※この記事は2014年09月08日にBLOGOSで公開されたものです

どうも新田です。池上さんのようにマイルドヤンキーの方にも分かりやすい記事を書くのが目標です。朝日新聞の慰安婦報道問題を受け、BLOGOS編集部から「新聞社の掲載や訂正基準はどのように決定されているのか?」「論説委員って?」「社長と主筆って?」といった新聞社の“そもそも論”について執筆依頼をいただいた次第です。

東大から朝日に入社ゼロ。興味をもたれなくなった新聞社

オファーをいただいた背景を考えてみると、BLOGOS読者の多数派にして、デジタルネイティブである20~30代前半(広告業界でいうM1層、F1層ですね)は、紙の新聞に触れた経験が私らアラフォー以上よりめっきり減っていますよね。信じられないでしょうが、バブル世代より上くらいまでは文系学生が憧れる花形職業に新聞記者も入っていたんですよ。だから、その世代は新聞記者が大体何をやっているか、例えば社会部の記者が何を取材しているのかはそれなりに知っていたんですが、今春の朝日の新卒入社に東大卒業者がゼロだったように、いまの学生の間では、新聞記者なる仕事は、もはや衰退産業の“枯れた華”にしか思われてないわけです。ただですね、新聞社の社会的影響力・存在感が昔より減ってしまった分、朝日の誤報問題のような事態があった時に知らないが故の「あらぬ誤解」も広がるのは残念なところもあるので、20世紀の終わりの年から10年ほどライバル紙で勤めた経験があったワタクシメが、古き良き時代の残り香を吸った拙い経験ながら細々とお話できればと思います。

読売社会部は半年で2度の訂正で左遷 ファクトチェックは「意外に」厳格

まず、朝日の誤報問題に触れる前に新聞社の訂正や謝罪(おわび)について、一般的な傾向を私なりに解説させてください。訂正や謝罪記事が出るのは、事実に反した内容の記事が出てしまうからですが、当然「欠陥商品」を出さないための「品質管理」は、外部の方が思う以上に厳格であり、それが日本の新聞社が戦後、世界各国のなかでも国民から高い信頼を得てきた要因の一つにあると思います。

ざっくりと一般的な記事の工程を基に説明しましょう。
まず現場で取材して記事を書くのが記者です。官公庁や政党の取材担当であれば、所属している記者クラブでまとめ役を務める「キャップ」という先輩記者が原稿を直すこともありますが、原稿は会社にいる「デスク」というベテラン記者が直します。全国紙の本社であれば「社会部次長」といった部のナンバー2(複数)が当番制で、紙面構成を考え原稿を加筆・修正し、あるいは「ここをもっと取材しろ」と言うように指示を飛ばします。デスクを通った原稿は、レイアウトの部署で紙面制作に入る一方、その中身については、校閲を専門的に担当する記者がチェックします。

以前、新潮社の校閲者のすご腕ぶりがネット上で話題になったことがありましたが、紙媒体とネットメディアの編集面での最大の差は校閲スタッフの存在にあると私は思います。彼らは誤字脱字や表現の誤りといった字面的なことを確認するだけではありません。現場記者から転送された資料や、過去記事のデータベース、インターネットで公開されている情報等を駆使し、出稿から締め切りまでの数時間、時には十数分というタイトな条件でファクトチェックを徹底に行います。

もちろん、執筆した記者自身も書き上げた原稿を、夜間取材中でなければ社内で一行一行ペン先を追い、関連資料と照合しながらファクトチェックを行います。書いた本人がその記事を一番よく分かっている分、誤報を一番防げるのも執筆者のはずです。私も入社8年目で社会部の都内版編集室に配属されたとき、直属上司の編集室長から「できるだけ複数の情報源にあたって事実確認の裏取りをしろ」「一行一行気を抜くな」と基礎を鍛え直されました。新聞社、特に本社の中枢部門では社内的にもそれなりの基準で選抜された人が来ていますから、短期間に単純なケアレスミス、例えば歴史ものの記事で「石田三成は関ヶ原で※討ち死にした」といった誤報を立て続けにした場合はそれなりのペナルティーを覚悟も必要です(※三成は関ヶ原で敗れた後、逃走中に捕縛、京都で刑死した)。私も社会部時代、ある先輩から「半年で二度、単純ミスによる訂正記事を出したら左遷だから気を付けろ」と注意されたことがありました。

訂正とおわび記事の違い

しかし、それだけ気を遣っているにも関わらず、人間ですから誤報を出してしまうことがあります。読者や取材先からの指摘で発覚することが多いのですが(私も朝一番に電話でたたき起こされた苦い思い出があります)、率直にミスを認めたうえで訂正や謝罪(おわび)記事を出します。

私の捉え方ですが、事実関係の訂正を淡々とするのが訂正記事。たとえば「7日朝刊社会面の『関ヶ原』の記事で、『石田三成は関ヶ原で討ち死にした』とあるのは『石田三成は関ヶ原で敗れて捕えられ、京都で刑死した』の誤りでした」という具合です。一方、おわび記事は、誤報による内容で社会的に与えた影響がより深刻と判断された場合に出されます。今回の朝日新聞の池上さんの寄稿掲載時に一緒に掲載された、おわび記事は、事の経緯は事実関係の誤報ではありませんが、やはり社会的反響を考慮したものです。

なお、訂正やおわび記事を出すのは社内で手続きが要ります。おそらく読売以外でもほぼ同様だと思いますが、記者は始末書を書いて上司に提出し、上層部に訂正記事掲載の決裁を取ります。決裁は所属部長レベルで済むこともありますが、一面で放った特ダネ等のように紙面を賭けて 勝負した重大ニュースを訂正・おわびとなると、編集トップの編集局長、あるいはそれを超える経営レベルでのジャッジになる可能性があります。裏を返せば、まさに社運をかけるような特ダネになるほど、編集局だけでは判断しかねる難しい対応が迫られることになると言えます。

なぜ朝日新聞は慰安婦で「謝れない」のか

勝負を賭けた特ダネに限って、かえって訂正やおわびをしづらい“誤報”になってしまうのは先述したとおりですが、事件系の報道でも捜査情報の機密保持をかいくぐって特定の情報源に依拠する分、時には敢えてダミー情報をつかまされることもあり、誤報のリスクは高いのですが、記者の力量をそこで評価されるので、ついつい記事を飛ばしたくなります。1989年、かのグリコ森永事件で、毎日新聞は犯人逮捕の大スクープを放ったのが一転、世紀の大誤報になり、後に政治番組のコメンテーターでおなじみになった故・岩見隆夫さんは、その時の編集局長で責任を取って辞任した経緯があります。

しかし、やはりそれ以上に“謝りづらい”誤報が自社のオピニオンの根幹に関わる記事です。朝日以外でも同じことで、たとえばイラク戦争開戦の折、社説で支持した新聞社もありましたが、根拠となった大量破壊兵器がイラクに存在しなかった結果について紙面で総括しきれたかというと微妙なところです。

最近だと、吉田文書を巡る各紙の報道がまさに典型的ですが、同じファクトを見ても解釈には記者個人や新聞社それぞれのスタンスに基づいてきます。本来、ファクトには忠実であるべきですし、現場記者のファクト確認が徹底していることは先述したとおりですが、編集責任が現場デスクを超え、上層部肝煎りの案件になってくると、ある特定の方向に世論を持って行こうという思惑が働き、悪意がなくても自説を補強するように思えるファクトに出会ったら飛びついたり、過剰に強調したりする恐れがあります。これはどの新聞社でも程度の差はあれ、原理は同じだと考えていいでしょう。だからこそ、自戒が必要なのです。原発再稼働のように国論が割れるようなイシューは、あえてポジ、ネガを含めた事実報道に徹して最終判断を読者に任せるというスタンスも一つの路線としてありでしょう

慰安婦問題の誤報の件に関する私の考えですが、池上さんの寄稿、あるいは池田信夫さんのブログをお読みいただければ分かるように、事実検証や謝罪姿勢がとても足りないです。ワタクシメは記者を辞めた現在、企業広報支援を生業の一つにしていて、朝日新聞からネット選挙の講演等でお仕事をいただいたこともあるので「友人」として忠告しておきたいのですが、中途半端な謝罪は危機管理的にも最悪なシナリオです。むしろ寝た子を起こして夜泣きされて泡食っているのが今の状態。そのことはツイッターで「蜂起」した記者たちも当然同様の指摘をしていて上層部も分かっているはずです。

それでも朝日新聞がなぜ“謝り切れない”のか?池田さんが別の記事でも指摘している通り、一つには、慰安婦報道を推進してきた「左翼軍団」の社会部系の派閥と、社内の負の遺産を返上したい木村伊量社長ら政治部系の派閥による社内抗争の可能性が考えられます。このあたり、キーパーソンの存在が明確で権力構図が一般人にも分かりやすい、どっかの新聞社と違うところで(笑)、私も朝日新聞の対応にハラオチできない理由です。

木村社長を巡っては社内メールの文言から、「反省していない」との批判も浴びていますが、権力闘争というのは自民党の代々のそれを見ればお分かりのように、非常に複雑怪奇な力学が働いているもの。広報の教科書通り、率直な全面謝罪に振り切れない背景には色々な事情があるのでしょう。しかし読者や社会はそうした社内事情を待ってくれません。会社が傾く前に打つべき手を打つ、例えば池上さんに三顧の礼を尽くして第三者委員会を立ち上げて検証してもらうべきではないでしょうかね。

汚職事件の現場で“利害対立”する政治部、社会部

ちょうど朝日の“権力闘争”の噂が出たので新聞社の組織のイロハを最後に書きましょう。 編集部門にどのような部署があり、それぞれどのような仕事をするのか各定義はリンク先の読売新聞の会社案内を参考にしていただくとして、私独自の視点で補足します。

Q・政治部と社会部の違いって?
社会部は私も一年だけ経験しましたが、まさに新聞社の心臓部。「殺人容疑で逮捕状を取った」等の事件の本筋ニュースが主流派ですが、社会面はこの社会の喜怒哀楽を森羅万象する紙面。広島の土砂崩れがあれば現地支局が送ってくる、亡くなった子供の生前の話を転載するだけでなく、識者に取材して災害メカニズムの話を載せ、過去の災害事例を拾い上げるといったマクロな視点での構成も担当します。東京本社の社会部の場合、警視庁、裁判所・東京地検、都庁が重要取材対象の“3大勢力”。市井に近い分、権力監視というジャーナリズムの本分に沿った動きをするのが、まさに社会部記者ですが、一方、政治部記者の場合、複雑怪奇な永田町・霞が関の権力サークルの中にあって独特の取材文化があります。たとえばメモ合わせ。政治家の発言をみんな一律に聞いている中で、何をしゃべったか発言内容を確認し合いますが、事件取材で抜いた抜かれたをしている社会部や地方支局では考えられません。

自民党の派閥担当になると、派閥のボスやキーパーソンなど個人への食い込みが重要になってくるわけですが、政治家の世界は同じ派閥であってもライバル同士だったりするので心を通わせていないことも多い。その点、記者は自由に往来できているので政治家は彼らを通じて内情を探ることもしばしばあります。記事にすることを目的にした取材のほうがむしろ少ないかもしれません。記者が派閥のボスのゴーストライターをやっている話とか、時には派閥のカネの差配を任された的な「伝説」が出てくるのは、取材対象との独特かつ濃密な関係性によるものでしょう。

同じ新聞記者でも政治部と社会部は体質が水と油です。最近は刑事ドラマの影響で警察組織の方をむしろみなさんご存知かもしれませんが、社会部は「刑事」、政治部は「公安」に近いかもしれません。やはり刑事と公安が事件現場で時に利害が対立するように、政治部、社会部も対峙することがあります。これはある大学教授に聞いた話ですが、1990年代、汚職疑惑で特捜部に逮捕間近とされた大物政治家の邸宅を社会部記者たちが取り囲んでいたところ、ドヤドヤと外に出てきた数人の男たちがおりました。で、つかまえてみると、自分たちの会社の政治部記者だった。彼らはその大物政治家の麻雀の相手をしていたのです。社会部記者たちが「この時節にけしからん」と憤ったことでしょうが、政治部記者は「政治は善悪の二元論で割り切れないことがある」と呆れていたかもしれません。

Q・主筆、編集局長、論説委員、編集委員って?
それから役職について。編集局長は、新聞記事のコンテンツを制作する編集局のトップの役員待遇で、将来的に社長になる可能性も高いです。しかし、一般の人からすると分かりづらいですが、記者で一番偉いのは主筆です。会社間で程度の差はありますが、社説や論説などの方向性を決める力を持っている社もあります。読売新聞グループの渡邉恒雄会長のように、経営トップと主筆を兼務しているのは珍しいケースです。

それから論説委員と編集委員は名称が似ていますが、役割は違います。社内的に本流は論説委員で、社説を書く人たちです。一方、編集委員は、長年の取材経験、人脈を通じて得た専門的知見を活かしコラムニスト的に活動しています。



少々まとまりに欠けたかもしれませんが、新聞社は衰退産業であるといっても、まだまだ世論の方向性作りに大きな影響を持っていて、その組織構造や役回りを知っておくことは、今回のように社会問題があったときに冷静に議論するための判断材料や前提知識として役に立つのではないでしょうか。

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にった てつじ ブロガー/ソーシャルアナリスト/企業広報アドバイザー。読売新聞記者(社会部、運動部等)、マーケティング会社勤務を経て独立。