アメリカ合衆国憲法の歴史から考える「憲法改正」~阿川尚之氏に聞く(後篇) - BLOGOS編集部
※この記事は2016年08月19日にBLOGOSで公開されたものです
アメリカ合衆国憲法に詳しい阿川尚之・同志社大学特別客員教授と考える、アメリカ国民と憲法。後篇は、トランプ旋風や最高裁が下した同性婚判決、日本国憲法の改正について話を聞いた。【大谷広太】
■対立する考え方をあえてぶつけ合うのが、アメリカ流
-合衆国憲法は、そもそもの条文に加えて制定以降の修正条項で出来上がっています。制定の際、政治的な妥協の産物や決めきれなかった部分も含めて、改正の余地を持たせておいた、その発想は面白いですね。
阿川:イギリスからの独立を果たした13のステート=邦は、最初バラバラの状態のままでした。これをまとめる共通の基本原則として制定されたのが「連合規約」ですけれど、その内容ははなはだ不十分でしたし、全てのステートの合意がなければ変更できないという欠点がありました。そこで新たな草案を作り、9つのステートで開催される批准会議で承認されれば発効すると予め決めておいて、合衆国憲法を強引に制定してしまったわけです。連合規約改正の規定に違反しているわけですし、他にもいろいろな理由で、新憲法制定にはかなりの抵抗がありました。
そこで憲法草案に改正手続きを定める規定を設けておいて、憲法が発効したあとも、この通り改正ができるから安心しろと、反対派を説得しました。しかも憲法発効からほどなく、最初の改正を実現します。連邦政府も州政府も無条件で従わねばならない最高法規をつくっておいて、「みだりに変更すべきものではないんだぞ」と言いながら、全然変えられないのでは長持ちしないし、また革命が起こってしまう可能性もありますから、「でも変えられるんだぞ」ということも同時に示して、これを採択しました。この絶妙なバランス感覚があったんです。
対立する概念を最初からいろいろな仕組みに盛りこんでおいて、それをぶつけることで、新しいものが出てきたり、どこかに落ち着いたりする。そういう面が憲法の仕組みだけでなく、アメリカにはあると感じています。
そもそも国王を追い出して誕生したアメリカの共和政体は、「主権は人々が有していて、ものごとは多数が決める」という、「民主主義」の考え方に基づいています。けれども同時に、多数が絶対というのは、場合によって実は恐ろしいことなんだという認識がありました。憲法起草者の一人であるジェームズ・マディソンはこれを「多数の横暴」と呼びましたが、多数だって間違えることがある。たとえ多数が賛成しても犯してはならない原則を予め決めておこう、これが「多数よりも高い次元の法を設けておいて、それに従う」という、「立憲主義」の考え方です。しばしば矛盾し対立する「民主主義」と「立憲主義」の考え方が、アメリカの政治システムには両方共最初から盛りこまれていて、今でもぶつかり続けています。
■トランプといえども、好きなようにはできない
-大統領選が終盤に差し掛かる中、議会と大統領の関係もクローズアップされそうです。
阿川:ドナルド・トランプが大統領に選ばれるとしたら、それは「多数の意思」によるものですけれども、だからといってトランプ大統領が絶対の権力を握って行使できるわけではない。「トランプが大統領になるのが恐ろしい」と言う人は多いですし、確かに好ましくないことが起こるかもしれない。しかし万が一大統領が悪さをしようとしても、それができないように作ってあるのが憲法なんですよね。それに、究極的な安全弁が設けてある。4年経ったら任期が終わるという憲法の規定です。
実はリンカーン大統領は1861年の就任演説で、自分に投票しなかった人々(主に南部諸州の人々)に、がっかりしないで4年間待って、次の選挙で意中の人に投票するようにと呼びかけ、「人々が徳義を重んじ注意深くいるかぎり、どんなに邪悪な、あるいは愚かな政権でも、4年ではこの政治システムに(取り返しのつかない)深刻な損害を与えることはない」と、言ったのです。トランプがひどい大統領であったら、4年後にとりかえられる。彼が永久に居座ることはない。それが憲法の仕組みなんです。
たしかに多くの戦争や危機を経て、昔に比べると大統領は格段に強くなりました。特に外交、国防の分野では、ほとんど無制限に近い裁量権を有しています。この分野では憲法はあまり強く大統領を縛っていない。しかし憲法は議会や司法にも独自の権限を与えており、特に議会の協力と立法措置が欠かせない内政については、大統領はそう自由に権限を発揮できません。ですからトランプだって、そんなにたくさんのことが出来るかどうか、分からないのです。まして今度の議会選挙で民主党が両院の1つを奪い返した場合、トランプといえども、好きなようにはできない。議会の共和党議員も、唯々諾々と大統領にしたがうとは思えない。何でも言えた「候補としてのトランプ」と、何もかもはできない「大統領としてのトランプ」は、違うわけです。
■アメリカは進歩的な国なのか?
-日本でも「ダイバーシティー」という言葉が市民権を得る中で、アメリカでは結婚を男女の間に限るとした州法を違憲とする最高裁判断が示され、歴史的判決だと大きくと報じられました。アメリカはそういった面でかなり進歩的だというイメージを持っている日本人は多いと思います。
阿川:LGBTなどの議論が憲法問題として取り上げられるのを見ていると、いかにもアメリカが進歩的だという感じがするでしょう。最近の最高裁判決やオバマ政権の政策もその方向にありますが、数は減りつつあるものの、まだまだ保守的な価値観を持つ人が大勢いて、抵抗も根強くあります。同性婚が認められたことについて「アメリカの終わりだ」と言った人もいるくらいですから、進歩的な方向にどこまで進むかは、まだわかりません。
かつてレーガン大統領が当選した背景には、ヒッピーやフリーセックスなど行き過ぎた自由に対する保守派の反感があり、進歩主義を信奉する民主党への逆風が吹いたという事実がありました。民主党支持者なのに共和党のレーガンに投票した人も多かったんですよね。
確かにアメリカ社会で、同性愛やLGBTに対する許容度が高くなったのは事実ですが、反対する人も多く、現在でも異なる考え方同士が常に押したり引いたりしている。
それに、「憲法上の権利とは何か」という点についても、議論が続いています。
合衆国憲法は、もちろん当初から個人の権利について考えていました。ただしそれはイギリス植民地時代の経験に基づいて、「これだけは国王や中央政府といえども介入できない」という権利だけを言っていた。それが20世紀後半になると、憲法を広く解釈すれば、妊娠中絶の権利、同性愛の権利、それから嫡出子でない人の権利もある…という具合に、次第に憲法で認められるべき権利の範囲が、拡大されています。
憲法に書いていないことが本当に憲法上の権利として認められるためには、それがアメリカの伝統の一部になる必要がある、という主張があります。ある有名な判事の言葉を借りれば、「伝統や歴史に根を深く下ろしていない限り、憲法上の権利とは認めえない。選挙で選ばれていない判事が、安易に新しい権利を創りだしてはいけない」という考え方です。憲法にはLGBTの権利を守るなんて、どこにも書いてないわけですから、そのような権利をどうして憲法上の権利と認めうるのか。
LGBTの人たちもできるだけ「平等」に扱おうという考え自体は、悪いことではないと思います。しかしそれが社会の伝統として定着するには、時間がかかります。定着する前に、議会での十分な討論と議決なしに、最高裁が憲法の拡大解釈によって憲法上の権利だと決めてしまうことには、正統性の観点から疑問が残ります。その観点から、最高裁の判断は時期尚早ではないか、という意見もあります。LGBTや同性愛者の権利を主張する際には、そうした視点も理解してほしいと思います。
やや奇妙だと思うのは、日本の護憲派は憲法の解釈変更を嫌いますが、LGBTのような問題に関しては自由な解釈を許容する傾向があるんですよね。面白いことに、アメリカでは保守派の方が護憲で、逆に進歩派は憲法の解釈をどんどん変えていって、新しい価値観を先取りしていこうとするわけです。「改正なんか古い、これからは憲法を解釈で変えていこう」という、かなり極端な意見さえあります。
■「価値観」抜きの憲法改正論争を
-最近では日本でも統治機構の話の他に人権の話も出てきてはいますが、それでも憲法改正と言うと、9条のことばかりが取り上げられがちで、議論が成立しにくいですね。
阿川:日本での改憲に関する議論を聞いていると、保守も革新も、自分たちの価値観を憲法に入れようという人が多いように感じます。たとえば愛国心に関する規定を入れようとか、新たに環境権を明記しようとか。特定の価値観を憲法に盛りこむのは、あまり賢いことだとは思いません。人々の価値観は変わるし、特定の価値観を憲法に盛りこんでも、どうやってそれに実効性をもたせるのか、保障がありません。LBGTなど社会の少数者の権利についても、憲法に特定の権利を書くというのではなく、彼らが不正な取り扱いを受けた時に、どうやってそれを正すかについての仕組みを設けて活用した方がいいと思います。
日本国憲法の問題点の一つは、草案を作ったGHQの人たちが当時の価値観を色濃く反映した条文を、多数入れてしまったことだと考えています。そもそも原案には、社会主義的な一部起草者の価値観を反映する、基本的に財産権を認めないというような過激なものまでありました。
ほかにも「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ…」という97条があります。これについては日本側が条文の体裁にそぐわないし、11条とも重複するので削除したいと申し出ましたが、「GHQ民政局長のコートニー・ホイットニー准将が一生懸命考えたものだから、お願いだから入れてくれ」と言われて止むを得ず残したものが、いまだに残っているわけです。でも、宣言にとどまっていて、何の効用もありません。今更削除するのも、変なものですし。憲法の“盲腸”のようなものでしょう。
そのように価値観を表明した条項の一つが、9条だと思います。戦争をなくす、侵略戦争はしないという価値観はけっこうだと思いますが、そのための手段が陸海空軍その他の戦力保持の禁止と交戦権の否定のみでは心細い。その隙間を埋めるために設立されたのが、憲法上は軍隊でも戦力でもないことになっている自衛隊ですが、いかにもすっきりしない。さらに怖いと思うのは、憲法上軍隊はいないことになっているために、誰が自衛隊を指揮し、動かすのか、その予算はどうするのか、何も規定がない。実質上の軍隊である自衛隊をいかに制御するかについて、第9条の規定ならびにその解釈とやや矛盾する第66条のいわゆる文民条項を除いては、日本国憲法は何も言っていないのです。
アメリカの場合はシンプルで、議会は、陸軍と海軍の創設維持と規則制定、軍隊の予算計上、宣戦布告などの権限を有し、一方大統領は国軍の最高指揮官であり、(武力行使をふくめ)すべての執行権を有することが、憲法に規定されている。議会と大統領の両方が戦争権限を持っていて、互いに抑制しあうことが、ある意味で無謀な戦争を防ぐ機能を果たしています。米軍がベトナム戦争から最終的に撤退したのは、議会が予算を付けなくなったからという側面もありました。これまた価値観ではなく、仕組みや手続きで、戦争の危険を減らす工夫です。
合衆国憲法が制定以来現在まで長続きした理由の一つは、特定の「価値観」をほとんど入れなかったからだと思います。国王を廃し、貴族を認めないという条項を入れた部分は確かに「価値観」かもしれません。しかし、それ以外にはほとんどありません。多くは手続きに関する規定で、刑事事件の被疑者の権利などを定めた「権利章典」(最初の10の修正条項)の規定が典型です。個人の人権も公正な手続きの保障によって守るというのが、アメリカ憲法の基本的な考え方でしょう。
日本国憲法にも、こうした手続き規定がいろいろ設けられていますが、たとえば国民審査の規定、司法審査の規定、改正に関する規定など、あまりうまく使われていないものがあります。イデオロギーに囚われることなく、こうした手続き条項をもっと使えるように、いろいろ制度を工夫して、少しずつ良くしていけばいいのではと思います。
■プロフィール
(あがわ・なおゆき)1951年、東京都生まれ。同志社大学法学部特別客員教授。慶應義塾大学名誉教授。慶應義塾大学法学部中退、ジョージタウン大学スクール・オブ・フォーリン・サーヴィスならびにロースクール卒業。ソニー、米国法律事務所勤務等を経て、慶應義塾大学総合政策学部教授。2002年から2005年まで在米日本国大使館公使。2016年から現職。主な著書に、『アメリカン・ロイヤーの誕生』、『海の友情』、『アメリカが嫌いですか』、『憲法で読むアメリカ史』(読売・吉野作造賞)、『憲法改正とは何か: アメリカ改憲史から考える』
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