アメリカ合衆国憲法の歴史から考える「憲法改正」~阿川尚之氏に聞く(前篇) - BLOGOS編集部
※この記事は2016年08月18日にBLOGOSで公開されたものです
7月の参院選で、連立政権を組む「自民党と公明党」が、憲法改正の発議に必要な3分の2を衆参両院で確保した。今後、憲法改正についての議論が活発化するとみられている。
アメリカ合衆国憲法に詳しい阿川尚之・同志社大学特別客員教授は、同国の改憲史を辿った著書『憲法改正とは何か: アメリカ改憲史から考える』の中で、「アメリカ人は憲法を大切にするが、神聖視はしない。それに対し日本人は憲法を神聖視するものの、それほど大切にはしない」と分析する。日本国憲法の在り方を考える上では、海外の憲法史を繙き、他国の人々の憲法観を知っておくことも必要となるだろう。
そこで編集部では阿川氏に、アメリカ合衆国憲法と、アメリカ国民の憲法意識について話を聞いた。【編集部:大谷広太】
■アメリカの政治家はすぐに憲法を持ち出す
-阿川先生は「アメリカ人は憲法を非常に大切にしているが、神聖視はしていない」という印象的な表現をなさっています。また、日本人はその逆なのではないかと。
阿川:アメリカでは、あらゆる政治家や運動家が憲法を持ち出すわけです。有名な例を挙げれば、オバマ政権に反対の立場を取るティーパーティー運動の人たちは、憲法をとても重視しています。集会に憲法全文を載せた小冊子を抱えてきて、みんなで勉強しているという話を聞きました。「政府は“大きな政府”をつくり、行き過ぎた福祉を実行し、憲法制定者の意図に反している。本来の憲法に戻れ」というのが、彼らの主張です。
一方、ティーパーティーとはまったく逆の立場を取る、進歩派の政治家や運動家たちも、妊娠中絶や同性婚の権利などの正統性を憲法に求めます。憲法を正しく解釈すれば、これらの権利が存在するのは明らかだと言うのです。
彼らはまったく主張が違うのに、何が共通しているかというと、「自分たちの主張こそ、憲法の正しい解釈に基づいているのだ」と訴えるところでしょう。両者とも憲法それ自体を神聖で侵すべからざる対象と考えてはおらず、むしろ主張の正しさを説得する手段として大切に使っているように思います。なぜそうなのか、何人かアメリカの憲法学者に質問したら、リベラルな学者もコンサバティブな学者も、「我々アメリカ人は世界中から来ていて、共通の文化や価値観がない。だから、議論の共通の基盤が、憲法以外にないんだよ」と一様に答えたので、「なるほど」と思いました。
アメリカでは野球の試合で、みんな立ち上がり、神妙な顔をして国歌を歌いますが、人種、肌の色、そもそもの出身国、宗教、価値観が千差万別である彼らをひとつにまとめるのは、国旗と国歌と憲法しかない。だからこんなに憲法を大切にするのだろうなと感じます。その点、いくら「憲法が最高法規だ」と教えられても、この国を一つにまとめるのは憲法だけではない、むしろ憲法以外に何かがある。一般の日本人は漠然とそう思っているのでは、と感じますね。
確かに、明治憲法ができて「国のかたち」が突然決まったわけでも、日本国憲法ができて全てが変わったわけでもない。日本の「国のかたち」には、それ以前から続いてきたものが含まれているはずです。例えば日本史の授業で習う大政奉還だって、それまで続いてきた「国のかたち」が変わったという意味で、日本の憲法史上、画期的な事件ですよね。明治維新を経てその変化をさらに吟味し、国内外の情勢を踏まえて最終的に文書にまとめたのが、大日本帝国憲法だったわけですから。
■小学生だって憲法を学ぶ
-アメリカ人は、日本人に比べて憲法についてはっきりとした考え方や認識を持っていると言ってよいでしょうか。
阿川:日本では最近でこそ安保法制関連で一般向けの憲法の本がたくさん出たけれども、それまではあまり読みませんでしたよね。アメリカでは、最高裁判事の伝記が何冊も出版されていますし、一流の憲法学者が、わかりやすい憲法史の本を書いています。
憲法史というのは、アメリカ史そのものですから、小学校でも憲法について学びます。独立宣言と憲法の起草が行われたフィラデルフィアの「旧ペンシルヴァニア州議事堂」は、アメリカでもっとも重要な史跡の一つになっていて、その近くにある「米国憲法センター」とともに、毎日訪れる人が絶えません。
そういう意味では、アメリカの人々は日本人よりも憲法をずっと身近に感じているかもしれません。
■天皇陛下の「生前退位」も憲法問題
-やはり「国のかたち」があって、その中の一つとして憲法があるわけですが、そこがどうしても、憲法の条文のところだけ見て議論してしまうところがありますね。
阿川:憲法の制定には、それぞれの国で異なった歴史的文化的、あるいは政治的背景があり、合衆国憲法も日本国憲法も例外ではありません。既に述べたとおり、それ以前の「国のかたち」が、憲法の中身に大きな影響を与えます。
その点で大変興味深いのは、天皇陛下の「生前退位」をめぐる議論でしょう。そもそも「天皇の在り方を日本国憲法はどう規定しているのか」「皇室典範って何だ」などという、これまであまり考えてこなかった疑問が、改めてどっと出てきている。
天皇の方が憲法よりも古いわけですから、憲法に書いていないこと、あいまいなことがたくさんある。憲法の条文に規定がない部分もまた、「国のかたち」にかかわりますよね。広い意味で、これもまた憲法の条文を越えた憲法問題だと思います。
■憲法訴訟は珍しいことではない
-日本でも国家賠償や、刑事訴訟で最高裁判決が話題になることがありますが、個人が憲法訴訟を起こすという感覚はあまり無いように思います。アメリカではどうでしょうか。
阿川:トクヴィルが「アメリカではあらゆる政治問題が司法問題になる」と言っていますが、さらにそのうちのかなりの部分が、憲法にかかわる問題になる印象があります。訴訟で憲法を持ち出すことへのためらいは、少ないのかもしれません。
もちろん一般人が憲法の細かな規定やその意味するところまで知っているわけではないし、「この罰金刑は憲法違反だ!」などとすぐに考えることは少ないでしょうけれども、弁護を引き受けたロイヤーが、憲法上の争点を発見して議論に使うということはしょっちゅうあります。
たとえば1995年の「合衆国対ロペス事件」。テキサス州のある公立高校に通うロペス少年が、銃を持って登校しました。ロペス君は、中学や高校への銃持参を禁じる連邦法に違反したとして、起訴されました。これに対し彼の弁護人が、「学校への銃持込みを禁止する法律の制定権限は連邦議会に与えられておらず、したがってこの連邦法は無効でありロペス君は無罪だ」と主張したのです。最終的に最高裁はこの主張を認め、「この連邦法は違憲だ」という判決を出しました。
この判決の背景には、アメリカの連邦制のもとで、連邦議会の立法権と州議会の立法権の境はどこにあるのか、連邦議会の立法権には限界があるのかという、古くて新しい憲法問題があり、最高裁はこの事件で連邦議会の立法権は無制限ではないという判断を示したのです。しかしロペス少年にとってみれば、理屈はともかく無罪放免になり、自分の名前が憲法史に残った。「どうして俺が有名人になるんだ」という感じだったでしょうね(笑)
■人種差別の是正も憲法解釈で
-合衆国憲法史は、多くの人々が奴隷制度や人種差別などと戦う中で、憲法解釈を変えていった歴史でもあります。
阿川: 1892年、黒人の血が8分の1入った男性がルイジアナ州の鉄道で白人専用列車に乗りました。白人と黒人は別の鉄道車両に乗らねばならないと法律で定める同州の人種隔離政策に反対する運動の一環として、あえて自ら逮捕されたうえで、この州法は違憲だと主張し、連邦最高裁まで行って争ったのです。
合衆国憲法修正第14条は「法の平等保護」を謳ってはいるものの、その「平等」とは何か、ということについては書いていないわけです。最高裁は1896年の「プレッシー対ファーガソン事件」の判決で、修正第14条のもとで白人と黒人は平等だけれども、同条は両者を分離することを禁じていないと解釈して、白人専用列車を設ける州法を合憲と判断しました。この結果、“分離すれども平等”と呼ばれる南部の人種隔離政策が固定化します。
この判決をくつがえしたのが、黒人と白人を別々の小学校に通わせるのを義務づける州法を違憲とする、1954年の「ブラウン対教育委員会事件」判決です。この判決によって、最高裁は「平等とは何か」を考え直し、60年あまりの間、固定されてきた憲法解釈を変更したのですね。
最高裁がブラウン事件判決を下した際、ジャクソン最高裁判事の助手として修正14条の制定過程を詳しく調べ、のちにイェール大学ロースクールの教授になったビッケルという人が、自らの経験を踏まえて面白いことを言っています。「憲法を作った人たちは、時代とともに人々の考え方や伝統が変わっていくことを予測して、新しい解釈が可能なように、あえて修正第14条をやや一般的に広く書いておいたのではないか」と。つまり、憲法の中身は、時代とともに育ち変化しうるということでしょう。憲法を解釈するうえでの、一つの考え方ですね。こうした見方については、強い批判もありますけれど。
このようにアメリカの連邦最高裁は、政治性の強い憲法訴訟を取り上げ、しばしば判断を下しますが、日本の最高裁は政治的な性格の訴訟において憲法判断を避ける傾向がありますね。(後篇につづく)
■プロフィール
(あがわ・なおゆき)1951年、東京都生まれ。同志社大学法学部特別客員教授。慶應義塾大学名誉教授。慶應義塾大学法学部中退、ジョージタウン大学スクール・オブ・フォーリン・サーヴィスならびにロースクール卒業。ソニー、米国法律事務所勤務等を経て、慶應義塾大学総合政策学部教授。2002年から2005年まで在米日本国大使館公使。2016年から現職。主な著書に、『アメリカン・ロイヤーの誕生』、『海の友情』、『アメリカが嫌いですか』、『憲法で読むアメリカ史』(読売・吉野作造賞)、『憲法改正とは何か: アメリカ改憲史から考える』
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