原因があるのか、運が悪かったのか - 赤木智弘
※この記事は2014年10月04日にBLOGOSで公開されたものです
御嶽山の突然の噴火による死者は47人を超え、火山活動による犠牲者としては戦後最悪の数となった。(*1)まだ行方不明者も多く、一刻も早い発見を祈っている。さて、この噴火が報じられた当初に僕が気になっていたのは、多くの人達が「噴火の予兆はなかったのか」と、多くの人を巻き込むことになった原因を探していたことだった。
そして、メディアは登山をしていた人などに話を聞き、「地震が続いていた」とか「振動があった」とか「硫黄の臭がした」などという発言を集めていた。そして「今回の噴火を予測することはできなかったのだろうか?」と、地震予知に疑問を投げかけていた。しかし実際には、山小屋の関係者ですら「もしかしたら噴火かもね」(*2)と笑い飛ばす程度の前兆でしかなかった。後から思い返して「そういえば」と思うことも、それを前もっておかしいと考えるのは至難の技であり、これを「予兆はあった、予測はできた」とするのは無理があるだろう。
今のところ報じられていることによれば、今回の噴火はその予兆がほとんどなかったが、唯一9月に入って、頻繁な火山性微動があったことが報じられている。しかしそれも、噴火警戒を呼びかけるまでには至らなかったようだ。
こうしたことから、一部には「予測ができたはずなのに、措置を取らなかった」とか「観光に影響があるから公表しなかったのではないか」とか「民主党の事業仕分けのせいだ」(*3)などなど、色々な憶測が飛んだ。
今回、悲惨な結果となったことについて、多くの人達は自ずと「悲惨な結果を招くことになった、それ相応の原因がある」と考えているのだと思う。けれどもそうした考え方は、自然と摂理からすればとても傲慢な考え方ではないかと、僕は思う。
2011年の3月11日に東日本地域を巨大な地震と津波が襲った時、当時都知事だった石原慎太郎はこれを「日本人の我欲に対する天罰」だと言った。また、ジャーナリストのリチャード・コシミズはこれを「アメリカやユダヤによる人工地震兵器だ」と言った。それは表現こそ違えど、大震災が日本を襲ったということには、それに見合うだけの人為的な原因があるという考え方である。
しかし、そうした考え方は、自然災害については全くナンセンスとしか言い様がない。
だって、自然は勝手に動いているのであり、その状況をたまたま人間が利用しているにすぎないからだ。それこそ「日本」と呼ばれる国土があるのだって、火山活動やプレートテクトニクスの結果である。僕たちはその状況の上に、たまたま住んで、たまたま暮らしているにすぎないのだ。今回もたまたま土曜日で登山者が多かったために、大惨事となったが、それは結果論にすぎない。
震災も噴火も、人間の視点からすれば自然が人間に対して牙を向いたように見えるが、自然からすれば単なる活動に過ぎず、そこに人間がいるかいないかなど、自然が意識するはずもない。
だが、同時にそうしたことを単純に「運が悪かった」ということで納得できるほど、人間が強くないことも理解できる。何の落ち度もなく、たまたま運悪く自然に痛められたとしても、僕たちはどこかにその責任を求めてしまう。
けれども、むやみに責任転嫁をすれば、傷つく必要のない人が傷ついたり、必要のないお金が無駄に使われたりしてしまう。今回のような予測が難しく、対処の方法も少ない事故に関しては、どこかで「運が悪かった」と納めるための線引をすることが、必要ではないのだろうか。
*1:御嶽山噴火の死者47人、戦後最悪の惨事-きょうの捜索中止(Bloomberg)
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NCSNG46K50Y901.html
*2:山小屋関係者が語る 御嶽山噴火時の状況 | 日テレNEWS24
http://www.news24.jp/articles/2014/09/27/07259999.html?from=ich
*3:片山さつき氏が陳謝「事実誤認に基づく発信」 御嶽山の常時監視「事業仕分けで外れた」としたツイートに(ハフィントンポスト)
http://www.huffingtonpost.jp/2014/09/30/satsuki-katayama-ontakesan-tweet_n_5910730.html