があるわけですよ、私に。そういうずっと不完全な存在と思われ続けるのはしんどい。
ーー映画ほど実際の感情はすっきりしてない?
小野:すっきりしている部分もあるけど、今だに解決されない問題がある。でも、みんなあると思う。私が特別だとは思ってない。
映画にしたことで、家族に合わせた家族を演じることができた
ーー映画にしたことで解決した部分がある?
小野:家族の関係性が変わりました。変化し続ける家族になったんです。結婚したり、引っ越して愛媛を出たりとか。みんなそれぞれの家族を持っている。それでも家族を演じ続けることができる。家族に合わせた家族を演じ続けることができる。家族になった。不満があっても話せるようになる。
ーーひとりぼっちである自覚があるように感じるが…
小野:家族をつくりたいということにかえってくる。「アヒルの子」では、家族をここまで傷つけて、上映を繰り返した。家族の中にはその間にハートが強くなった人もいれば、問題を解決できない人もいる。そういう中で、映画を撮り続けること、誰かの傷を背負っていく、担っていくことです。
それでも、なぜ映画を撮るのか。それは自分のためにしている。孤独であることが自分の望んだ部分というか。そうあらざるを得ない。「アヒルの子」を作った時点で、普通の人生を歩めないと思っています。
ふつうに考えて、「アヒルの子」「恋とボルバキア」を見て、私と家族になりたいと思う人がいるのかな。「アヒルの子」の撮影は13年前ですが、当時のキャラクターがみんなのイメージとして残っています。もう、恋愛はいいですよ。諦めています。
ーー自分は家族をつくることを諦めた?
小野:家族をつくることは諦めていません。この先、人生は長いんで。普通に誰もが思うことだと思いますが、愛したいし、愛されたい。
新作「恋とボルバキア」につながるものは?
ーー恋愛を諦めているのに、新作のタイトルは「恋とボルバキア」。つながるものは?
小野:恋愛映画や恋愛漫画が好きなんです。憧れがあります。好きな漫画は「ときめきトゥナイト」「うる星やつら」「らんま1/2」などで、好きな映画は「恋人たちのディスタンス」「イングリッシュペイシェント」といった作品です。映画って、愛がある。恋愛シーンがある。すごい好きです。
新作と「アヒルの子」との共通性は自己存在をかけた戦いであるという点ぐらいです。なんで自分は生まれてきたのか、自分はなぜ生きるのかが根底にある。誰も望んでそうなったわけではない。でも、生まれてきたわけ。 そこの答えを探さないといけない。あとは、性的なことも共通している点です。
「アヒルの子」と「恋とボルバキア」の共通点は?
ーー2つの映画の共通のテーマは、再構築という印象だが.....
小野:小野さやかの、あるべき姿は明確にある。自分がはずかしくなく、映画を作っている、という姿になる。それが自分らしい再構築です。「こんなのは映画じゃない」と言われても、「それは映画です」と言えるくらいに。
「恋とボルバキア」は「女装」をテーマにドキュメンタリーを作らないか?と会社に言われたことがきっかけでした。女性性を男性が持とうとしたら、わたしたちは受け止められるのか?という問題意識があります。女性性を承認されたいということへの、根深いところの共感がある。性をテーマにしたわけじゃないが、結果、そうなっています。
自分に嘘をつかない。裏切らないものを映画の世界に封じ込めたい。性別に答えがない。それぞれが作り出しています。演じあうことがあれば、どんな自分でもいいんですよ。
ーー「演じ合う」というのも共通のテーマでは?
小野:これは、あまり言っても理解されないんですけど、演じあうことなんですよね。二つの作品の共通点は。よく考えたらそれしかない。不完全であることを認め合う。不完全であるからこそ心細いし、死にたい。それを許容する関係がほしいですね。(おわり)
小野さやか(おの・さやか)
1984年生まれ。映画監督、テレビディレクター。2005年、日本映画学校の卒業製作作品として、原一男製作総指揮のもと、自身と家族を被写体にその関係を鮮烈に描いた長編ドキュメンタリー映画『アヒルの子』を監督。家族の反対にあい、許可を待ち、2010年に劇場公開。ディレクターとして、フジテレビNONFIX「原発アイドル」(12/第50回ギャラクシー賞奨励賞受賞)、「僕たち女の子」(13)などを演出。その他、映画『隣る人』(12/刀川和也監督)に撮影として参加、『道頓堀よ、泣かせてくれ! DOCUMENTARY of NMB48』(16/舩橋淳監督)に助監督として参加。テレビ番組製作の傍ら、ドキュメンタリー映画の製作を続けている。
『アヒルの子』
東京・ポレポレ東中野で公開中 1/19(金)まで
大阪・第七藝術劇場にて公開 2/3(土)~9(金)
公式HP:http://ahiru-no-co.com/
『恋とボルバキア』
東京・ポレポレ東中野、大阪・第七藝術劇場ほか全国順次公開中
公式HP:http://koi-wol.com/