イジメは教育問題ではなく、環境問題だ - 赤木智弘
※この記事は2014年08月30日にBLOGOSで公開されたものです
読売オンラインに「道徳の教科化 思いやりの心を培う授業に」という記事が掲載されていた。(*1)曰く、「学校でのイジメが深刻化している。道徳の教科化には、「特定の価値観の押しつけにつながる」といった批判もあるが、的外れ」だそうだ。
一読して思うに、まぁ無責任ですな。
そもそも「思いやり」というのは、日頃に様々な他者と付き合った結果、自ずと他者の存在を理解し、自我とすり合わせることによって、生まれてくる協調性とか、逆に相手に反発しながらも、それでもお互いに上手くやっていく能力というものをさした言葉であると、僕は考えている。
ならば、思いやりを涵養するのは、できうるかぎり多くの他者と触れ合う環境だ。学校以外の様々な立場の人が集まる場所である。そうした場所で多くの軋轢を経験する事こそ、他者を思いやれる人間を生み出すために必要ではないだろうか。
しかし、教師と同じ教室の生徒という人間関係の中でタコツボ化していくしか無い学校では、他者を徒党を組んで「身内」とみなしていったほうが楽に過ごすことができる。そして身内の中で権力関係が生まれ、イジる側とイジられる側が発生してしまう。そうした関係性が行き着いた先が「イジメ」である。
イジメが発生するのは主に学校や会社の部署といった小規模なコミュニティにおいてであり、そこへの依存が深まれば深まるほど、イジメも深刻化していく。
社会全体では子供による凶悪犯罪は減る一方であり、ごく一部の特異的な犯罪がマスメディアで流布されているのみである。イジメの「深刻化」という言葉も、裏を返せば統計的な数字が増えていないがために考えられた印象操作に過ぎない。
しかし一方で、労働分配という点で考えると、自己責任が強く求められる昨今の社会情勢においては、子供はより安全な就職先を見つけなければならなくなっている。会社が新入社員を選別するにおいては、これまで以上に学校での成績や内申というものが、将来の就職などに大きな影を落とす可能性が高く、学校という組織への依存は強まっていくだろう。そうしたことから「イジメによるドロップアウトの影響が深刻化している」とは言えよう。
すなわち、イジメが発生しやすい環境に、子供が依存しなければならない状態を維持したまま、小手先の「道徳」というデタラメ教育(*2)によって、イジメをなくそうなどと言っていることが、僕から見れば無責任極まりないとしか思えないのである。
子供に教育をする側に課せられた使命は、子供に対して「イジメをするなよ! 絶対にするなよ!!」などというイジメフラグを立てまくることではなく、子供が置かれているイジメに至りやすい環境因子を出来る限り取り除き、子供が学校内の人間関係に気を使わずとも、勉強や運動や遊びに集中して打ち込むことができる環境を作り出すことであるはずだと、僕は思う。
*1:道徳の教科化 思いやりの心を培う授業に(YOMIURI ONLINE)http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140827-OYT1T50144.html
*2:今の道徳教科書には「江戸しぐさ」すら掲載されているのだから、学問としてはデタラメと称して良いレベルであろう。